世界で一番大きな魚と、幸せな恋の結末

 世界で一番大きな魚はジンベエザメだ。サメの中でも群を抜く巨大さに、英語では「Whale Shark(クジラザメ)」という名前が付いている。大きな海洋生物は他にもいるが、イルカやクジラは哺乳類。“魚”としてはサメが一番大きいのだ。


 9年前、私はその世界一大きなサメに恋をした。


 子供の頃から水族館が好きだった。実を言うと海で泳ぐのは苦手で、泳げないわけではいのに、何が潜んでいるのか分からない壮大さが怖かった。その反動だろうか。自分は安全な場所にいて、通常なら決して出合うことのない海の生物を眺めていられる時間が楽しかった。社会人になる頃には都内近郊の水族館に月に1度通った。何度訪れても飽きることはなく、周りには「水族館オタクだよね」と笑われるほどだった。


 2007年の5月、友人を訪ねて沖縄に行った。当時那覇に住んでいた大学の学友は、そんな私のために、「美ら海水族館」に連れて行ってくれた。そこで私は、見たこともないほど巨大で、美しい斑点模様を持つサメに出合った。

 「黒潮の海」という名前の付いた巨大な水槽に、マンタやたくさんの魚とともに悠々と泳ぐ3匹のジンベエザメがいた。私は一瞬にして目を奪われ、その場から動けなくなった。優しい友人の「気が済むまで見ていていいよ」という言葉に甘え、水槽の分厚いアクリルパネルに額を付けるようにして、たっぷり30分、ジンベエザメたちが空を飛ぶように頭上を行き来するのを眺めていた。

 巨大な体に、雪が降ったような背中の斑点模様。大きな口(正面から見ると笑っているように見える)、小さな目、白い腹。見ていると自然と笑顔になった。ひと目惚れだ。こんな不思議な生き物がゆったりと日々を過ごしている世界がある。それを思うだけで心の奥底がじわじわと温かくなっていた。


 東京に戻ってからも、熱は冷めなかった。あの雄大な姿を見たくて、関東で唯一ジンベエザメを飼育している「八景島シーパラダイス」に一人でも出かけた。ひと気の少ない時間を狙って水槽前に座り込み、1時間近くも眺めていた。書籍やポストカード、関連グッズを買い込み、部屋に飾った。ずっと何年も飾っていた。

 数年後、「ジンベエザメと泳げるツアーがあるよ」と教えてくれたのは、ダイバーの幼なじみだった。そのツアーでは、かなり高い確率でジンベエザメと遭遇できるポイントに連れて行ってくれて、シュノーケルでも一緒に泳ぐことができるのだという。あの巨体でプランクトンしか食べないサメだからこそのツアーだった。

 海、しかも外洋で泳ぐこととか、長期の休暇が取れるかとか、お金とか、不安の種はたくさんあった。それも私は「行きたい」と即答した。

 話は驚くほどトントンと進んだ。心からやりたいと願うものは、そうなのかもしれない。しかるべき時が来れば、邪魔されることなく叶うものなのかもしれない。その年の8月、私はフィリピンのセブ島に飛んだ。


 当日は快晴だった。海に向かう小さな船の中で私はずっと夢の中にいるようなふわふわした気持ちでいた。これから起こることが、島に着いてからも、移動の車の中でも、水着を着て船に乗った後もずっと信じられずにいた。隣にはツアーのことを教えてくれた幼なじみが笑顔で座っていた。

 その背中が見えた時、それまでのふわふわした気持ちが吹き飛び、一気に目の前の光景に引き付けられた。すぐ近くの海の中で、おそらく10体以上の巨大なシルエットが泳いでいた。

 「水に入っていられるのは一時間。自分からは近づかないし、触らない」その徹底を約束して、私たちは順番に海に入った。シュノーケルをくわえ、水の中に潜り込んだ時の感覚を私は一生忘れないと思う。


 雪が降ったような白い斑点模様の背中がすぐそこにあった。漁師の投げるエサを吸い込んでは、少し離れてまた戻ってくるジンベエザメたち。真っすぐこちらに向かってくる少し笑ったような顔を、固唾を飲んで見つめていた。あの小さな目が一度ならずこちらを見つめていた気がした。

 時間はあってないようなものだった。あの時海に入っていたのが5分なのか、1時間なのか、私にはまったく分からなかった。ただずっと見ていたかった。時折、空気を吸うために浮上する以外は、ずっと水の中に潜って彼らを見つめていた。ふと気配を感じて下を向くと、すべすべした背中が私の足ビレを掠めて泳いでいくこともあった。恐怖はまったくなく、空を飛んでいるように感じた。この先決して忘れることはないだろうと確信できる、幸福な時間だった。


 あの経験が1つの恋で、恋がいつか終わるものなのだとしたら、その幸福な時間の中で私の恋は終わった。好きで、好きで、逢いたくてたまらなかった相手に、想像以上の状況で会えたとき、たぶん私の中で恋は完結したのだ。“これ以上のことはもうないだろう”と確信に近い気持ちが生まれ、それでいい、と自然に思えた。


 多分それは、このうえなく幸せな恋の結末だった。


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