SPINNING(R)(スピニング):帰国、そしてスランプ

前話: SPINNING(R)(スピニング):師匠との再会
次話: SPINNING(R)(スピニング):日本人唯一のマスターインストラクターになる
帰国後初めてのSPINNING(R)(スピニング)のレッスン。選曲もイメージもバッチリ。レッスンへ向かうときにわくわく感がある。
クラブに到着するとスタッフの方が興奮気味に教えてくれた。
15台のバイクが満員。キャンセル待ちが居るという。
みんな何かを期待してくれていたんだろうな!


そして、館兄に足りなかったのは自信。自分は正しいことを行っている、と言う確信を持てることで、説得力が生まれたのだと思うのです。


ですが、この後も何度もスランプの波に飲み込まれます。97年に続き、2000年、2004年とアメリカに渡りSPINNING(R)(スピニング)を初め、様々なバイクエクササイズを体験しました。その中で感じてきたことは,決定的に何かが足りないと言うことなのです。


特に2004年は4日滞在して参加したどのレッスンにも感動を受けることが出来ませんでした。


失意のまま、フライトの朝を迎えたのですが、

「このまま日本に帰って、僕はSPINNING(R)(スピニング)レッスンを行う事ができるのだろうか」

と言う、恐怖心に襲われました。


そういえば、と、宿の近くに通りかかった「Yoga & Spinning」というスタジオの朝7時のレッスンに飛び込みました。ここはSPINNING(R)(スピニング)の本部からそれほど離れていない、正式に認定された施設でした。

「おお!やっぱりこれだ!」

やはりSPINNING(R)(スピニング)が一番僕と相性が良い。

でも、その時にはまだ答えを見つける事はできませんでした。そして、再びスランプの時期を迎えることになるのです。SPINNING(R)(スピニング)のインストラクターになって10年が経とうとしていました。

大きな会場で沢山のバイクとスピニングをやりたい!


それは、スピニングを始めたときから、館兄の中に有る感情でした。どこに行っても、そんな話しをしていました。

館兄が関わるいくつかのクラブさん達が、バイクを貸してくれることを快く承諾してくれて、40台というイベントを行う事ができました。トランスのDJさんや、和太鼓奏者のかたとコラボしてのイベントでした。

そんなイベントを作っていく中で、更にいくつかの出会いがあり100台のバイクが集まることが、可能になりました。場所も貸して頂けました。多くの方が手伝ってくれました。館兄の夢を叶えようと、それは面白いねと、そう言って頂きました。

そうして2007年7月7日。100台のバイクとそれを超える参加者を集めて、福岡で初の、日本でも数少ない、大きな規模のSPINNING®イベント【100Spin!】が開催されました。

夢中になってやりきって、館兄は本当に燃え尽きてしまいました。


白状すると、もうレッスンやりたくない、とまで感じていました。

そんな状態で、でも、もう一つの事案が動き出していました。それは、館兄を日本人として初めてのスピニングのマスターインストラクターにする、と言うモノでした。
ですが、100spin!までと、後では館兄の感情は随分変わってしまいました。

このまま、こんな感情のままでスピニングのマスターインストラクターになって良いのだろうか?と言うモノでした。

日本に正しくスピニングを伝えるという責を、こんな感情の館兄が担って良いのだろうか?

気持ちは強く揺れ続けました。

ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。ご覧いただいているサイト「STORYS.JP」は、誰もが自分らしいストーリーを歩めるきっかけ作りを目指しています。もし今のあなたが人生でうまくいかないことがあれば、STORYS.JP編集部に相談してみませんか? 次のバナーから人生相談を無料でお申し込みいただけます。

続きのストーリーはこちら!

SPINNING(R)(スピニング):日本人唯一のマスターインストラクターになる

著者の館 正訓さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。