ここまでやってきて、もう一つ、父さんには思い悩んだことがあった。それは遺書を書くことだった。

肺がんにならなければ、絶対にそんなことはしないし、考えもしなかっただろう。けれでも、このとき父さんは真剣に考えて、レターセットを買ってきて、真っ白い封筒に「母さんとサチへ」という宛名を書いた。便箋にも同じように書いた。

しかし、そこからまったく何も書けなくなった。

便箋を破り捨て、母さんとサチの名前を渾身の思いをこめて書きなおした。

何度も繰り返した。

遺書を書いておくべきだと考えたのは、胸腔鏡下手術の結果、外側からは見えない転移が発見されたり、想像以上に肺の状態が悪かったりする場合があるかもしれないと思ったからだった。それに術後の合併症のために容態が悪化することだってあり得る。そんなもしものときのために、話しておくべきことを書き綴っておこうと思ったんだ。

それが書けなかった。

単身赴任はよくない。夜、一人になると無性にイライラした。

だから、もっと事務的なことを、たとえば銀行の印鑑はどこにあるのかとか、生命保険の証券をどこに置いてあるのかとか、そういうことに無頓着な母さんに遺言のようなメモをつくって渡せるようにしておこうとしたけれでも、これも途中で投げ出してやめた。

そんなことは、大人であれば後からどうにだってできることだ。こんなときにわざわざ書きとめておくこともない。父さんは、一体、何をしているのだろうかと思った。何をやりたいんだと自問自答した。身辺整理をすれば、かえって死を待つばかりになってしまうではないのか…。

がん告知からその日までわずか一ヶ月。

父さんは、内面ではまだ自分自身を受け入れることができずに動揺していたんだ。

「がんイコール死」ではない。そのことはわかっている。「ステージⅠA」が現状の診断。だから、5年生存率は70から80%と高い。それもわかっている。それでも、そのときの父さんは、自分がどうすれば強くなれるのかを探しだすことができていなかった。

このときの父さんは、とても神経質になっていた。

「あんた、今度の土曜日は休みやろ?」

母さんから電話があった。

「旅行しよ。横浜。前から泊まりたかったホテルニューグランドがとれたで」

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