ある小さな女の子の生きた姿

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 桜が大好きだった娘。風に舞う桜の花びらを見て、「寂しい」と涙を流していました。桜を見ると娘との思い出が蘇り、グッと胸が締め付けられる思いがします。






娘の時は立ち会い出産でしたが、

産まれた時は力強いく泣き声をあげ、

その輝いた姿に私も妻も感動して涙をながしました。


人生で一番嬉しい瞬間に立ち会えたことを感謝しました。



その後元気いっぱい、愛嬌たっぷりに育っていましたが、

2歳の時にインフルエンザに罹り

看てもらっていた小児科で、

血液検査の結果で気になる数値があると言われました。



それから暫く経過を見ていた娘。

なかなか良くならない。



そこで今度は総合病院に移り、

お薬を使った治療を始めることに。



ステロイド剤を使ったので、

ムーンフェイスと言って顔が丸くなりました。

怒りやすくもなります。

それから食欲も旺盛になります。



娘に辛い思いをさせるのは心苦しかったけれど、

ここを乗り越えたら元気になって、

またいっぱい遊べるんだと

娘にも自分にも言い聞かせて治療に臨みました。



またしばらく経過を見ていましたが、

なかなか良くならない。

なんでだろうなぁ??



見た目は普通だし、

その辺の女の子と変わりません。

だけどちょっと血が元気を造れなくなっている。



天気の良かった日、

娘と妻と私で公園に遊びに行きました。

娘は公園が大好き。

車で行けるところはたくさん行きました。



新しい公園で娘が楽しそうに遊んでいるのを

見るのが好きでした。



でもその時は公園の遊具を前にしてうずくまっていました。

どうしたの?元気ないね、遊んでいいんだよ。

妻も私も娘の体で起こっている異変に気づきませんでした。



お外で食べようと思って持って行ったおにぎりも

ほとんど口にせず。

なんか調子悪くなっちゃったかな?

そう思って自宅に帰りました。



翌日は病院受診の日。

数値はどうかな、良くなっているといいな、

そんなことを思っていました。



血液検査を受け・・・



結果、緊急入院となりました。



血小板の値が1万を切っている。

非常に危険な状態。



なんで??

いや、娘は変わらないよ。



娘の体の中で何が起こっていたか分かりませんが、

血小板1万を切るというのは本当に危険。



血小板は健康な人だと通常20万~40万ぐらいあります。

血液を止める役割があり、

私たちが手などを怪我して切って出血しても、

そのうち止まるのは血小板が働いているからなのです。



1万を切ると、

当然血は止まりにくくなります。



もし転んで頭を打って、

頭の中で出血してしまったら・・・

考えただけでもぞっとします。



とにかく緊急入院。

先生も2歳でこういう症例に慣れていなかったのか、

戸惑っている様子が伺えました。



看護師さんたちがバタバタ入ってくる、

落ち着かない個室で

娘と妻はベッドで身を寄せ合って

あまり眠れない夜を過ごしました。



翌日には小児専門の病院へ転院。

産まれて初めて乗る救急車。



まだ血小板の数値は低いままなので、

寝たまま絶対安静のまま、

約一時間ほどかけて転院先の病院へ向かいました。



小児専門病院で詳しく調べてもらうと、

考えられる症例としてあげられたのは

再生不良性貧血という血液の難病。



100万人に何人かという極めて稀な病気。

その病院でも扱った症例は数えるほど。

そして、原因は不明・・・



自分の娘がまさか・・・とパニックになりました。

どうしたらいいのか?

いや、何が悪かったんだ?

思い当たることを考えて、

あの時のあれが悪かったのか?

色々なことが頭をめぐりました。



でも医師は原因について考えるのではなく、

これからどうやって病気を治していくかということについて、

話してくれました。



原因についてはいくら考えても分からない部分が多い。

そして血液の病気は進行も早いので、

すぐ治療にとりかかる必要があると。



まず輸血の同意を求められました。

先ほどお伝えしたように、

娘は現在血小板数一万を切っている、

非常に危険な状態にあります。



体のことを考えて輸血をした方が良い。

もちろん輸血のリスクはあり、

その説明を受けて同意した上で輸血をお願いしました。



自分の娘がまさか輸血をしてもらう日がくるとは。

次から次へと起こっていく現象に

ただただ身を任せているような状態で、

しっかりしなければと思いなおしました。



幸い小児専門病院ということもあり、

娘と同じぐらいの年の子が入院していたり、

看護師さんや保育士さんたちといった職員さんも

こどもの対応に慣れていたのは助かりました。



そして混乱している私たちにも、

大変だったでしょうと声をかけてくれました。



自分のこどもがそんな状態になり、

ショックが大きく呆然となることもあったと思います。

そうした言葉かけで救われた部分がありました。



今までママやパパといるのが当たり前だった環境。

それがガラッと変わるので、

少しでも娘の不安を軽減できればと思っていました。



でもその病院は24時間付き添えるわけではなく、

夜間は完全看護となります。

面会時間が終わる20時になると、

私たちは娘を病院に残して帰らなければなりません。



初めての夜は泣いた泣いた。



「帰らないでぇぇー」

と泣き叫ぶ娘。



それまでに20時になったらママもパパも帰らなければいけないこと、

明日またちゃんと来ることを伝えてはいましたが、

娘は嫌がりました。



それはそうです、

今まで3人毎日一緒にいるのが当たり前だったのですから。

今まで3人川の字になって寝ていたのですから。

今夜から一人で寝るなんて、

まだ2歳の娘にとっては理解できなかったことでしょう。



なくなく夜勤の看護師さんに抱っこしてもらい、

私たちは何度もごめんねを言い、

病棟を後にしました。



病棟の前のエレベーターに乗る時も

娘の泣き声は聞こえてきます。

妻も私も切なくて切なくて

ボロボロ涙を流しながら帰途につきました。



その夜は娘のことが気になってあまり眠れませんでした。

泣き止んだかな、

おしっこ行きたいって看護師さんにちゃんと言えてるかな。



妻も私もあまりしゃべらなかったと思います。

ただ娘への思い、

それだけで時間が過ぎていたと思います。



面会はお昼からなので

待って待ってやっとのことで娘に会いに行くと、

夜間泣き通したのでしょう、

両目がぷっくりと腫れていました。



笑いながら、

「がんばったんだよー」みたいなことを話してくれて、

妻も私もまたポロポロと泣いてしまいました。



それからは面会時間が終わる20時までに、

なんとか寝かしつけるように配慮しました。



だって20時までに寝られなければ、

私たちがバイバイしてまた大泣きで分かれるのです。

あんな切ないことはできるだけ経験させたくないと思い、

妻も頑張って寝かしつけました。



娘はいつも妻の手を触って寝ていました。

必ず白い手袋をしてもらい、

さわさわしながら寝るのが娘の安心できる寝方でした。



パパではダメ。

妻でないとダメでした。



そういえばその時は四人部屋でしたが、

隣の女の子はパパが大好きな子だったそうです。



夜パパが会いに来ると、

パパに帰って欲しくなくて絶対寝ようとしなかった。

そのうち20時が来て、帰らなければいけません。



当然女の子は大泣き。

それではと、

20時までにママが女の子を寝かしつけます。

その間パパは別室で待機。



そして眠った後、

パパが女の子の寝顔を見に来ていました。



会いたいけど、

自分が会いに来ると泣いてしまう。

パパの思いやりがとても温かく切なかったです。



四人部屋の時は、

必然的に同室のこどもたちや親御さんたちとの交流が生まれ、

緊張感のある入院生活に

少しの安らぎを生んでくれました。



ある時は病室がプレイルームになったかというぐらい

おもちゃが散らばって、

キャアキャア言いながらこどもたちが遊んでいた時がありました。



入院していると言っても、

まだ体調が良い状態だと、

体力もありあまっていますから、

そこはこども。

もう思いっきりやりたい放題になります。



水疱瘡が流行り病室から出てはいけないとなった時は、

見かねて看護師さんが病室の一角に畳を敷いて、

プレイルームのように遊び場を作ってくれたことがありました。



こどもたち同士だけではなく、

付き添いのお母さん同士も交流することで、

自分のこどもがどうなるか分からない不安を打ち明けあい、

時に愚痴ったり時に励ましあうことで、

お互いを支えあっていました。



とにかくこんな環境は特殊ですから、

普通に元気に過ごしていたら、

絶対に経験しないようなことをしている。



他人には言ってもなかなか響かない部分も、

同じような境遇の人と交流することで、

気持ちを分かち合うことができ、

緊張の紐を緩ませることができたのだと思います。



思いやりのある方たちばかりでした。

この時妻は下の子を妊娠していました。



お腹が大きくなりつつある中、

娘の病気が分かり、

毎日病院へ通い詰める日々でした。



ある時お母さんが「お腹大丈夫?」と

話しかけてきてくれました。



少しの立ち話でしたが、

ふっと気持ちが軽くなったそうです。



後から、そのお母さんのお子さんが

危険な状態にあったことを知ります。



自分のこどもが大変な時に、

そうやって他人を思いやることのできる姿に感動しました。

そしてここはそういう優しい空気に包まれている、

そんな病棟だったと思います。



医師は、できるだけこどもたちが

家族と過ごす時間を大切に考えてくれていました。

だから治療中でも、

調子の良い時は外出することもできました。



娘の場合は、

大好きなアイスクリームを食べに行ったり、

海を見に行ったりしました。



病院の中にいると、

なかなか外の空気を吸うということもありませんから、

そういう家族にとってごく普通の景色が

すごくありがたかったのだと思います。



外出して、

また病院に戻ってこなくてはならないんだけれど、

そうやって息抜きというか、

こどもが家族と過ごすことで

またちょっと病院で頑張ったらママやパパと遊びに行けるかな、

そうやって治療に前向きに臨めるように、

そんな思いもあったのかもしれません。



とにかく家族一緒に過ごす時間がすごく貴重なもので、

そんな当たり前のようなことがとってもありがたく尊いものに感じました。



入院生活も数カ月になってくると、

娘もだんだんと病院での生活に慣れてきてくれました。



夜勤の看護師さんからは、

いつも夜の娘のことを書いたお手紙を残していってもらいました。



時には寂しくなって抱っこしてもらったり、

眠れないときは絵本を読んでもらったり。

そうやって寂しさを紛らわせてくれました。



四人部屋だと、

誰かが寂しくなって泣くと、

その泣き声を聞いて他の子も起きてしまい、

皆で泣き出すということになります。



夜勤の看護師さんは大変だなぁと思いました。

でも皆勤務時間が終わっても、

一所懸命仕事をされたり、

私たちに話しかけてきてくれていました。



この人たちなら安心して娘をお願いできる、

そうやって信頼関係を築いていけたのかもしれません。



お薬による治療を行っていた娘ですが、

なかなか効果がみられずに輸血に頼る日々が多くなりました。



医師からは骨髄移植を勧められました。

リスクはあるものの、

やはり骨髄移植をすることが元気になる一番の方法だと。



誰から骨髄移植するか?

骨髄バンクのドナーさんには、

娘と骨髄の型が一つだけ違う人が50人ほどいました。



ドナーさんに骨髄を分けて頂くこともできましたが、

もし家族で骨髄の型が合う人がいれば、

赤の他人よりもその方が良いとのこと。



こどもと親の骨髄の型が合う確率ってご存知ですか。



わずか4%です。

ほとんど合わないと思った方がいいです。

合ったら奇跡。



ところがその時は私たちにもう一人家族がいました。

弟が生まれ1歳になっていました。



1歳の弟がドナーになれるのか?

もう少し体を大きくする必要がありましたが、

もし骨髄の型が合えば、

娘にとって希望が産まれることになります。



結果、お姉ちゃんと弟は

全ての骨髄の型が一致していました。

すごい、すごすぎる。



兄弟で骨髄の型が一致する確率は、

25%です。



親と比べたら6倍以上にもなりますが、

それでも4人に3人は一致しないのですから、

まさに奇跡と言っていいと思います。



そしてその骨髄の型が一致していると分かったのが、

ちょうど娘の誕生日でした。

弟からお姉ちゃんへ、

産まれて初めての誕生日プレゼントなんて、

かっこよすぎるだろーとみんなで涙を流しながら大喜びしました。



そして奇跡を信じました。



骨髄移植。

言葉としては耳にしたことがあるものの、

はたしてどういう治療をして、

娘はどうなってしまうのか?



骨髄移植を行うと、

髪の毛が抜けます。



産まれてから一度も切ったことのなかった、

娘の自慢の髪が・・・とも思いましたが、

看護師さんに「髪の毛はまたはえてくるから」と言われ、

あぁそうだなと変に前向きに捉えたのを覚えています。



全身だるくなり、吐いたりということもでてきます。

それに加えて、

今回は息子も入院して頑張ってもらわなければならないので、

親としては気が気でない。



でも病院側の配慮があり、

壁を挟んで隣に姉弟入院して、

治療を行うことができたのはありがたかったです。



息子の方はというと、

その時アレルギーがあり大変でした。

まあ食べられるものの方が限られている。



小麦、乳、卵、魚、大豆・・・

あげたらきりがないほどのアレルギー。

だから食べられるものって言ったら、

米とかぼちゃ、さつまいも。

後は粉ミルクで栄養補助したりといった具合。



お姉ちゃんは体が大きく、

弟とは3歳年が離れていました。

まして弟はその時1歳でしたので、

移植の時までに頑張って食べて、

できるだけ体を大きくするということがミッションでした。



息子くん、

頑張って頑張ってもう大丈夫かなというところで、

先生が骨髄移植をしましょうという話をされました。



娘にも移植をしてどうなるか、

どういう痛いことがあるか、

ちゃんと隠さずに話してくれました。



そうやってこどもにきちんと向き合うことで、

幼いながらも治療に前向きになれる姿勢が作られるのだと思います。



いよいよ移植の日。

まず息子から骨髄を採取します。



どれぐらい時間かかったかな。

先生が息子の骨髄をもって出てきたときは、

ホカホカで希望に満ち溢れているように見えました。

とても尊くて、

お姉ちゃんを助けてくれる大切な宝物のようでした。



それからお姉ちゃんの体の中に、

その弟くんの骨髄を入れます。



ルートを伝って赤い骨髄が娘の体の中に入っていくのを見ていて、

思わず鳥肌が立って涙がツーと頬を伝いました。



病室には数名の先生と看護師さんたちがいて、

本当に神聖な儀式のようで、

あれは経験しないと分からないと思いますが、

とても感動的なものでした。



この時娘も息子も感染しないよう、

個室に入っていました。



娘のベッド周りには透明のカーテンが吊ってあり、

空気も循環してとにかく感染予防がきちんと行われていました。



個室ということもあり、

お友達とも暫く会えませんから、

娘が退屈しないよう、

窓の外から写真を大きくして貼ったりして

無機質な病室を楽しくできるよう考えてやりました。



娘はその後髪の毛も抜けましたし、

吐いたり痛がったりということもありましたが、

ゆっくりゆっくり回復していきました。



隣で弟が泣いていると、

看護師さんに「かわいそうだから、行ってあげて」と

優しさを見せてくれるお姉ちゃんでした。



自分が辛い状況にあっても、

そうやって他人を思いやれる優しい子でした。



そのうち娘も息子も元気になり、

一緒のベッドで遊ぶこともありました。



娘の髪の毛はもうほとんど抜け落ちていたけど、

本当に二人で過ごすことが楽しいようで、

キャッキャ言って遊んでいたのを思い出します。



娘の体に病気がみつかり、

あれだけどん底にいた真っ暗な気持ちというのが嘘のように、

この時は希望に満ち溢れ、

笑顔の絶えない毎日だったと思います。



そして退院。

普通に自転車に乗ったり、

公園で遊んだりできるようになるなんて・・・。



我が子の回復が夢のようで、

嬉しくて嬉しくて頑張った娘と息子へのご褒美なんだと、

毎日家族一緒に過ごせる喜びをかみしめていました。



こうやって病気をしたという経緯があるため、

保育園等に行きたいと思っても

なかなかOKしてくれるところは見つかりませんでした。



ところが病院で知り合ったお母さんが保育士をしていたことをきっかけに、

なんと一緒に幼稚園へ行って話をしてくれたのです。



そのお母さんは「断られるなんておかしい」と怒ってくれて、

熱心に園の先生に説明してくれました。

そのお母さんのお子さんも、

娘と同じ病を患っていて、

ずっと一緒に治療を続けていました。



だからどういうところに気を付けて、

どうしたら園に通うことができるようになるか、

よく分かっていたのだと思います。

そのお母さんのおかげで、

娘は普通の幼稚園へ通うことができるようになりました。



今まではお家と病院でしか過ごしたことのない娘。

入園初日は手と足が一緒に出るぐらい、

ガチガチに緊張していましたが、

すぐにお友達に慣れて一緒に遊ぶことができました。



お友達と一緒に遊んだりお勉強したり。

そうやって普通の子がやっていることが、

自分にもできる喜び。



毎日本当に楽しかったようで、

今日は何をやったんだよ、

給食のお当番さんだとこんなこと言うんだよなど、

仕事から帰ってきた私に一所懸命お話してくれました。



そして運動会やマラソン大会にも出ることができました。

つい半年前までは入院していたなんてことを忘れさせてしまうぐらい、

元気いっぱい。

幼稚園に通える喜びを、

体いっぱい使って表現していました。



病院の方はというと、

月に一回ぐらい、

経過を見に通っていました。



お薬の変更があったり、

先生には幼稚園での出来事を話したり。

順風満帆にいっていたと思った矢先、

一つの暗い影が娘に忍び寄ります。



ある時先生から伝えられたのは

娘が白血病に罹ったというあまりにも辛い一言でした。



なんで?

あんなに頑張って辛い思いをして元気になったのに?



呆然自失となりましたが、

一度治療を経験しているからか、

ショックもあったのですが、

それよりはじゃあまた頑張って治すしかないという

思いにチェンジしました。



先生から娘に、

また治療が必要なことを話すと、

娘は気丈にも

「分かった、がんばる。がんばって、また幼稚園に行く。」

と娘は言ってくれました。



その娘の言葉を聞いて、

私たちも覚悟を決めました。

病気をやっつけるため、

また一緒に頑張ることにしました。



幼稚園の先生にも事情を伝えなければなりません。



担任の先生に話すと、

それからわずか一日の間に娘と先生方、

お友達みんなとの写真を撮って印刷して、

さらに一人一人メッセージを添えて

一冊の本にして娘へ頑張ってねと渡してくれました。



入院の知らせを聞いたお友達のお母さんは、

以前娘が書いたイラスト(女の子)があったのですが、

それをわざわざ刺繍してくれて、

その刺繍を表紙にして冊子を作ってくれました。

お友達みんなからの絵とメッセージを書かれていました。



娘が幼稚園に通えたのはたった半年。

でもその間にできたご縁で、

娘はたくさんのお友達ができて、

こうやって応援してくれるんだなと感動しました。

また戻ってくるからねとみんなに力強く約束しました。



以前入院した病棟へ戻ってきました。

もうすっかり慣れた看護師さんたちがいます。

一緒にAKBのダンスを踊った仲です。

みんな以前のように笑顔で迎えいれてくれました。



治療はすぐ始められました。

白血病の進行は早い。



娘にとって二度目の骨髄移植をしなければなりません。

幸いドナーさんがすぐに見つかり、

移植へ向けての治療が始まりました。



今回も調子が良い時は、

外泊して自宅で家族と過ごすことができました。

息子と大騒ぎで遊んでいましたっけ。



それからクリスマスにサンタさんからプレゼントしてもらった、

自転車にもたくさん乗りました。



白血病と宣告されても、

こうやって自転車に乗ることができる。



諦めたら終わりだと思いました。

娘は生きようとしている。

だからそれを支えてあげなければならないと思いました。



一度目の骨髄移植は息子から。

二人で頑張って元気になれたと思ったのに・・・。

でもあれだけ大変な思いをして奇跡を起こした娘なら、

また元気に帰ってこれるよなぁと思いました。



移植を終えて数日でリハビリがしたいと言い、

個室にリハビリの先生に来てもらって、

足の運動を行いました。



移植後数日でそんなことやる子はあまり見たことないと、

看護師さんたちも驚いていました。



元気に向って一歩一歩回復。

この時も娘は生きようと頑張っていたのだと思います。



ところが治療を続けていても、

なかなか思うように良くならない。

お腹が痛くてご飯が食べられないこともありました。

お腹を押さえてうずくまってしまう。



昨日良かったと思ったら、

今日は痛くて起きられない。

そんなことも珍しくありませんでした。



少し回復してきてお粥を食べられるようになった時、

本当に幸せそうな顔で

「おいしい~」

と言って一口一口

大事そうに口へ運んでいたのを今でも覚えています。



食べられることって嬉しいんだな。

娘を見ていると私たちが当たり前にやっていることが、

いかに幸せなことなのか痛感させられました。



またしばらくしてお腹が痛くて食べられなくなり、

点滴に頼る日が続きました。



そのうち病院の食事は

「美味しくない」と言って食べなくなりました。

拒否ですね。



長いこと治療を続けていても、

ちっとも良くならない。

家に帰って家族と過ごすこともできない。

そういうストレスも抱えていたのだと思います。



そこで先生が妻に、

「お母さん、お弁当を作ってきてくれませんか?」

と言いました。



少し調子が良くて自宅に外泊できた時、

妻が娘の好きなものを作ってみんなで食べました。

そしてそれは「美味しい」と言って綺麗に食べることができたのです。



病院の食事自体はもう食べたくないという意思表示をしているので、

お母さんの作った美味しいご飯を食べて、

栄養補給してもらいたい。



先生と栄養士さん、妻と

どういう風に弁当を作って提供するか相談しました。



娘のためならと、

妻はお弁当作りに励みます。



作ってから2時間以内に食べることが決まりなので、

いつも前日に下準備をしていて、

面会が始まる12時ぎりぎりに作り始め、

娘にはホカホカのあたたかいお弁当が届けられるようにしました。



幸い娘は妻の弁当を食べてくれて、

大好きな野菜の肉巻きや鶏肉のみそ焼きなど、

病院の食事を食べないことが嘘のように、

美味しい美味しいと頬張っていました。



桜が咲く時期になると、

ベビーカーに乗って

病院の周りの桜を見に行ったこともありました。



風に舞う桜の花びらを見て、

「さみしいよー」と泣いていました。

桜が大好きだった娘。

一年中咲いていればいいのに。



それから暫くして、

また厳しい状態が続きました。

体が大きいことが自慢だった娘の脛はほっそりして、

骨が折れてしまいそうでした。

肌もガサガサになり、

ベッドの上が剥がれた皮膚でいっぱいになりました。



自分で呼吸することが難しくなり、

顔全体を覆う酸素マスクをつけるようになりました。

それでも生きようと懸命だった娘。



私たちみんながもう一度奇跡を信じていました。

でも・・・。



何度目かの集中治療室で

先生や看護師さんたちと話をしました。

これから娘にどうしていくか。



大変厳しい状態であることは分かりました。

娘に何ができるのか。



混乱している妻と私に、

先生が

「娘さんに聞いてみてはどうですか?」と投げかけてくれました。



このまま集中治療室で治療を続けるのか、

それとも以前の病棟に戻って慣れた環境、

慣れた職員さんたちと一緒に過ごすのか。

また病棟なら妻も私も泊まることができると。



妻から娘に話をしました。

泣きながら話をする妻を見て、

娘はティッシュを手に取って妻の涙を拭いてくれました。



自分も苦しいのに、

まだ人を思いやることのできる優しい子でした。

そして娘は病棟へ戻ることを自分で決めました。



病棟では、ベッドを二つ並べてくれて、

妻と私も一緒に寝られるようにしてくれました。



骨髄を分け合った弟も会いに来てくれました。

お姉ちゃんの名前を呼んで嬉しそうでした。

この一年ぐらい、

外泊をしてちょこっと会っただけだったので、

こうやってゆっくり会うのはなかなかないことなのです。



大好きだったあんこも食べることができました。

喉が渇いたら砕いた氷を食べました。



お世話になったみんなが娘に会いに来てくれます。

夜は私に抱っこして欲しいと言って、

私の腕の中で抱っこされながら、

一緒に休みました。



それまで「パパは嫌い!あっち行って」と

ストレスをぶつけていました。

でもこの日はパパと寝たいと言ってくれた。

本当に嬉しかった。



次の日は妻の抱っこで休みました。

大好きな看護師さんも夜勤でいてくれました。



お熱がでてほっかほかの体で懸命に生きようと

一瞬一瞬を頑張って生きていました。



それから娘は、

妻と私に両手を握られながら

静かに静かに息を引き取りました。



小さく痩せ細った体で、

生きようと懸命に頑張った命。



どんな夢でも願い続ければかなうというのは、

嘘だと思いました。



あんなに生きたがっていた

娘の夢は消えてなくなりました。



痛くて苦しい思いをたくさんさせてしまった。

変わってあげることもできなかった。

せめて切ない思いを少しでも減らせたら・・・。

ごめんねはいくら言っても足りないぐらい。



でもこれだけは間違いないこと。

私はあなたに出会えたこと、

心の底から嬉しいと感じています。

出会ってくれて、

産まれてきてくれてありがとうね。



まだあたたかい娘の体をさすりながら、

たくさんのごめんねと感謝を伝えました。



病気はやっつけられなかったけど、

たった6歳でもめいっぱい

懸命に生ききったその姿は本当に立派だったと思います。



娘はいつまでも私たちの心の中に生きています。

これからもずっとずっと、

私たちの家族なのですから。

読んでよかった
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大切なストーリーをありがとうございました。言葉が見つかりませんが、家族というもののすばらしさを感じました。ありがとうございました。

松本様 とんでもありません。毎日、家族一緒にいられることのありがたさをかみしめています。あたたかいご感想をありがとうざいます。

心情が素直に表現され、心に残りました、

那賀様 ありがとうございます。

私にも小さな娘がいますのでとても他人事とは思えず、Fukushima様の文章を読んだ今、胸が締め付けられるようで、適切なコメントが思いつきません。この儚くも美しい文章を読ませていただいて本当にありがとうございました。

Hamanakaさん ありがとうございます。当たり前のようにいることが、実はとても幸せなんだと、娘が教えてくれたと思います。あたたかいコメントに、娘も喜んでいると思います。

涙しながら読みました。娘さんはきっと今でもご両親や弟さんの周りに一緒にいらっしゃると思います。

Tsurukame さん
ありがとうございます。弟を介して娘を感じる出来事があります。娘はこれからもずっとずっと私たちの大切な家族です。

病気は本当に難しいですよね。私はたまたま一命をとりとめましたが、生と死が紙一重なのは十分に感じました。

松本様
ありがとうございます。何故娘が死んだのか?考えても答えは出ませんが、私たちは生き続けなければいけないと思います。

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