第2章 鉄砲玉放浪記

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~青蒼色の蕾続編

欲はなかった。お金も必要な時必要な分だけあれば良かった。何故こんなにも放浪に魅了されたのか。日本中の美しい景色に出会った。人生で初めてのことに出会った。そして大勢の人と出会った。その時の私はそれら全てのことがお金よりも魅力的だった。わずかなお金とTシャツとジーンズ。カメラと抱えきれない程の思い出。これがわたしの持っている財産の全て。父はもう私とぶつかることもなくなり、「全くもう。お前は鉄砲玉のようにあちこち吹っ飛んでいくなぁ...」と言いながら見守ってくれた。

おばちゃんになってしまった今、褪せていく記憶をここに詳細にとどめておきたいと思った。


会社を辞めて一か月。家出ばかり繰り返していた高校時代から、実家にこんなに長い時間いることなどなかった。私を苦しめていた全てのことから解放されたかの如く、わたしは元気になっていった。心と身体は連動していることを実感した。


いつまでもふらふらもしていられない。なんせ無一文なのだ。私は、地元の町役場で臨時職員として働くことを決めた。特に父はそのことをとても喜んだ。そして私に安い中古車を見付けてきてくれた。自分で働いてとった免許。免許はとったものの車までは購入する余裕がなかった。家計も苦しかったと思うが、車を見付けてきた父の行動を見て、どんなに喜んでいるのかは私にも相当伝わってきた。


役場の職員の中には、小中学校で一緒だった先輩が働いており、私はすぐに馴染むことができた。殆どの若者は、高校卒業と同時に大学や仕事を求めて都会へと出て行く。この田舎町に残るのは、大抵家を継ぐなどの理由からだ。町から若者は出て行く一方で、町に若い人が入ってくることは珍しことだ。出会いの少ないこの田舎町の中では、私のような人は歓迎され注目される。

私は役場の野球部のマネージャーにもなり、一緒に遊ぶ仲間はあっという間に増えた。そんな中から何となく付き合う人も。初めてともいえるごく普通の恋愛。大人になった私。両親にも付き合っている人がいることを紹介したが、それはごく普通のこととして両親も彼を迎えてくれた。何もかもが順調なスタートだった。臨時職員は契約で仕事をする。契約を更新しながらの仕事の継続だ。そのことに不満があったわけではないが、私の中ではふつふつとサービス業への情熱が湧き上がってきていた。ホテルの仕事が嫌になって辞めたわけではない。一度サービス業を離れてみたことで、またあの仕事がしたい、もう一度あの仕事の充実感を感じたいという思いが日に日に強くなっていく。秋が近づくたびにその思いはますます募り、私はついに求人情報を購入するとスキー場のペンションで住み込みの仕事を見つけた。丁度役場での臨時の雇用期間が切れるころから仕事が開始できる。願ったりかなったりの条件。スキー場には、私の前職場のホテルが経営するリゾートホテルが建っている。私にとっては何となく安心できる場所だった。その上、私には住み込みという条件は持ってこいだ。すぐさま履歴書を送ると面接日の連絡があった。私は小躍りした。父には話づらかったが、隠していてもいつかは判ることなので役場の雇用契約期間契約更新をやめスキー場に仕事に行くことを話した。父は反対だった。せっかく親元に戻り、地元で仕事を見付け働き始めたという状況に安心し満足していたところを突然の不意打ちにあい、ショックを隠せなかったのだろう。私と父はまたぎくしゃくした関係に戻ってしまった。

「とにかく明日は、スキー場に面接に行くから。」

スキー場は自宅から車で三時間半ほどかかる場所にある。翌日の天気予報では寒波が入りこみ厳しい冷え込みになると言っていた。11月も末に近いといつ雪が降るかは判らない。

「お前その夏タイヤで行くつもりなのか?冬タイヤに履き替えないと事故にあうぞ。」

父は私にそう言った。私は何としても面接に行きたい一心でタイヤ交換をすることにした。時刻はもうすぐ夕方。この辺では、タイヤを交換してくれる店も遠く、今からでは間に合わない。タイヤ交換などしたこともない。、何せ私はつい最近までペーパードライバーだったのだから。私は教習所の教科書を引っ張り出しタイヤ交換の方法を読みながら作業することにした。なかなか外れないナット。かじかむ手。必死で格闘すること四時間。タイヤを四本変え終わるともう七時近くになろうとしていた。意地でも父の力は借りるつもりはなかった。私達は似たもの親子で私もかなりの頑固者だ。一旦言葉にしたことは、何が何でも貫き通すところがある。だから私と父は折り合えずぶつかるのだ。

翌日は予報通りかなり寒さの厳しい朝だった。眠い目をこすりながら部屋の窓から外を覗くと、父は私の交換した冬タイヤのナットを一つ一つ締め直していた。しかも早朝。まだ私が寝ているだろう時間に。心がチクンと痛んだ。いつも父はそうだった。そっと影から見守ってくれている。父には見えていないが、私は窓の外の父に深々とお辞儀をした。会話をするとまた素直な自分でいられなくなるから。私は後ろ髪をひかれる思いで出発した。車の免許をとってから、職場までの往復以外運転したことがなく、初めての遠出ということもあり、緊張しながらの運転だった。

ペンションはこじんまりとしていたが清潔感があり。すぐに気にいった。オーナーと料理長、私より6歳年上の女性従業員が住み込んで、ペンションを運営していた。その日のうちに採用の返事を頂いた。役場の臨時雇用満期まで働いてすぐにここで働くことで了解をもらった。私は心躍らせながら、帰り道を走った。

父の思いは理解できたが、私は今自分自身の足で自分の人生をしっかりあるいていきたいと思い始めていた。


役場での臨時雇用期間が満期を迎えるとすぐ荷物をまとめ、私はスキー場のペンションへ向かった。近隣のペンションもシーズン到来に向け、慌ただしく準備をすすめペンション街の中は活気づいていた。私の住む部屋は六歳年上のY子さんと同室。二段ベッドの上段のみが私の空間。私の他にもう一人住み込みのアルバイトが採用されていた。私より10歳年上の男性だった。私とY子さんは、「お兄ちゃん」と呼ぶことに決めた。お兄ちゃんは屋根裏部屋で寝泊することになった。こうして5人の共同生活が始まった。

ペンションでの生活は忙しかった。朝は5時に起き、身支度を整えて朝食に準備をした。朝食が終わるとチェックアウトするお客様の対応に追われ静かになったと同時に休む間もなく部屋の掃除、大浴場やロビーの掃除をする。掃除には私達の他に地元の主婦2名がアルバイトに来ていた。掃除が終わるとお客様がチェックインし始める五時頃までは休憩時間だ。五時を回ると一気にお客様が帰宅し、レストランでの食事の準備をする。私はウェイトレスをし、食事が済むと片づけをする。ペンションには地下があり、カラオケ&バーがあった。お客様の希望により開くバーで希望があれば私達がカラオケをかけ、お酒を準備しなければならなかった。小さな空間。いつの間にかお客様と一緒になって歌い、飲むこともしばしば。そんな次の日の朝食の準備は眠くてたまらなかったが、若い私は少しも苦には感じていなかった。その上、私はここに来て夢中になっていることがもう一つあった。私の実家の傍にはスキー場などなく、子どもの頃のスキーと言えばプラスチックのミニスキー。雪の中で遊んだのは低学年のうちだけ。スキーの楽しさも殆ど知らずに育った。ところがここではY子さんもお兄ちゃんも当たり前のようにスキーが出来る。そんな二人に連れられ何となく行ったスキーだった。そして一発でその楽しさにはまった。数少ない休みの日がやってくると私は町に出掛け、スキー道具を一式買った。それから私は、狂ったかのようにスキーに夢中になっていった。部屋の掃除が終わって休憩時間に入るとすぐにペンションを飛び出しスキー場へ行った。一人で黙々と滑り、時間になると急いで仕事に戻るという毎日だった。時には、ナイターに行くお客様に誘われ一緒に滑りに行くこともあった。スキー場は寒さが厳しくナイターのライトの光を浴びて降る雪がダイヤモンドダストのようにキラキラと輝いて見えることもある。寒いけれど幻想的な世界で私は好きだった。アットホームさはペンションの良いところとも言うべきか、ホテルよりももっと近い距離でお客様といられることが何より楽しかった。

週末を過ぎると月曜日はとんと暇になった。それは私の楽しみな時間だった。いつもの忙しさはなく、ペンションの中をゆっくりと時間が流れる。ロビーには大きな暖炉があり、マスターが火を入れる担当だ。早々と掃除を終わらせ、暖炉に火が入るとロビーのソファーに全員集合し、ゴロゴロしてテレビを見たり、本を読んで過ごした。お兄ちゃんとY子さんと私はまるで本当の兄弟のよう。一番年下の私は皆から可愛がってもらえた。長女で家ではいつもしっかりしなくちゃいけなかった私に、初めてお兄ちゃん、お姉ちゃんが出来たかのようで嬉しくてたまらなかった。

ある夜、私は普段の不摂生のせいで風邪をひき高熱でダウンした。一人ベッドで休むことになった。お客様がどやどやと入ってくる時間になると、みんなに申し訳ないし、情けないしで涙が出た。お客様の夕食を片づける時間になると、Y子さんが部屋に夕食を運んでくれた。

「料理長が身体を温めなさいってスープを作ってくれたよ。」

おかゆと湯気のあがるコーンスープだった。思わずこらえていた気持ちが溢れ涙が出てしまった。たかが風邪でも知らない土地に来て病気になるということは、なんと孤独な気持ちになることだろう。家族のような仲間の温かい心使いに身体の芯から温まっていくような気持ちだった。スープを飲んで暖まると私は深い眠りに落ちていくことが出来た。


ペンションでの生活を私は全力で楽しんだ。初めて広がる自分の知らない世界。そのどれもが新鮮だった。シーズンが終わり、私達は再会を約束して別れた。また地元に戻ったのだが年末からはまたここに戻ってこようと決めていた。いつまでも感傷にひたっている暇はない。次の仕事をなんとかしなければ収入を得ることは出来ない。私はすぐに地元で仕事探しを始めた。

地元での仕事が案外すぐ見つかった。地元には有名な鍾乳洞があり、春、夏、秋と観光客で賑わう。鍾乳洞の周りにはいくつかのお土産屋とホテルが建っている。かつて、高校時代よくアルバイトをしていた場所だ。私は、そのホテルの一つで期限付きのアルバイトをしようと考えた。冬を迎えるとここは客足が途絶えるので、私はまたスキー場に戻れる最高の条件だ。即採用を頂いた。実家からは車で30分ほどで通える場所なのだが、私はそのホテルの寮に入れてもらうことにした。空いているので使っても良いと返事をもらった。朝食サービースには通勤が辛いという理由もあったが、実家に住むのが何だか重たく感じたからだ。多分父の過剰な期待が重たいのだろう。傍にいて欲しいという気持ちが伝わってきて、がんじがらめになってしまうのではと不安になるのだ。近くにいながらも両親とは少し距離を置きながら生活したいという気持ちがあった。

田舎の小さなホテル。フロント係、レストランのサービス、部屋の掃除、売店のレジなどここではなんでもこなさなければならない。ハイシーズンは多忙な毎日だった。

高校を卒業してすぐに地元を離れた私は、地元で飲みにいったことなど一度もなかった。若い男性従業員の一人が私をよく飲みに誘ってくれた。彼は長男で、両親の面倒を見るために地元に残った一人だ。そのうち、彼の交友関係を通して地元に飲み仲間が広がっていった。よく連れて行ってもらっていた居酒屋には、地元のテニスサークルのお疲れさん会の場所だったらしく、顔を合わせる回数が多かった。たまには合流して飲むこともしばしばあった。そのテニスサークルでテニスを教えているのは、子ども達に英語を教えるために教育委員会で働いているアメリカ人だと知った。町内の小中学校で英語の授業をすることを仕事としている留学生だった。趣味のテニスで地元のテニスサークルの講師をしていた。かつて私も小中学校時代には、町のアメリカ人の先生から英語を教えてもらった記憶がある。


地元に帰ってくると、昔の同級生に会うことも多くなる。かつて高校時代に父と私の事で腹をたて「絶好」と言われてから四年。殆ど口を聞くこともなかったE子が地元に帰ってきていることが判った。私達はどちらともなく会う約束をした。二年という年月は随分私達を大人にしていた。

「なお、あの時はごめんね。私、本当にあの時はなおのことが許せなかったの。」

「ううん。いいんだよ。E子が言いたかったことは十分分かってたもん。でもあの時の自分は突っ張ってたから全然素直になれなかった。」

E子の父親は体が弱く病気がちで、母親の稼ぎで暮らしていた。常に小さい頃から傍で両親の苦労を見ているからこそ、甘ったれた私を許せなかったのだと思う。

「それにね、あの時は人を好きになるとか、恋愛とかよく分からなかった。だからなおが何故あれほどまでになるのか理解できなかった。でも今の自分ならわかる気がするよ。私ね、高校卒業して東京で働くようになって、一人で寂しくて。そんな時優しくしてくれた会社の上司を好きになったの。不倫してた。好きだったけど常に苦しくて。一緒に居たいけど常に現実はそうできなくて。先にも進めないし後戻りも出来ない。どうしようもない苦しみにもがいて、別れる決心をしたの。別れたら、もう会社にもいられなくなるから、仕事も辞めて帰ってきたの。人を好きになるって気持ちが止まらなくなることなんだと思った。今の私ならあの頃のなおの気持ちがわかるよ。」

E子と私は4年の時間をかけてお互いを許し合うことが出来た。幼かったあの頃の私。でも、友達だからこそ、厳しいこともあえて言ってくれたのだ。私には最高の友達がいたんだと今更ながら気が付いた。


仕事がお休みだった日の午後、私は自転車で町内をふらふらと走っていた。地元に戻ってから自転車に乗って出かけることが休みの日の日課になっていた。ゆっくりと景色やその日の空気を感じながら走るのが気持ち良かった。今日は天気も良く、頬をなでる位の柔らかい風が気持ちいい。高校の前を通りかかる。懐かしく感じた。激しい高校生活、社会人一年生の生活だった。穏やかな今日のお天気のような今が嘘のような激しい日々がこの道、この場所にも刻まれている。通学路を走ってみた。思い出があちこちによみがえってきて私は随分長い間ブラブラしていた。町役場の前を通りかかった瞬間、外国人らしき人が自転車で出てきた。すぐに教育委員会にいる英語の先生だとわかった。飲み会で一緒でも話はしたことがなかった。多分彼には私の記憶など全くないだろう。でも私は飲み仲間から色々噂を聞いていたので、何だか知らない人という感覚はなかった。

「Hi」

突然自分の口から言葉が飛び出してしまった。彼は自転車を止めて「Hi」と返事をしてくれた。私は高校卒業程度の英語しか話せない。自分の気持ちを巧みに伝えられるほどの英語力は全くない。彼もそれほど日本語が話せるという感じではなかった。でも聞くことの理解はできるようだった。この勇気はどこから出てくるんだろういいう位にかたことの英語で彼と話している自分のびっくりしてしまった。

「Please become a friennd.」


すると「Of course.」と返事が返ってきた。連絡先を交換し別れた。私は自分の大胆な行動に驚いた。世間ではこれを逆ナンというのかもしれないが、私はただ素直に友達になりたいと思ったのだ。

それから何日かたって、彼が突然働いているホテルに訪ねてきた。仕事の後、自転車でここまで来てくれたのだ。うまく言葉にできないからと一生懸命手紙を書いて、それを届けに来てくれた。突然の出来事にびっくりしたけど、まさか私のことを訪ねてきてくれるなんて心にも思わなかったから素直に嬉しかった。手紙を開けてみると、ひらがなを習いたての子どもが書いたような文字で便箋いっぱいに言葉が並んでいた。しかも時々ところどころに地元の方言が混じっている。思わず笑みがこぼれた。

「今度一緒に海行くべぇ!」

彼の行きたい海とは、映画の撮影場所になった灯台のある先端の断崖。そこまでは、道なき道のような山道を一時間近く歩かなければ辿り着くことは出来ない。それでもいつか一緒に行ってみたいと想った。彼の行きたい場所にすぐにはいけないので、代わりに休日にドライブに誘った。彼に行く場所は秘密にしていた。全てサプライズで県内の私のお気に入りの場所に連れていくことを計画した。

高原を越え町に出てもう一つ峠を越えある農場へ向かった。観光地にもなっている農場なのだが、山が裾野まで広がり一本桜が大きく枝を広げ農場の中に迫力と美しさを添えている。美しい東北らしい景色だと感じて大好きな場所だった。カメラの好きな彼は夢中でシャッターを押していた。

「美しい景色だ。ここは日本ではないような....。まるでイギリスのような景色だ。」

かたことの日本語でそう呟いた。ゆっくりと春の風を感じながら一緒に歩いた。

帰る途中温泉に立ち寄った。こんな場所を彼は嫌がるのかなと思ったのだが、日本の文化を自然に楽しめる人だった。町に入り、二人でレストランに入って食事をした。なかなかうまく会話が出来ないため、お互い辞書をひきながらコミュニケーションをとる。それでも楽しい会話は十分に成立した。


それから私達はよく一緒の時間を過ごすようになった。彼は町のお寺にホームステイをしていたのだが、教育委員会勤務のため、町からもアパートの一室を提供され住む場所を二か所持っていた。もっぱらアパートにいることが多かった。音楽の話、アメリカでの生活の話、家族の話、テニスの話、旅行の話、話す事は尽きなかった。私が何より楽しみにしていたのが、彼の夢の話だった。世界中を飛び回っている彼。ホームステイも日本だけでなく他国でもしており、春からは京都大学に行くという夢のため今一生懸命働いている事、これから先もまだ行きたい国があり、そこへ向けての思いなど尽きることなく話した。日本に来るまでは、部屋の天井に世界地図を貼って、夜眠る時地図を見ながら現実になる日を夢見ていたこと。彼の話には希望が沢山詰まっていて、希望だけではなくそれを実現させる強い意志と行動力がある。私は聞いているだけでわくわくした。

とっさに「君の夢は?」と聞かれ、戸惑った。そういえば私はいつも彼の話を聞いてばかりで自分の夢など語ったことが無い。というかそもそも夢を見るということをしたことがないと思った。何か言わなくちゃと思った瞬間「沖縄みたいなとこに行って暮らしてみたい。」と答えてしまった。確かに沖縄にはいつか旅行してみたいと思っていたし、旅行雑誌も読んだりした。でも暮らすなんて考えもしていなかったことだ。

「いいね!!」と彼は私に笑顔を向けた。

彼に誘われテニスも始めることになった。テニスの後は、サークル仲間と一緒によく飲みに行った。初めて彼を知ったあの居酒屋さんに。一緒にサイクリングに出掛けたり、テニスに汗を流したり私達は夏、秋とずっと一緒に過ごした。そして秋の終わりに近づき、私はスキー場のペンションへ行かなければならない時期を迎えていた。春に戻ってきたときにはもう彼は京都に発った後だろう。私は初めて彼を好きになっていることに気づいた。気付いてもどうにもならない事も理解できた。私達はお互いに惹かれていた。でも彼にとっては夢の途中の出来事。

「別れることが寂しいの。一緒にいたい。」

答えは判っていたけど、彼に伝えずにはいられなかった。

「なおと出会った時、なおはまるで日本人じゃないみたいだと思った。日本の人、田舎の人みんなシャイなのに、出会った時なおから声を掛けてきてくれた。ここに来てからなおみたいな人に会ったことがなかった。なおと一緒にいると毎日が楽しかった。色んな話をするのが楽しかった。なおならきっと沖縄に暮らす夢も叶えることが出来る。そんな風に行動が出来るなおを好きになったんだ。」

「My sweet honey」そう言ってそっとおでこにキスをしてくれた。

彼が叶えようとしている夢を私が止めることなどできないし、彼の夢をいつでも一緒に応援してきた。本当は胸の中は、搔きむしられるように寂しくて苦しかったけれど、私達は笑ってそれぞれの夢への道を歩き始めた。彼とはずっと友達。彼がこつこつと努力し、その夢が叶う様子を傍で見てきて彼の意思の強さ、行動力、実行力そして前向きさと冒険心、その全てを尊敬していた。私も彼のような人に出会ったのは人生で初めてのことだった。私も顔をあげて、私の小さな夢を叶えてみようと心に決め、スキー場へ発った。忙しい位が良かった。彼のことはいつも心の中心にあり、考える程に寂しさが増してくるから。ペンションに向かう途中、本屋に立ち寄り、沖縄の情報誌を購入した。


ペンションに着くと懐かしい顔ぶれが揃って迎えてくれた。ペンションは、時が止まっていたかのように静かであの時のままだった。マスターはいつものように暖炉に火を入れ、料理長は厨房の整理をしていた。私は、持って来たスキー板を乾燥室に片付け、わずかな着替えだけの荷物を部屋へ運んだ。その夜は全員が暖炉の傍に集まり、再会を喜んだ。あっという間にあの頃の楽しさが蘇ってきた。五人だけで過ごすときは、節電のためロビーの暖炉の周りしか電気をつけないので、私達がいるところは暗闇にボーっと浮かんでいるかのようだ。私は、自分達が暖炉の光に包まれているような気持ちになるこの暗さが大好きだった。

次の日からは、オープンまでの準備をした。部屋を全部掃除しベッドメイキングした。大浴場、カラオケルーム、ロビーとたまった埃を払うよう丁寧に掃除した。ペンションへの予約も好調だった。リピーターのお客様からも沢山予約が入っている。再会が楽しみだった。


去年と違う私の持ち物は、沖縄の本と英語の辞書。それから彼の写真。夜ベッドで一人になると、私は沖縄の本を開いて地名を覚えてしまう位くまなく読んだ。沖縄で暮らすと言葉にしたことを実現してみようと決めていた。本に載っている写真を見るたびにその美しい海への憧れは強くなっていった。私が育った地元にも自宅から車で40分ほどのところに海はあるのだが、沖縄の海とは全く違う。黒く荒々しく、海面を見ていると引きずり込まれそうで怖い気持ちになるような海だ。リアス式海岸は、砂浜があって泳げる様に見えても急に深くなり、波の流れが速く遊泳禁止の場所が多い。それから私は辞書をひきながら時々彼に手紙を書いた。


ペンションの生活に戻ると、私はまたスキーに夢中になった。狂ったかのように毎日仕事の合間に滑りに行った。アルバイトで来ている地元のおばさんの旦那さんが、スキー場で働いていたため、時々使いかけの回数券を持ってきてくれた。周りからの助けもあり、私は遊びを続行させることができた。

リピーターのお客様からはナイターに誘われることが多く、遠慮なく一緒に行かせてもらった。一人で行くのもいいが、誰かと行くスキーはこれはこれで楽しい。意気投合すると話したりず、宿に戻ってバーで飲んで歌って盛り上がることもしばしばだった。

年越には、毎年スキー場でカウントダウンの花火が打ち上げられる。今年は、お客様も従業員も全員で花火を見た。その年の空は晴れ渡り星がいっぱい輝いて美しかった。花火を見ながら私は胸の中で夢への想いを巡らせていた。


お客様から手紙や贈り物を頂くことも多々あった。中でも驚いたのは私の誕生日の日に届いた贈り物だ。夕方の忙しい時間帯にその荷物は届き、夜仕事がひと段落してから暖炉の前で皆と一緒に箱を開けてみた。余りにも大きな箱で一体何が入っているのだろうと全員興味深々。開けてびっくり。何とそこには真っ赤な見事なバラの花がどっさり!数えてみると私の年の数だけ入っていた。箱の中には手紙が入っていた。それは去年から何度もここに宿泊してくれていたお客様からだった。手紙には遠距離でもいいから、結婚を前提に付き合ってもらえないかと書かれていた。そんな予想もしない出来事に驚くばかりだった。手紙を読んで真剣な思いを知り、お花をもらって喜んでばかりはいられないと思い、今の正直な気持ちと夢への想いを自分なりに一生懸命手紙にした。真剣な気持ちだと感じたからこそ、私も真剣に答えようと思った。


そんな中、一緒に働くY子さんにも変化が訪れようとしていた。Y子さんがお見合いをすることになったのだ。結婚適齢期のY子さん。両親が心配してすすめたおお見合いだった。お見合い当日本人もドキドキしていたのだが、私とお兄ちゃんもドキドキしながら見送った。Y子さんは、ひそかに料理長に思いを寄せていた。料理長は結婚もしているし奥さんもいる人。でも子供ができなくて、料理長と奥さんと二人で生きて来た人。その想いを断ち切りたいという気持ちもあったのかもしれないと私だけは思った。

私とお兄ちゃんはY子さんが帰ってくるのを首を長くして待っていた。帰ってくると質問攻め。第一印象はあまり良くなかった。でもそれから二人でデートをするようになった。Y子さんのデートの度、私とお兄ちゃんもY子さんのデートがうまくいくようにと作戦を練る。盛り上がる!そんな時間を重ねるうちY子さんとお見合い相手は気持ちが打ち解けはじめ、いつしか楽しそうにデートに出掛けるようになった。

私は少しずつ夢を現実に近づけるべく気持ちが固まってきていた。何とも大胆な考えだったのだが、求人情報もないなか、いちかばちか旅の情報誌に載っているホテルに働かせてもらえないかと直接連絡をしてみようと考えた。

思い切って実行に移し、電話をしてみるとあっさりと履歴書を送ってくださいと連絡があった。準備しておいた履歴書を送るとホテルから面接に関する案内が届いた。何の迷いもなかった。仕事に差し支えないよう日程調整して休みをとり、飛行機と宿の手配をした。あっという間に沖縄行きが決まり、私は何かに突き動かされるように沖縄に向かった。

空港におりたった瞬間、空気が違うと感じた。面接場所は、那覇から大分北部にあるリゾートホテルだった。初めての場所とは何てワクワクするのだろう!目に入るもの全てが新鮮で強烈に私の中に次々飛び込んでくる。のどかなサトウキビ畑の中を走ると海の傍にそのホテルはあった。フロントで要件を話すとすぐに担当者が出迎えに来てくれた。部屋に通され早速の面接だった。その頃はバブル全盛期。どこに行っても仕事が転がっている状態だったからか、沖縄には本土から移住者も多く珍しくなかったからなのか、私はその場で採用と返事をもらった。五月からの仕事を約束し、その日は予約していた沖縄の宿に一泊した。節約のため、かなり安い民宿のようなところに宿泊した。お湯がチョロチョロとしか出ない。その時初めて、私は知らない土地にたった一人でいることを感じた。たったこれだけの出来事なのに、なぜか一人だということを急に心細く感じた。そうだここに来てから、面接以外人と会話らしい会話をかわしていない。誰も私のことなど知らないところなのだから。


ペンションに戻ると残り二か月を仕事に打ち込んだ。沖縄へ行くための飛行機代、当面の生活費を準備しなくてはならない。でも周囲の協力ももらいながら、沖縄に行くとスキーが出来ないと欲張ってスキーも今まで以上に楽しんだ。沖縄に行ったことで新しい生活のイメージが作りやすくなり、夜はこれからの生活のことを思い胸を躍らせた。不安など全くなくなっていた。次の目標を見付けたことで、私は毎日が充実していると感じていた。


ペンションでの生活も残りわずかとなった。ここで働く5人はまたそれぞれの場所へと戻っていく。私はここでの生活を卒業するときがきた。シーズン最後の夜は、料理長が腕によりをかけて私達のために料理を作ってくれ、全員で打ち上げパーティーをした。お酒を飲んで、美味しい料理を食べて、沢山の思い出話で盛り上がる。本当の家族のような付き合いだった。同じ釜の飯を食うとはこういうことなのか。私には最高の財産が出来たと思った。

皆より何日か早くここを出発する私は、今日特別にお客様の客室で眠ることになった。ペンションの中で一番広くて、真正面にスキー場が見える景色の良い部屋だ。ところが部屋に入ると明かりがついていて、中にはお兄ちゃんがいた。

「なんで?」と聞くとお兄ちゃんは

「Y子ちゃんが気を使ってくれたんだ。」と答えた。私はその時初めてお兄ちゃんの気持ちに気が付いた。本当にいつも優しくて私を大切にしてくれたお兄ちゃん。まさかそんな気持ちでいてくれるなんて夢にも思っていなかった。二人で飲みながら話をすることにした。お兄ちゃんは私に沖縄行きをとどまって欲しかったのだ。春からお兄ちゃんが店長として働くレストランで一緒に働いて欲しいと言ってくれた。私はお兄ちゃんに半年前の自分を重ねていた。彼に京都行をとどまって欲しいと心の中では思ってしまった自分自身と。私の心の中にはいつも彼がいた。

「お兄ちゃん。今までお兄ちゃんの気持ちに気づかなくてごめんね。私って鈍感だね。私もお兄ちゃんのことは好きだよ。まるで自分の本当の兄のように思って慕ってたの。お兄ちゃん、私ね沖縄に行くことには一切迷いがないの。お金もないけど人生一度位、自分の力で大冒険をしてみたい。私の夢なんだ。」お兄ちゃんは寂しそうに笑った。

ベッドは二つ並んでいたが、お兄ちゃんは「何もしないから、最後位一緒に眠ろう。」と言った。私は素直にその言葉に従った。お兄ちゃんの腕の中で、程よくお酒も回り安心して眠りに落ちてしまった。お兄ちゃんは眠れなかったのかもしれない。眠りに落ちていく中で、お兄ちゃんの身体は少し震えているように感じた。


次の日の朝は、朝食ととると長居をせずに皆にお別れを告げペンションを後にした。二年間お世話になったこの土地も暫らく見ることもないと思うと、車で走りながら無性に寂しかった。しかし私は夢を胸に抱え新しい明日に向かって走り出していた。


スキー場から戻って沖縄に出発するまでにはまだ時間がたっぷりあった。両親には言い出せず、ギリギリになってから報告しようと思っていた。私は何ごともなかったように実家で過ごした。もともと実家は酪農を営んでいたのだが、私が高校生になった頃経営は行き詰まり、父は悩んだ末にシイタケ農家に転向することを決めた。私の家ばかりではなくここの地区一斉にシイタケ農家への転向をした。村ぐるみで事業転換を行い、高額な設備は共同で出資し村で共有できる仕組み作りをしていた。あれから何年もたち、やっと経営は軌道に乗ってきていた。私はあのころ荒れていたから、今まで一度も両親を手伝ったことなどなかった。沖縄に行くまでの二か月の間、父の仕事を手伝ってみようと決めた。給料もないが、親孝行のつもりで父と母と常に仕事を共にした。丁度その時期はシイタケ農家の一番忙しいときなのだ。生の原木にシイタケの菌を植え付ける。それを秋まで寝かせ、原木に菌が回ったところで水分を与えるとシイタケがニョキニョキと芽を出す。温度管理をしながらシイタケを栽培し、後はひたすらキノコ採りとパック詰め作業が続く。気温が高い時季には、一日中寝る暇もなくキノコ採りとパック詰めが続く。居眠りをしながらパック作業に向かうほどだ。高校時代は手伝わなかったけど、両親が苦労していることは知っていた。

植菌作業は、太い原木にドリルで等間隔に穴を開け、その穴におが屑状になった菌を植菌機で一つ一つ埋め込んでいく。その後、菌を埋めた穴に高温で溶かしたロウを塗り封じる。かなりの重労働だ。高齢の祖父母と家事もこなさなければならない母と私と父と五人での作業だ。植菌には時期があり、期間内には全ての菌を植え付けなければならない。父がドリルで穴を開け、私が植菌機で菌を入れる。祖父母

がロウを塗り、母が作業の終わった木をひたすら運ぶ。いつの間にかこんな流れが出来た。父がいなければ、私がドリルで穴を開け、作業の中心になって仕事をすすめた。合間に母とシイタケを取り、夕方から夜にかけてひたすらパック作業をする。母が夕飯を作りにいくと、私が一人でパック作業をした。パックに詰め終わると父は車で一時間離れた市場までシイタケを運ぶ。父一人の運転では心配だからと私が助手席に一緒に乗っていくことが多くなり、父もまたそれを期待していた。帰ってくるとかなり遅い時間。カラスの行水のようにな勢いでお風呂に入ると、倒れるように眠る毎日だった。

こんな過酷な毎日でも、不思議と仕事が辛いとは思わなかった。むしろ頭の中では、明日はどんな風に仕事をこなしたら効率がいいだろうなどと考えている。それは、父と母が楽しそうに仕事をしていからだ。パック詰めのような単純作業が続くとき、父と母と私で分業しながら作業を進めた。そんな時父と母はよく夢を語り合っていた。

「父ちゃん、頑張って町で表彰されるような立派なシイタケつぐっぺぇな。」

「いつかもう一つハウスを建てて、もっといっぺぇシイタケ取って売るべぇな。」

自由に夢を語り合い、目を輝かせるのだった。

私は小さなころから酪農をしている父が好きではなかった。身体に染み付いた独特の匂いもあまり好きではなかった。思春期にさしかかると両親の仕事に対して反発心を持つようになり、手伝うどころか出来れば目を背け見ないようにしてきた。シイタケ農家に転向した時も、何故安定した収入を得られる仕事をせずに、苦しい選択ばかりをするのだろうと無性に腹が立った。父が今までどんな思いで仕事をしてきたかなど理解しようという心さえ持てなかった。父と母は転んでばかりではなかったのだ。転んでも手と手を取って立ち上がり、自分たちなりに夢を持ってシイタケ農家をしてきたのだ。二人の夢は少しずつ美を結び、一昨年前初めて町のシイタケコンクールで優秀賞をもらい、そのことは二人の夢を更に大きく膨らませた。私は初めて父と母の生きざまを真正面から見て触れたと感じた。今更ながらこの仕事で私達兄弟四人を育ててきてくれたことに大きな感謝が湧いた。父はお金の為だけにこの仕事を続けてきたわけではなかった。誇りをもって夢を持って続けて来たんだ。沖縄に出発するまでの限られた時間で、あんなに遠かった父と母が、どんどん近い存在になってくるように感じた。


「俺は見送らねぇからな。」

私が沖縄に出発する日、そう言って父は私に背中を向けた。やっとスキー場から戻ってきたと思ったら、私は今度は沖縄行を勝手に決めており、父にしてみればとんでもなく理解できないことだったに違いない。傍にいて欲しいという親心は全て無視。やりたい放題、ちっとも思い通りにならない私は、腹立たしかったと思う。

「そっか。じゃあしょうがないね。行ってきまぁ~す。」

明るく言って家を出た。本当は遠くから私を見送っていた父の事を気付いていたのだが、私は気付かないふりをして後ろを振り返らず出発した。これ程までに両親と濃厚な時間を初めて過ごし、迷いはなかったはずだけど、涙がこぼれそうになったから。お父さん、お母さんごめんねと心の中で謝った。


とうとう沖縄で暮らす夢は現実になった。彼と出会っていなければ、今私が那覇の空港に立っていることもなかっただろう。彼もまた京都へ引越し、夢を現実に変えていた。深呼吸すると、沖縄に匂いは南国の花の香だった。歩き出した瞬間、私は突然自分が遠くまで来てしまったことを実感し、少し怖くなった。ここには誰も知っている人はいない。しかも私は所持金が10万しかないのだ。もう戻れないということを実感した。何とかしてここで生きていかなければならない。弱気な自分を奮い立たせるように私は速足で歩いた。バスに乗り、働く予定のホテルへ向かった。

フロントで用件を告げると、すぐに人事担当者が出迎えてくれた。人事担当者は開口一番

「本当に来たんだね~!」だった。

「え?働かせて頂けるんですよね?」とびっくりして質問すると担当者は笑って、「勿論ですよ。」と答えた。明日からの仕事のことなど一通り説明を受けた。そんなこんなで一日があっという間に過ぎてしまい夕方になってしまった。私はにわかに今日寝る場所が心配になった。そこで人事担当者に

「あの~それで、正直に申し上げると実は住む場所を決めていないので、今日眠る場所すらないんです。会社に寮はあるんでしょうか?」と質問してみた。

「え!そうですか。それでは、寮が空いているか確認してみましょう。」

相部屋ではあったが寮は一つだけ空いていた。同じ部署に所属する年も同じ位の子との相部屋だった。会社で、布団を一組準備してくれた。今日眠る場所ができただけでもこの上なく幸せだったのだが、布団まで準備してもらい、涙が出そうになった。


次の日は出勤時間が同じだったため相部屋の子と一緒に会社に行くことになった。きさくですぐ仲良くなれそうだった。昨日は、周りの景色さえ見る余裕もなく気にもとめず寮に入ったが、一般のアパートの何部屋かが会社の寮になっているこの建物のすぐ目の前は美しい遠浅な海だった!

「近所のまちゃーぐぁでがちまいしない?」そう言ってS美は私を誘った。

「え???何だって???よくわかんなかった。もう一回言って。」

「近所のまちゃーぐぁでがちまいしないって言ったんだよ。沖縄の方言。まちゃーぐぁはおばあが一人で店番しているみたいな近所によくある小さなお店のことで、がちまいは軽くたべない?って意味なんだよ。」と教えてくれた。イントネーションも違うし、方言と言ってもあまりにも日本語とかけ離れた言葉にも聞こえ、私は最初のカルチャーショックを受けた。


私の配属は、ホテルの中の和食レストランだった。昼は、沖縄そばなどの郷土料理の和食レストラン。夜は、沖縄の食材を使用した沖縄風和食懐石レストランになった。特に夜は着物でのサービスで、お料理一品一品をお客様に説明しながら持ち回る。レストラン勤務は不規則で交代制。若い人が中心に配属されていた。私にとっては、皆に中に溶け込んでいきやすい環境にあった。働いている仲間は、厨房に一人、山梨から来た人が居る他は全て地元の人ばかりだった。ここは誰もが親切でフレンドリーな人ばかりだった。

沖縄での生活は、毎日が驚きとカルチャーショックの連続だった。アパートには浴槽がついていない。日本人たるものお風呂はゆっくり浸かって一日の疲れをとるものという考えが絶対的だった。でもS美に聞くと「普通湯船なんかないし、あっても入らないよ。水を贅沢に使ったら水不足になるし、暑いから一日に何回もシャワー浴びるからいらないんだよ。」なるほど。暮らしてみると夜になっても変わらず暑くとにかくシャワーを浴びたくなる。社員食堂に出てくるメニューも食べたこののないものが時々出てくる。週末になるとS美は時々自分の実家に私を連れて行ってくれた。家族の皆はまるで自分の娘のように私を迎えてくれた。その時ばかりは故郷を思い出し涙が出そうになった。お母さんは行く度沖縄の料理を作ってくれもてなしてくれた。

慣れてくると一人で出勤できるようになり、そんな時私はS美と一番最初に行ったまちゃーぐあで菓子パンを買い、アパートの目の前の海まで行き砂浜に座り海を眺めながら朝ごはんを食べるのが楽しみだった。こんなに海を目の前にして生活したこと自体が生まれて初めてだった。波は静かでまるで湖のよう。砂浜は真っ白い。よく見ると砂ではなく全て珊瑚の欠片なのだ。波が押し寄せては返すたびにしゃらしゃらと珊瑚の欠片がぶつかり合う音がする。真夏の海はどこまでも青く美しかった。砂をつかんで手のひらに広げてみると、小さなピンクや黄色や白の貝殻が混じっていて、さらによく目を凝らして見ると無数の星砂も入っている。私は宝物を発見したかのように嬉しかった。こうして朝ごはんを食べながら星砂や貝殻を小瓶に集めるのを密かな楽しみにしていた。海には無数にナマコがいて、ここが綺麗で美しい海なのだということを物語っていた。毎日海を眺めながら、海は空を映す鏡のようだと思った。空が青い日は海も青い。曇っていればグレーがかった水色の海になる。こんな小さな発見でさえ私を毎日喜びで満たしてくれた。

真夏、地元にの人は夜に遊ぶ。小さな子供からおじい、おばあまでが夜に元気なのだ。エイサーの掛け声や三線の音がどこからともなく聞こえてくる。職場の飲み会は、お店からビーチへと変わる。地元の人はこの飲み会をビーチパーティと呼ぶ。皆でお酒やつまみを持ち寄り飲み明かすのだ。サービス業の場合、全員時間を合わせることは難しい。途中から参加するもの、朝ビーチから出勤していくもの、ビーチの片づけをするものと様々だ。毎週のようにビーチに繰り出した。夜の海で遊んだり、時には釣りをしたり、夜空を眺めたり、人数が多い日もあれば数人の時もある。賑やかに騒いだり、語り合ったり、遊びに没頭したり、その時々で思い思いに時間を過ごし朝を迎える。ビーチには年齢を問わずいくつものグループがビーチパーティをしている。おじい、おばあのグループがいることも珍しくない。なんて素敵な生活習慣!私はすっかりビーチパーティが大好きになった。

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