僕は発達障害「親父と息子」

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         息子


  幼少期

 平成8年9月6日2828(ニヤニヤ)㎏で僕は生まれた。父の名は晋作。母の名は真里だ。両親は大学時代から付き合い卒業後3年で結婚した。父さん曰く「大恋愛だった」そうだ。なかなか子どもが出来ず7年目にして待望の子どもが出来た。それが僕、高杉リョウだ。見た目は五体満足な元気な子。僕には妹が一人いる。ジュン17歳高校2年生。そして僕は現在19歳大学1年生。青春真っ盛り。

 家業は建設会社を営んでいた。正直何不自由無く暮らしていた。毎年ゴールデンウィークは一泊二日で舞浜のシェラトンホテルに泊まりディズニーランド、ディズニーシーで遊ぶ。しかも部屋はスウィートルームだ。夕飯は鉄板焼き。ステーキだ。これがまた美味い。後から聞いた話だけどシェラトンホテルには当時父さんの友達が居てスウィートルームも通常のツイン料金で泊まれた見たいだ。持つべきものは友だ。夏休みは両親がダイビングをするので沖縄か離島に行く。そこでボートで沖に出て父さんが潜っている間、母さんとジュンと僕はシュノーケリングで遊ぶ。母さんもダイビングのライセンスを持っているけど僕らが小さい頃は潜らずに僕らの付き添いだ。冬休みは祖父母が暮らす宮城県に行きうちから見える裏山で毎日スキー三昧。スキー場は見えるけど車で行くとぐるっと廻るので45分位掛かった。春休みは父さんの友人の温泉旅館に泊まりに行くのが一年間のパターンだ。僕が初めて飛行機に乗り沖縄に行ったのは写真を見ると生まれて8ヶ月の頃だ。今思えば贅沢な話だ。

 僕が2歳の時妹のジュンが生まれた。僕は生まれて8ヶ月で飛行機に乗ったけどジュンは10月生まれで何と年が明けた1月に飛行機に乗って沖縄に行った。僅か3ヶ月だ。驚く。

 母さんは父さんに言ってたそうだ。「私はきっと男の子一人に女の子一人産む。でもそれで打ち止め」父さんはもっと欲しかったみたいだけど結果は母さんの言う通りになった。でもとりあえず男の子と女の子一人づつ生まれたのだから父さんも満足しているようだ。そして僕と妹の二人はお陰様でとっても丈夫に育った。病気という病気は二人ともしたことがない。父さんは良く「やっぱり母乳が良かったんだな。でもおまえらのせいで母さんのおっぱいは全部おまえらに吸い取られてしまった」となんだかよくわからない事を言っていた。父さんはお酒が大好きで毎晩酔っ払ってたけど兎に角明るいので僕のうちは家族4人とっても仲が良く本当に楽しかった。

 3歳になり地元の幼稚園に通い始めた。この幼稚園はプールもあり地元では人気の幼稚園で入園する為に徹夜で並ぶ人もいるほどだ。唯、身内に卒園児がいると優先的に入れる。運良く僕のおじさん(父さんの弟)がここの卒園児だったのですんなり入る事ができた。こうして僕の幼稚園生活がスタートした。

 父さんは身長180㎝位あって背が高い。だけど僕はこの頃は幼稚園で一番小さかった。順番はいつも一番前だ。又、正直言って僕は落ち着きがなかった。時々自分でもわからないけど大声を出してしまう。いわゆる切れるってやつだ。それとざわついた場所が苦手だった。大きな音がする所とか会話が激しい場所に行くと頭が変になりそうになった。「おばけのこえ」が聞こえる。あっちこっちから色んな変な声、音が反響して「おばけのこえ」になる。だからそういう場所では必ず耳を塞ぐ。最悪の時は耳を塞ぎながら逃げ出す。そんな状態だったけど何とか年少、年中と問題なく幼稚園生活を過ごしていた。でも何か違和感を感じていた。友達とうまく会話が出来ない。僕の言っている事が友達に通じない。「りょうくん。なにいってるかわかんない」こんな事を良く言われるようになった。両親も最初の頃は男の子は言葉が遅いと言うからあまり気にしてなかったようだけど流石に年長。6歳になる時期になっても上手くしゃべれないのはちょっとおかしいのではないかと思い始めた様だ。僕も意思が伝わらないので段々しゃべるのが面倒臭くなってきていた。そうなると周りからも自ずと離れる様になる。

 この頃母さんは自閉症の本なんかをよく買ってきて読んでいた。「ねーちょっとこの本読んでみてよ。ここに出てくる子。リョウと行動がそっくりなんだけど。うろうろしたりぴょんぴょん跳ねたりぶつぶつ独り言言ったりするのなんてそっくり。やっぱりあの子自閉症の気があるんじゃないかしら」「んー流石にちょっと変だよな。一度カウンセリングみたいなの受けてみたら」父さんと母さんは話していた。ある日病院の様な何だかよくわからない施設に連れて行かれて色んなテストの様な検査をさせられた。3箇所位でそんなテストを受けた。結果は当時は当然小さかったから聞かされなかったけど言語の発達障害だった。両親は相当ショックだった様だ。

 父さんは僕の様な発達障害の子を持つ親の集まりに一度参加したけど何か違和感を感じた様だ。「ママ。参加してきたけど何かちょっと違和感を感じるんだよな。子どもの行動なんかはリョウに当てはまる点も沢山あるんだけど、落ち着かせる為に薬飲ませたりするらしいんだ。何々って薬は効果があったとか副作用はどうだとかそんな会話なんだよな。リョウに薬を飲ませるとか冗談じゃないよ。何かあのグループとは合わない。もう参加はしない。リョウはそこまで酷いとは思えない」

 そこで父さんは知り合いの大学の先生持田先生に僕の事を相談した。持田先生は「兎に角お父さんと一緒にいる時間を増やしなさい」男の子はやっぱり父親と過ごす事が特に僕の様な子には大切だって言われた様だ。それからは出かける時はいつも父さんと一緒だ。父さんはスポーツが好きなのでサッカーを見に行ったり色んな所に一緒に行った。特に父さんは若い頃サッカーをやっていたのでよく見に行った。うちでも日本代表の試合はテレビで欠かさず見ていた。代表戦のテレビ観戦はまず代表のユニホームに父さん、ジュン、そして僕の3人は着替える。そして国歌斉唱の時には「全員起立」君が代を歌う。これが我が家の代表戦の観戦スタイルだ。流石に母さんは着替えてなかったけど君が代は歌っていた。実は意外にのりのいい所もあるけどほとんど父さんに無理やりやらされていたんだと思う。父さんとはお風呂も寝床も一緒だ。時には母さんとジュンを置いて二人だけで出かける時もあった。父さんが言う事は何でも聞いた。

 僕は体も小さく幼稚園では一番身長も低かったし自分の意思も上手く伝えられず会話も満足に出来ない。何か話そうとしても何て説明したらいいのか言葉が出てこない。終いには「あーもういいや」と投げ出してしまう。自分から友達を避ける。作らない様になっていた。

 自分の意思も伝えられず会話も満足にできない。ましてや体も小さいと言う事でいじめを危惧した両親は僕を公立では無く私立の小学校に入れる事を考え始めた。公立より私立の方が多少はそういったいじめも少ないのではないかと思った訳だ。当然受験準備何か全くしてなかった。ダメ元で3校受けて見た。結果は何と2校合格。当然面接もあったけど小学校受験の面接は「好きな食べ物はなんですか」「ラーメン」こんな調子だ。とても会話とは言えない。正直助かった。合格した2校は1校が歴史と伝統がある学校。もう1校は新設校で僕の代が1期生。両親は新設校を選んだ。理由は「新設校なんてなんだかリョウの為に新しく作った学校って気がするじゃん」って父さんが言っていた。まー他にもちゃんと選んだ理由はあると思うけど。結果的にこれは大正解だった。少人数制で1クラス20人。学校には水族館やプラネタリウムもあり僕は大変気に入った。特に何が良かったって本当に面倒見のいい学校だった。ここの学園グループは中学校から大学まであったが小学校がなかった。学園長は小学校を創る事が夢であった様でようやっと悲願の小学校を設立する事ができた訳だ。だからかも知れないけど大変な力の入れ様だった。一人一人に本当に目を配ってくれた。ここに入れてくれた両親には本当に感謝している。「ありがとう」

  

  小学校

 ちょうどこの頃僕の暮らすまちでは市会議員の選挙が行われた。何とここに父さんが立候補した。地元からの推薦ももらえず大変厳しい選挙だった様だ。又、僕を地元の公立学校ではなく私立に入れたのが仇となった。「自分の子を地元の学校にも入れない奴が何で地元の為に仕事をする市会議員に立候補するんだ。おかしいだろう」結構色んな事を言われた様だ。当時僕の言語の発達障害の事は誰にも言わなかったので周りの人たちは言いたい事を言ってた様だ。父さんは時の市長の要請で出たみたいだけど地元からの反発はひどく「勝手に出たんだからほっとけ」「他に候補者もいるんだから迷惑なんだよ」色々言われた様だ。でもお陰様で何とか当選した。家には無言電話とか掛かって来て変な雰囲気だったけど当選した途端目の前の霧がぱっと晴れたように家の中も周りの人たちも明るくなった。そしてこの選挙を通して父さんと母さんは一段と仲良くなった様だ。

 さて、僕の小学校生活が始まった。初めての電車通学。最寄り駅にはスクールバスが迎えにきている。毎日ワクワクして楽しかった。最初の2週間だけ母さんも学校の最寄り駅まで一緒に来てくれたけどその後は一人だ。父さんは母さんに「おまえ幾ら何でもたったの2週間じゃ無理があるだろう」「大丈夫。大丈夫。皆んなそんなもんだよ」「本当かよ」やっぱり母親の方が度胸がいい。僕も度胸がいいのか無頓着なのか一人でも全然平気だったしかえって気楽で楽しかった。又、うちの最寄り駅では父さんが毎週1回駅で喋っていた。所謂朝の駅頭。該当演説だ。「行ってらっしゃい」「いってきます」父さんとアイコンタクトを交わすのも楽しみの一つだ。

 でもやっぱり私立でもいじめはあった。ゴールデンウィークが終わって6月頃から何となくクラスの体勢みたいなのが出来てきて案の定僕はいじめられる側だった。そりゃそうだ。何たってまともに会話が出来ない。友達も作れないし幼稚園の後半から話をするのも面倒臭くなっていた。それに一人でいる方が楽しかったから自分から打ち解けようとは全くしなかった。

 1年生の夏休み前に初めての三者面談が行われた。母さんが来た。「先生。どうですかうちの子は」「はっきり言ってちょっと自閉症の気がありますね」実は入試に合格した後に母さんは父さんに「あなた。リョウの障害の事。話した方がいいかしら」「別にいいだろう。ちゃんと面接も受けて正々堂々受かったんだから」結局言わなかった。だけどさすがに先生にはわかった様だ。「お母さん。何れにしてもまだ小学校1年生。子どもはどんな成長をするかわかりません。しっかり見守って行きましょう。私は彼の成長を楽しみにしてます」「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 いじめには大きく分けて2種類あると思う。一つはやたらと構われる。ちょっかい出される。二つ目は無視。仲間はずれだ。最初は一つ目だった。兎に角休み時間になるとちょっかい出された。「おまえさーなにいってるかわからねーよ。ちゃんとしゃべろよ」「だから。あー。・・・・・」言葉が出てこない。ちくしょう。「なんだおまえ。ばかじゃねーの。おーい。こいつしゃべれねーぞ」ちくしょう。ちくしょう。こんなのはしょっちゅうだ。こづいてくる奴もいた。最初の頃はいい加減頭にきていじめっ子に向かって行った。「あー」「ドスン。バタン」返り討ち。そりゃそうだ。僕はクラスで一番のちび。相手は一番のでか。

 それからはあまり無駄な事はしなくなった。授業が終わって休み時間になるとすぐに教室から出て行って一人になれる場所を見つけた。そこで一人で休み時間は過ごした。これが僕にはとっても楽しかった。何故なら周りを気にせず一人で色んな事を想像したりできるからだ。時にはチャイムが鳴ったのも氣付かずにいたら先生たちが探し回って迷惑をかけた事もあった。それからは僕の4つある学校での「居場所」は担任の渡辺先生だけには教えた。    

 二つ目のいじめ。無視。仲間はずれ。これは授業なんかでよく先生が「じゃーお友達3人づつ。好きな人と組んで」何て言う時がある。こんな時は僕の周りには誰もいない。いつも先生が見兼ねて僕を何処かのグループに入れてくれるけどそこでも「せんせい。だめだよ。こいつなにいってるかわかんないんだもん」「くそっ。だから嫌なんだ。ちきしょう」こんな感じで1年生は終わり2年生に進級した。

 2年生になっても状況は変わらない。でも別にいい。どうって事ない。

 ある日うちに帰るとでっかいボールがあった。「ママ。なにこれ」「あーなんかパパが運動の為に買ってきたバランスボールよ」「ふーん」このバランスボールが僕は非常に気にいった。この上に座ってぴょんぴょん跳ねていると何故か落ち着いた。これは未だに愛用している。

 夏休みに入る前に三者面談が行われた。母さんが来た。「先生。どうですか」「そうですね。上手くやってると思います。入学した頃はよく周りからちょっかい出されたりしてたみたいですけど今は休み時間になると教室を出て行ってどっか行っちゃうんですよ。何だかお気に入りの場所があるみたいで。でもそう言う自分の「居場所」がある。「居場所」を作れる子は大丈夫ですよ。この子はそう言う子です。ところで家ではどうですか」「とにかくマイペースでのんびりしてます」「そうですか。1年生の時から比べると大分落ち着いてきている気がしますね。このまま見守って行きましょう」「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 小学校3年生の時に妹のジュンも僕と同じ小学校に入学した。毎朝一緒に通学した。この頃はジュンも本当に可愛かった。ジュンは僕と違い活発な子で友達もたくさんいて皆んなの先頭に立って遊ぶタイプだった。同じ兄弟でも全然違う。不思議なもんだ。父さんと母さんは僕がちょっと特殊だったので私立に入れたけどジュンは公立に入れようかどうか迷ったみたいだ。結局別々の小学校と言う訳にもいかず僕と同じ小学校に入学させた。僕を私立に入れて周りからさんざん言われたけど今更何言われてもどうって事ないやとも思ったようだ。

 3年生になっても学校生活に変化はなかった。唯、一度こんな事があった。遠足でディズニーランドに行く事になり現地集合で3人1グループになって向かうことになった。行きは先生が決めたグループだから良かったんだけど帰りはなぜか僕は一人になってしまった。大丈夫だろうと一人で電車に乗って帰ったんだけどいつになっても目的の場所に着かない。全然違う電車に乗ってしまった。駅員さんに助けて貰いうちに電話して母さんが駅員さんと話をして何とか家の駅に着いたけどもうお金もないので駅まで母さんに迎えにきてもらった。うちに着いたのは夜の10時頃だったかな。流石にこの時は参った。そんな仲間はずれのいじめにもあった。でも僕はなんだろう無頓着なのかこういったのがいじめって言うんだって言うのが後から分かった。僕に取っては一人の方が楽しかったからあんまり苦にならなかった訳だ。いつだったか父さんとお風呂に入っている時「おまえ。いじめとかに会ってないか」「あってないよ」さっきの話をしたら。「おまえ。それがいじめだろう」「えっそうなの」こんな感じ。

でも一度父さんに「あのさー。なんだかみんなぼくのいうことがわからないみたいなんだ」「そうか。なーリョウ。おまえはしゃべるのが苦手で自分の言いたいことを相手に伝えるのが苦手だろう。これはしょうがないんだ。だからゆっくりとじっくり相手に話す様にしないとな。でも相手も子どもだからそんな根気はないか。人より遅いけど段々と話も伝わる様になるよ。今年より来年。来年より再来年だ。病気と違って治せるもんじゃないからな。とにかくマイペースで行けよ」「うん。わかった。でもやっぱりくやしいときはあるよ」「そりゃそうだ。マイペースよりもマイウェイだな。俺が付いてるから頑張れ」 

 まーそんな感じでクラスにはあまり馴染めなかったけど自分なりに楽しんでいたから学校に行きたくないと思った事は一度もないし結構学校は好きだった。毎日電車にも乗れたし色んな体験も出来て楽しかった。でも流石に親は心配していた。

 ただ公立に行ってたらもっと全然いじめられてたと思う。なぜわかるかって。実は父さんが子どもの頃からサッカーをやっていたので僕にも「サッカーやるか」と言うので思わず「うん。やる」と答えた。それで地元のサッカーチームに入った訳だけどここではいじめられまくった。まー地元の小学校じゃない事もあったのかもしれないけど6年間だ。1年生から6年生までだ。さすがに嫌んなった。特に「まこと」と言う奴には参った。これがやっぱり体がでかい。何ででかい奴はいじめっ子が多いのか。会うたんびにちょっかい出してくる。一度散々殴られて頭に来たから近くにあった手ハンマーで殴ってやろうかと思って手に持ったら父さんに「おまえ。ダメだ。やるんなら素手でやれっ」って言われて止められたけど本当むかつく。見兼ねた父さんに一度「リョウ。サッカー嫌だったらやめてもいいぞ」って言われた事があるんだけど僕は「あいつらがいるかぎりぜったいにやめない」って言ってやった。あいつらって言うのは僕をいじめてた奴らだ。これ言った時はなんか父さんはやたらと感動してた。「おまえ。いい根性してんなぁ」って言われたけど正直当時はあんまり意味がわからなかった。

 どうやら父さんは練習を見に来るたびに僕がいじめられてるのを見てあんな事を言ったらしい。それとはっきり言ってサッカーは全然ダメだった。父さんは中学生の時県の代表選手でそこそこうまかったみたいだからきっと僕も行けるだろうと思ってた見たいだ。でもからっきしダメ。どうやら団体競技はコミュニケーションが取れないから向いてない見たいだ。それもあって言ったのかもしれない。

 そうそう僕をいじめてた筆頭の「まこと」が突然いじめられっ子になったんだ。ある日もっとでかい「タッちゃん」って子が入って来て「まこと」がやられた。ざまーみろだ。それから「まこと」はおとなしくなった。おかげであんまりいじめられなくなった。あれは助かった。

 正直サッカーはあんまり楽しくなかった。でも一度だけ嬉しかった事がある。珍しく試合に出して貰ったんだけど相手ゴール前にいたら僕の目の前にボールが転がって来た。思わず蹴ったら何とゴールに入った。人生初ゴールだ。この時は普段僕をいじめてた奴らも「リョウ。やったーって」皆んな大喜びしてくれた。これが6年間サッカーをやっていて唯一の楽しかった思い出だ。まっ一つでもあるから良しとしよう。

 もう一つの思い出はある日「れんしゅうにいってきます」って言って駅で着替えて電車に乗って遊びに行った事がある。何たって電車通学だからお金は無くても定期がある。でもこういう事はやっぱりばれる。たまたま父さんが練習を見に行ったら僕がいない。結構大騒ぎになっちゃった見たいだ。何食わぬ顔で帰ったら散々怒られた。「嘘は絶対につくな」流石に反省した。でも今思うと小学生のガキが駅で着替えて遊びに行くなんて結構やるよね。その時は何にも考えてなかったけどいつも一人だから結構パッと行動できるんだ。

小学校の時はサッカーと空手を習っていた。空手はどっちかと言うと個人競技だからまだこっちの方が良かった。でも先生がめちゃくちゃ強い先生で参った。流石に行きたくないって思った時も何度かあったけどサッカーと空手は両方とも6年間続けた。

 サッカーはからっきし。空手は型はまーまーだったけどやっぱり組手は全然ダメだった。子どもだから体重別じゃなくて学年別でやる。僕はちびで体重も6年生の時でさえ30kg位だったから相手にならなかった。小学生もやっぱり体重別でやって欲しいもんだ。全然体格が違うんだから勝てる訳がない。

 小学校4年生になっても相変わらずだった。身長もまだクラスで一番小さい。 

 4年生の冬休みに初めて海外旅行に行った。場所はサイパン。やっぱり父さんは海が大好きだからサイパンでもダイビングをした。僕らはシュノーケリングだ。サイパンも綺麗だったけど僕はやっぱり沖縄の海が好きだ。赤ん坊の頃から行っていたので第2の故郷みたいに感じていた。

 サイパンは外人さんが沢山いてやっぱり同じ南の島だけど沖縄とはちょっと違う。レストランに行っても外人さんだらけ注文も全て英語だ。父さんはメニューを見ながら「こいつとこいつとこいつ」通じた。流石父さん。

 サイパンも沖縄と同じで戦争の爪痕が沢山残っていた。天気も良く最高の冬休みだった。

 小学校5年生の時からだったと思う。父さんが僕の事を相談した大学の先生。持田先生の所に通うようになったのは。ここでは算数を教えて貰った。週1回通ったけどここが僕の性にあった。先生の教え方も上手で一人きりだから楽しかった。この持田先生は当時75歳の高齢だけど全くそうは見えない。やっぱり頭を使っている人は若く見える。唯、毛はない。ここも僕の大事な「居場所」になった。学校の「居場所」以外では初めての「居場所」だ。おかげで全体の成績は酷かったけど算数だけはまーまーになった。

 父さんは運動が大好きでこの頃は毎日ジョギングをしていてフルマラソンも走ってた。  

 父さんが「リョウ。おまえも走るか」「うん。走る」それから毎朝僕も父さんと一緒にジョギングをする事になった。唯、たったの2㎞位だったから父さんは物足りなかったと思う。このジョギングは5年生から始めたんだけど段々体力がついてきたのが目に見えてわかるようになった。

 この年の夏休みに家族全員で富士山に登った。誰が最初に言い始めたのか覚えてないが多分父さんだったと思う。はっきり言って悲惨だった。計画は5合目まで車で行き。そこからスタートし8合目の山小屋で仮眠してそこでご来光を見て頂上を目指す計画だ。8号目まで登る頃には少し頭が痛くなった。所謂高山病だ。富士山をなめちゃいけない。

 山小屋で寝ていると父さんに起こされ「おい。日が昇るぞ」表に出てちょっと待っていると段々と明るくなってきた。すると太陽が下から上がってきた。太陽は上にあるものだと思っていたのでこれには驚いた。雲が下にある。まるで絨毯の様だ。歩けるんじゃないかと思うほどの雲の絨毯の中から顔を出したのだ。このスケールのでかさと美しさには感動した。来てよかった。暫くご来光を見ていると頂上に向かっていた人々が「ダメだ。ここから上は土砂降りの強風でどうしようもない。頂上まではとても行けない」口々に語っていた。父さんが「子供たちもいるんですけど無理ですかね」と尋ねた。「とても今日は無理だよ。子供が一緒じゃ尚更だよ」「仕方ない。もう一眠りして休んで下りよう」

 朝8時頃目覚めて準備し外に出ると快晴だ。頂上も見える。「なんだ。天気良くなったな。せっかくここまで来たんだから頂上まで行こう」父さんが登り始めてみんなそれに続いた。30分位登ると雨が降ってきた。驚いた事に雨が下から吹き上げて来る。こんな事は初めての経験だ。段々と風も強くなってきた。見る見るうちにもの凄い風に変わりジュンは風が強すぎて全く進めない。帽子も飛ばされた。危険な状態だ。「ママ。ジュンとちょっとここで待っててくれ。先にリョウと頂上登っちゃうから」父さんと僕は先に頂上の山小屋に到着した。「リョウ。ちょっとここで待ってろ。ママ達迎えに行ってくる」「うん。わかった」父さんは途中まで下山しジュンを抱きかかえて登ってきた。さすが父さんだ。全員頂上の山小屋に到着したのはいいが山小屋の人から「早く下山しないと帰れなくなるぞ。ところでお嬢ちゃん幾つだい」「はっさい」ジュンが答えると「へーこの天候でよく登って来れたもんだ」驚いていた。富士山登山はお年寄りの方々も登っているのでなんとなく楽勝ムードがあるけどとんでもない話だ。だてに3,776mあるわけじゃない。高山病にもなるしなめてかかったら大変な事になる。山小屋の人に脅かされトイレを済ませてすぐに下山することになった。なんとトイレの使用料は500円だ。これには父さんも驚いていた。山小屋からトイレまで行くにもものすごい強風でなかなか進めない。せっかく頂上まで来たのに周りは何も見えない。風景は見えないが写真だけ撮りすぐに下山した。僕らは出かけるたびに家族写真を一杯撮った。

 7合目まで下りると天気は快晴だ。頂上は猛烈な雨と強風。気温も低かったが7合目は夏の暑さだ。山の天気は本当に変わりやすい。ジュンも急に元気になり砂走りを僕と一緒にさっさと下りて行った。河口湖を下に見ながら最高の気分だ。登りは時間が掛かったが下りはあっという間だ。5合目まで下山し車で父さんの友達の旅館に向かっている途中で「いやー。それにしても凄い天気だったな。へとへとだよ。一回登ったからもういいな。富士山は1度も登らないばか。2度登るばか。って言うからな一度でたくさんだ」「もう僕は二度と登らない」「あたしも」「ところでパパ。一体誰が登ろうって言ったの」「んーそりゃリョウだろう」「僕じゃないよ」「パパだな」「絶対パパだよ」「そうだ。そうだ」「まーいーじゃねーか。とにかく我が家はこれで富士山には二度と登らないと言う事で決定だな」天気には酷い目にあったけどあのご来光のスケールのでかさを経験出来たのは良かった。まーこれもいい思い出だ。

 宿に着くと早速風呂だ。もう汗だくのどろどろだ。疲れを癒すには風呂が一番だ。しかも温泉だ。父さんは本当に風呂が好きだ。うちにいても朝晩入る。温泉に行けば1泊二日で最低3回は入る。それにこの宿は父さんの友達が経営していて何回も来ているので勝手知った我が家の様で本当にリラックス出来る。料理も美味しい。

 翌日目覚めると父さんが悲鳴を上げていた。「イテテっ。足と腰がぱんぱんだ。こりゃー下りが効いてるな。やっぱり登りより下りの方がこたえるな。あーやっぱり二度と登るのはやめよー。イテテっ。でもリョウは4月からのジョギングの成果が出たな。足腰が強くなったよ」「そうかな」「間違いない」

 夏休みが終わり2学期が始まった。そしたら不思議な事に学校では段々いじめられなくなった。僕の変化に周りも何となく気づいて来たのかそれとも飽きたのかはわからないけど僕はきっと両方だろうと思う。でもサッカーでは相変わらずだった。「クソ。まこと今に覚えとけ」

 僕が5年生の時。父さんの2回目の市会議員選挙があった。結果は見事当選。

 今思えばこの5年生の時が僕の転機になった年の様な気がする。持田先生との出会い。父さんとのジョギング。富士登山。

 6年生になると進路を決めなくちゃならない。僕の学園は大学まである。所謂エスカレーター式で上の学校に上がって行ける。唯、中学に進む時に3つの選択肢がある。一つは全く違う別の中学に進む。もう一つは系列校で学力レベルが高いA中学校を選択する。最後は学力レベルがさほど高くない系列校のB中学校に進む。僕は当然最後の選択肢だ。ところが何処の親でも出来ればレベルが高い所に入れたがる。うちも最初はそうだった。父さんが母さんに「とりあえずどっちも入れるならレベルの高い方がいいだろう」「でも入ったら苦労するよ。リョウがついていけると思う」「わからん」その後三者面談があり先生は「皆さん学力の高い学校と言うんですがはっきり申し上げて選別をせざる負えません。私はリョウ君はB中学が良いと思います。正直A中学は生徒の面倒見は良くありません。自分自身で何でもやっていかなければならない。6年間リョウ君を見てきて私はB中学の方が彼に合っていると思います」「そうですか。わかりました。帰って主人と相談します」

 「今日面談行って来たんだけどやっぱりB中学を進められたわ。私もリョウにはそっちの方が合ってると思う」「そうか。じゃーそうしよう。ところでB中学にも選抜クラスってあるんだよな」「あるわよ」「じゃーそこにしよう」「あのねーそれも先生の推薦がいるの。成績いかんなの」親と言うのは子どもの実力を過信しがちだ。

 次の三者面談で母さんは「先生。うちはB中学でお願いします」「良く決断してくれました。実は本当に皆さんA中学を希望するんですよ。リョウ君が初めてのB中学希望者です。うちの小学校もリョウ君達が1期生で初めての中学進学ですからどうなるか不安だったんです。そしたら案の定A中学志望者ばかりでこれではA中学の方が受け入れられないので試験をすると言って来てるんです。ご存知の通りA中学、その上のA高校は県内でもトップクラスの学力です。現在のうちの学校の子ども達のレベルでは試験に受かるのは少数になると思います。ですからこの時点でB中学を選んで頂ければ何の不安も無く残りの小学校生活も満喫出来るし中学に向けての準備もしっかりとできます。それにB中学は本当に良い学校ですから安心してください」「よろしくお願いします」「それとリョウ君は本当に成長しましたね。入学した頃は正直心配してました。でもこの子は自分の「居場所」を作れる子でした。こういう子は大丈夫だと思いましたし私も勉強になりました。おい。リョウ。中学行っても頑張れよ」「はい」

でも冷静に判断すれば僕の学力ではどう考えても当然B中学なんだけど。

 夏休みも終わりいよいよ小学校生活最大のイベント修学旅行だ。行き先は何と沖縄。小さい頃から毎年の様に行っている所だ。でも家族と行くのとは違いやっぱりワクワクした。何度来ても沖縄は楽しい。それに勉強にもなる。僕は実は歴史が好きで戦中戦後の沖縄の歴史にも非常に興味があった。父さんにも「ひめゆりの塔」や「海軍壕跡」等によく連れて行ってもらい資料等を見る度に胸がジーンとなった。来る度に伝わるものが違う気がした。本当に勉強になる。

 この時期まだ進路が決まっていない子もいたけど僕は中学進学の心配もなくなっていたので存分に楽しんだ。

 多少はまだあったいじめも段々と減ってきた。多分6年間で皆んな「あいつは変な奴だ」と慣れっちゃったんだと思う。

 なんだかんだ色々合ったけど無事に小学校を卒業した。勉強もスポーツもからっきしでいじめられもしたけど電車通学は楽しかったし給食も美味しかったし変な上級生はいないし学校も新しくてとっても綺麗だったし最後には友達もできた。6年間本当にお世話になりました。ありがとうございました。


  中学校

 いよいよ中学生。僕の通うB中学はこれまで最寄り駅から歩くと30分以上かかる不便な場所にあった。ところが何とこの年から新駅ができ駅から徒歩2分と言う好立地に変わった。本当にラッキーだ。おかげでうちから学校までドアTOドアで1時間掛からない。 

 余談だが僕は結構運がいい。近所の商店街の抽選会では何と毎年特賞を当てていた。残念ながらもうその抽選会はなくなったが本当にくじ運は良かった。結構僕の様な発達障害の子はうそか本当かわからないけど運が強いと言う都市伝説があると聞く。

 クラスは全部で5クラス。其の内2クラスが小学校からの付属組みだ。付属組と受験組が一緒になる事はない。周りは知った顔ばっかりだ。当然僕をいじめてた奴らもいる。

 中学になると部活動をしなければならない。僕は勉強もスポーツも苦手なので美術部に入った。美術部なら一人でこつこつ出来るし物を創ったりするのは結構好きだった。僕の絵は凄く独特で「ピカソ的」と言われた。この言葉は褒められてるのか貶されてるのか良くわからない。「ピカソさんごめんなさい」

 中1の夏休みは色んな事があった。まずは7月22日の皆既日食だ。この日僕たち家族は久米島に向かった。那覇空港から久米島に向かう飛行機の中から徐々に太陽が欠け始めた。久米島に到着すると段々とあたりが暗くなりホテルに着きビーチに向かうと鳥や虫が騒ぎ始めた。彼らにとっても経験したこともない突然の変化なのだろう。「ザザザー」風が出てきた。人の声は聞こえない。太陽が消えた。一瞬にして世界が変わった。なんとも言えない幻想的な雰囲気が漂う。5分後何事もなかったように現世に戻った。何となくタイムマシーンに乗った気分だ。この日の久米島は96%太陽が欠けたそうだ。天気は快晴。恐らくこんな皆既日食は二度と見られないだろう。100%消えると言われた喜界島は大雨の土砂降りで全く見られなかったそうだ。なんというラッキーだろう。こんな経験をさせてくれた父さんに感謝だ。「いやーおまえらにこれを見せたくてこの日にしたんだぞ。感謝しろよ。でも本当に晴れて良かったな」後で母さんが言ってたけどこの日に皆既日食があると言うのを実は父さんは知らなかったそうだ。たまたま時間が取れる日がこの日程しかなかったと言う事だ。全く大人は調子いい。でも最高の経験が出来たのは事実だ。

 この旅で初めて家族4人で海に潜った。シュノーケリングはいつもやっていたけどダイビングは初めてだ。段々と深く潜って行くと聞こえるはずが無いのになんか音がきこえる。それがなんとも言えない不思議な魅惑的な音だ。決して「おばけの声」なんかじゃない。心が安らぐ音だ。もしかしたら母さんのお腹の中の音に似てるのかも知れない。水も綺麗。サンゴ礁も綺麗。色んな魚もいっぱいいる。まさに竜宮城だ。久米島最高。

 父さんはこの久米島が大のお気に入りだ。理由は海がきれいな事はちろんだが全然お金を使わないそうだ。確かに使う所がない。それと町営のスパがあるのも理由の様だ。海から戻るとまずはスパに行く。コバルトブルーの海を見ながら風呂に入り冷えたビールを飲みながら本を読むのが最高だそうだ。それが父さんの久米島ルーティンだ。父さんは秋に行われる久米島マラソンにも出場した事がある。まさに久米島大ファンだ。ここでも沢山写真を撮った。  

 さて、久米島から戻ると父さんが「せっかく5年生からジョギング続けてるんだからお盆休み。母さんの実家まで走って行くか」「うん。いいよ」僕は父さんと一緒に行動するのが当たり前と思っていたのでいつも何も考えずに返事をしてしまう。ところがうちから母さんの実家までは120㎞あるそうだ。1日20㎞走っても6日掛かる。父さんも流石にそんなに休めないので3日で走れる80㎞地点からスタートする事になった。そこまで母さんに車で送ってもらう。母さんの実家は茨城県常陸太田市。スタート地点に選んだのは茨城県霞ヶ浦。そこで一泊して朝スタートだ。母さんにホテルまで送ってもらった。「じゃーパパ。リョウ。頑張ってね。私とジュンは先に車で行ってるから。暑いから気をつけてね。バイバイ」随分軽い。「さて、とりあえず荷物を置いて飯食いに行こう。明日からハードだから今日は焼肉にしよう」「うん。いいよ」父さんはビールを飲みながら焼肉を食べてたけど流石にいつもよりアルコール量は少ないようだ。「リョウ。明日は6時半に起きて食事をして8時スタートな」「うん。わかった」僕の会話は短い。

 80㎞を3日。1日約27㎞だ。父さんは真夏なので午前中に走り終えるつもりらしい。8時にスタートして休憩入れながらお昼まで4時間かけてゆっくり走る計画だ。いよいよ初日の朝。外は晴天だ。「こりゃー暑くなるな。よし。ゆっくり行くぞ。出発だ」「パパ。頑張ろうね」「オウ。今日の目標は石岡だ。初日だから20㎞ちょっとにしたぞ」ひたすら国道6号を走った。30分毎に休憩しながら走った。段々と気温も上がってきた。国道沿いは交通量も多く路面上はものすごい暑さだ。だけど他に道は無い。30分で5㎞も走れない。「リョウ。大丈夫か」「大丈夫だよ。全然平気」目的地までもう少しという所で突然父さんが止まった。「どうしたの」「ごめん。間違えた。さっきの所右に曲がるんだ」「まじ」「ごめん。戻ろう」「もう何やってるの」何とかお昼前に目的地の石岡のホテルに到着したけど結局道を間違えて5㎞位余計に走った。ホテルに着くと「何処から走って来られたんですか」「霞ヶ浦です」「本当ですか。凄いですね。坊ちゃんもですか」「そうです。国道6号沿いに走ってきたんですが暑いは空気は悪いはで参りました」「そうですか。お疲れでしょう。すぐにお部屋を用意しますので少々お待ち下さい」通常であれば3時チェックインだけど僕たちの様子を見てホテルの人が気をきかせてくれて早めにチェックインさせてくれた。父さんは風呂が大好きだから大浴場のあるホテルを予約していた。早速2人で風呂だ。走った後の風呂は本当に気持ちいい。「リョウ。どうだ辛かったか」「んーそうでもないかな。明日は何処まで行くの」「明日は水戸まで行く。明日が一番長いぞ。30㎞位だ。今日より10㎞位多く走る。気合い入れろよ」「うん。わかった」「あー風呂は最高だな」「そうだね」風呂から出てお昼ご飯だ。「いっぱい食べろよ。じゃないともたないぞ。飯食ったら昼寝だ」

 お昼を食べて気がついたら4時位になっていた。「リョウ。風呂行くぞ」「わかった」「風呂上がったら俺はマッサージするからおまえは適当になんかやってろ。6時には飯食いに行くぞ。今日は何食うか。昨日は焼肉だったけどやっぱり精つけなきゃならんからステーキにしよう。同じ肉でも焼肉とステーキはちょっと違うからいいよな」「うん。いいよ」結構美味いステーキだった。父さんはその日はビールとワインを飲んでいた。帰って少し休憩したら「よし。リョウ。風呂行くぞ」「また行くの。いいよ」これで本日3回目だ。「明日はちょっと早く出よう。6時に起きて飯食って7時半に出よう」「わかった」「明日も頑張ろう」「オーケー」

 朝6時今日も快晴だ。「今日も暑くなるぞ。リョウ。気合い入れろよ」「僕は大丈夫だよ。パパこそ頑張ってよ」「ばーか。楽勝だよ。朝飯しっかり食えよ。食わないともたないぞ」「わかってるよ」7時半いよいよ2日目の出発だ。「行ってらっしゃいませ。本日はどちらまで」「今日は水戸まで走って行きます」「水戸ですか。遠いですね。お気をつけて行ってらっしゃい。僕も頑張ってな」「はい。頑張ります」「ありがとうございます。じゃー行ってきます」「ありがとうございました」今日も昨日と同じく30分毎に休憩しながら走る。今日は昨日にも増して暑い。それに昨日より車も多いようだ。上からは容赦ない太陽の光と紫外線。下からはアスファルトの熱気に車の熱と排ガス。楽に40度は超えているだろう。「リョウ。大丈夫か」「大丈夫だよ」そう言ってる父さんもきつそうだ。そりゃそうだ。僕は手ぶらだけど父さんは僕らの荷物を入れたリュックを背負って走ってる。これはかなりの違いだ。休憩も多くなる。お昼までには到底着きそうにない。「ダメだ。リョウ。どっかでちょっと早いけど飯食おう。さすがにこのままじゃもたない」道路沿いの定食屋でお昼にした。「汗びっしょりじゃない。何処から来たの」「石岡から走って来ました」「石岡。本当に。そりゃー凄い。この暑さの中倒れちゃうよ。まさか僕も一緒に走って来たの」「あっはい」「凄いね。へーったいしたもんだね」食堂のおばさんは本当にびっくりしてた。1時間位休憩して出発した。もう水戸市内には入ってる。ホテルは水戸駅前だ。少し走ると湖が見えてきた。「パパ。あれ何」「おーあれは千波湖だ。昔ママとよく来たんだ。水が気持ち良さそうだな。なんか泳ぎたくなってくるな」「本当だね。それに綺麗だね」「なんてったって偕楽園に千波湖。ここは徳川御三家の水戸藩だからな。やっぱり凄いよ」「あっ。あれ黄門様じゃない」「おーそうだ。水戸黄門の銅像だ」「こっちは徳川斉昭と慶喜だよ。すげーな。パパ。せっかくだからちょっと歩こうよ」「そうだな」実は僕は一番好きな教科は歴史だ。こういう歴史あるところは大好きだ。その中でも近代史は好きだ。維新の立役者水戸藩と聞けば黙っていられない。千波湖、偕楽園周辺を見て廻った。「おーい。リョウ。そろそろ走って行くぞ。遅くなっちゃうよ」「うん。わかった」結局この日はホテルに到着したのが4時頃になってしまった。「いらっしゃいませ。今日はどちらから」「石岡から走って来ました。本当ですか。凄いですね。お疲れでしょう。ゆっくりお休み下さい」「ありがとうございます」部屋に荷物を置くと早速風呂だ。今日のホテルはスパ形式の浴場だ。父さんは散々汗をかいたのにサウナに入っていた。試しに僕も入ってみたけど流石にすぐに出た。「いやーリョウ。流石に今日はきつかったな。参ったよ。ふー。でもやっぱり風呂は最高だな。この後またマッサージ呼んでるから夕飯は6時半な。今日は何にするか。海も近いし寿司にするか」「いいよ」「よし。じゃー今日は寿司だ」寿司も美味しかった。父さんはその日はビールの後は日本酒を飲んでいた。「リョウ。明日で最後だな。頑張ろうな。辛くないか」「全然平気だよ。きついけど楽しいよ」「そうか。無事に完走したらみんな驚くだろうな」

 流石にその日は疲れたようで部屋に帰ったら二人ともばたんきゅうだ。

 気づいたら朝6時だ。「リョウ。おはよう。今日も昨日と同じで7時半に出発しよう。昨日よりは距離は少し短い。今日も頑張って行こう」朝食を済ませ少し休んでチェックアウトだ。「ありがとうございました。今日はどちらまで」「今日は常陸太田まで走って行きます。妻の実家があるもので」「そうですか。暑いですからお気をつけて。僕も頑張ってね」「ありがとうございます。それじゃお世話になりました」「ありがとうございました」「よし。今日も快晴だ。最後だ。行くぞ」「おう」スタートした。

 考えてみると父さんと僕は究極の晴れ男かも知れない。二人のイベントで天気が悪かった事は一度もない。

 水戸を抜けるとだいぶ車も減ってきた。車が減ると少しだけど暑さが和らぐ気がする。でも暑い。さすがの父さんも3日目はつらそうだ。「リョウ。ちょっと休もう」なんか父さん痩せたみたいだ。「よし。行くぞ。もうちょいだ」川が見えた。なんか見覚えのある所だ。この川を渡ればあと少しのはずだ。「パパ。この川を渡ればあとちょっとだよね」「そうだ。よく覚えてるな。くじ川を渡れば残り3㎞位かな。ちょっとあそこのくじ川って書いてある看板で写真撮ろう」「カシャ。後で証拠写真ママに見せないとな。よし。ラスト行くぞ」「おう」常陸太田駅を通り過ぎた。後は坂を登ればすぐそこがおばあちゃんちだ。ゴール。最後は父さんを追い抜いてやった。「あー。着いた。リョウお疲れ。いやーお前凄いな。尊敬するよ。俺がお前の歳じゃ絶対にできないよ。本当に凄い。頑張ったな。この事。学校の宿題とかで出してみろよ」「えーいいよ。だって僕の言うことなんてきっと誰も信用してくんないよ」「おまえねーそんな卑屈になるなよ」「ひくつって何」「ダメだこりゃー」

 その日は母さんの実家に泊まった。おばあちゃんと従兄弟の家族そして僕達家族で夕飯を食べていると話題はジョギングの話だ。「いやーやっぱり子どもはすごいね。一晩寝るとケロッとして元気だもんな。俺なんか日に日に疲れが溜まってゲッソリだよ。6㎏痩せた。考えてみれば80㎞だから3日でフルマラソン2回走るのと同じ位だからな。きついよ。でもリョウ。おまえ本当に大したもんだよ」おじさんには「途中で電車に乗ったんじゃないの」とからかわれたけどみんなに「リョウ。おまえすごいな。たいしたもんだ」って言われた。そこまで言われると流石に僕もなんだか自信がついてきた。疲れたけど最高の思い出だ。

 夏休みが終わり2学期が始まった。実はこれ以降全く僕はいじめには合わなくなった。やっぱり夏休みの経験が僕の中の何かを変えたんだと思う。それが多分体から溢れ出てるんじゃないかと思う。でも相変わらず勉強はからっきしだ。そうそう上手くは行かない。 

 クラスでびりを守りつつ僕は2年生になった。あまりにも勉強が出来ないので見かねた母さんが父さんに「どこか塾に通わせようと思うんだけどどこがいいかな」「うちの目の前の塾でいいじゃん。少人数制だしうちから近い方がリョウには絶対いいよ。それに俺も知ってる所だし」「じゃーそうするわ」この塾は僕のうちの目の前にあり父さんの後輩がやっている会社が経営していた。これがまた僕にぴったりはまった。ここは生徒に塾を開放していて授業がない時でも時間のある時はいつでも塾で勉強してもいいシステムになっていた。僕は自分の部屋ではなく塾を勉強部屋代わりに使った。また、ここの先生ともうまがあい、持田先生の所に続く2つ目の「居場所」になった。

 この頃父さんは「もうジョギングはやめた。猫も杓子もジョギングを始めてなんか面白くなくなってきた。これからはボクシングをやる。リョウ。おまえもやるか」「うん。いいよ」僕の会話は短い。

 実は近所にプロのボクシングジムがオープンしたのだ。父さんは完璧にはまった。このジムは夜10時までやっていていつ行っても何時間やっても構わない。全て自己管理なのだ。曜日、時間に制約がないので自分のペースで練習出来た。不規則な生活の父さんにはうってつけだったのだろう。但し、このスポーツは相当ハードだ。僕はと言うとこの頃はまだ身長もそんなに高くなくどっから見ても小学生にしか見えない。ジムに行ってもお客さん扱いだ。唯、ボクシングはまさに個人競技。自分のペースでできるので僕はとっても気に入った。同じ格闘技。例えば空手も一見個人競技の様だが稽古はみんなでやる。その点ボクシングは違う。究極の個人競技だ。ボクシングジムは僕にとって3つ目の「居場所」になった。自分の「居場所」がはっきりすると僕の様な子は充実する。 

 3学期に入った3月11日東日本大震災が起こった。その時僕は学校にいた。勿論電車はストップして動いていない。全員体育館に集められた。先生方は今後の対応について協議していた。結局バスで各自の最寄り駅まで送ろうと言う事になり体育館で班分けをしている時ちょうど父さんが迎えに来てくれた。良かったもうちょっと遅かったら行き違いになる所だった。父さんの車で帰宅途中。「リョウ。震源地は宮城県だって。あーちゃんに電話したけど全く繋がらないんだ」僕の祖父母は宮城県に住んでいた。海沿いは津波でやられた情報が入っているけど内陸部がどうなっているかは全く分からない状況だ。父さんが言うには田舎のある所が最も震度が大きいと言う事だった。渋滞の中、何とか家にたどり着いたけど相変わらず田舎とは連絡が取れない。流石の父さんも元気がない。実はこの時父さんはちょうど3回目の選挙の真っ最中でもあった。それも重なりどっと疲れが出たんじゃないかと思う。震災から4日目。宮城のおじさんから連絡が入った。「全員無事」良かった。父さんもほっとしてた。だけど気仙沼の親戚だけは行方不明との事だ。結局亡くなってしまった様だ。父さんは選挙中で地元を離れる訳にも行かず葬儀に出席する事も出来なかった。

 ちょうど春休みになって僕は救援物資の運搬等のボランティアに参加した。まだ中学生だったので現地には行かせてもらえなかったけど貴重な経験をさせてもらった。何しろ宮城県は僕の田舎だ。1日も早く立ち直って欲しい。 

 そんな中で父さんの3回目の選挙が行われた。結果は快勝。でもさすがの父さんも今回は相当疲れた見たいだ。

 再度クラスでびりを守りつつ僕は無事に3年生になった。小学校の6年間と比べると中学校の3年間はあっという間だ。

 中3と言えば進学問題だ。三者面談。「お母さん。大変申し難いのですがこのままではいくら何でも上の学校に推薦する訳には行きません。よっぽど頑張って頂かないと無理です」散々脅かされた。その晩うちで「リョウ。おまえそんな酷いのか」「ひどいもなにも常にびりよ。このままじゃ高校は無理だって。それでちょっとこれ見てよ。この間駿台の全国模試があったんだけど問題は中1と中3でもちろん違うんだけどちょっと見て」「げっ。全国で1番じゃない。すげーな。初めて見た。本当にいるんだな全国1って。大したもんだな。下から1番もちょっとやそっとじゃ取れないぞ。お目にかかれねーな。しかも偏差値25。こんなのあるんだ。すげー。ジュンもすげーな。全国で120番。まー1番には負けるけどすげーな。偏差値75か。大したもんだね。でもよー75と25で足して2で割ってちょうど50か。足して2で割って丁度半分か。2人合わせて一人前か。笑えるな」妹のジュンは勉強ができた。中学も僕とは違う学力の高いA中学に進学していた。「ふーん。そんな勉強嫌いなら高校行くのやめろよ」「えっ。せめて高校位は行かせてよ」「じゃーちょっとは勉強しろよ。大体高校は勉強しに行く所なんだから嫌なら行くなよ」「あのー今時高校行くななんて親いないよ」「そうか。じゃー頑張れや。あっはっは」全く信じられない親。 

 学校に行く。塾に行く。ボクシングジムに行く。そして週一回持田先生の所に行く。これが僕のルーティンだ。

 中3と言えば何といっても修学旅行だ。僕の中学の修学旅行は何とオーストラリアだ。受験があるので夏休み前に行く。

 いざ出発と思い来や。飛行機が故障で飛べない。「まじか」その日は何と成田のホテルに一泊した。翌日無事に飛行機は飛びオーストラリアに着いたがスケジュールは大幅に変更となった。でも行くとこ行くとこ全て初めての経験なのでとても楽しかった。僕は子どもの頃から一人で遊ぶのが好きだったせいかどこにいても自分なりに楽しめる。オペラハウス、ゴールドコースト、エアーズロック。どこも最高だ。因みに父さんと母さんも新婚旅行はオーストラリアだそうだ。本当はエジプトに行きたかったらしいがちょうど湾岸戦争が起こって急遽変更したそうだ。

 夏休みが終わり2回目の三者面談があった。今回は父さんが来た。「今回はちょっと先生に聞きたい事があるから俺が行くからな」なんだか嫌な予感がする。「先生。いつもリョウがお世話になってます。どうですかうちのは」「んーまず成績ですがやっぱり芳しくないですね」「何とか進学できますか」「まーうちはとりあえず付属ですから何とかしたいと思ってます」「ありがとうございます。何しろここで進学できなかったら行くとこないですから。高校行くのやめればって言ったんですよ。そしたら今時高校行くななんて親いないよ。高校位行かせてよって言われちゃいましたよ。でもこのままじゃしんどいんですよね。どうすればいいですか」「そうですね。これからは補習が増えます。これは絶対に休まず出席してください。それと与えられた課題、提出物は必ず出すこと。そうすればなんとかなるでしょう」「ありがとうございます。おい。リョウ。しっかりやれよ」「はい」「ところで先生。実はこいつは中2の時からボクシングをやってるんですが普段の生活はどうですか」「えっ。ボクシングやってるのか。どうりでなんか変わったなと思ったよ。お父さん。ご存知の通りこの子は小学校からうちの学園で預かっているので小さい頃から見てますが私が思うに一番成長した子どもの一人だと思いますよ。正直未だにうちの学校でもいじめらしきものはあります。まー大したものではないと思ってますが。この子も最初はいじめられる側でした。ところが今や全くいじめられない。それどころか今までこの子をいじめていた人間がある日突然何かのきっかけでいじめられる側になったりするんです。そう言う人間に今この子は慕われてるんです。不思議なものですね。今やいじめられっこのヒーローみたいですよ。要は何であいつはいじめられなくなったんだろうと皆んな不思議がって興味があるんじゃないですかね。そうそうリョウ。中島の面倒見てやれよ。うちのクラスではあいつだけだからちょっといじめられてるっぽいのわ」「はー」「頼むな。そういえばお父さんご存知ですか」「えっ何がですか」「実は今、卒業に向けて生徒一人一人もしくはグループでもいいんですけど一人1分持ち時間で卒業に向けたメッセージを撮ってDVDを作成してるんですけどリョウだけですよ。複数の女の子と撮ってるの」「なんですかそれ」「まー見てのお楽しみにして下さい。兎に角あなたは進学できる様にしっかりとやる事。いいね」「はい。わかりました」「先生。今日はありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」学校を出た。「おまえよー。頼むよ。塾行ってんだろう」「行ってるよ」「進学出来なかったら笑いもんだぞ」「わかってるよ」「まーじゃー頑張れ。以上終わり。飯食ってくか」「うん」父さんはあんまり勉強の事はとやかく言わない。「おいリョウ。その中島君って子。面倒見てやれよ」「面倒臭い」「何だそりゃ。それにしてもおまえ女の子にもてるのか」「そんなんじゃないよ」

 うちに帰ると父さんは母さんにDVDの話をしてたけど母さんは「そんなもてるとかじゃないと思うよ。要はリョウは安パイって事。害がないって事だと思うよ」「ふーんそうかね。でもこいつしゃべんなきゃ結構かっこいいと思うよ」「んー確かにしゃべんなきゃね」こんな話を聞くと余計に話をするのが嫌になる。


  高校

 何とか無事にB中学を卒業しB高校に入学した。クラブは中学と同じ美術部に入った。生活は相変わらず学校、塾、ボクシングジム、週一回の持田先生のルーティンだ。このパターンでお陰様で精神的にも安定している。しかし美術部でこけた。中学の時は結構好き勝手にやらせてもらえたが高校はちょっと違った。協働作業があるのだ。まず手始めは秋の文化祭に向けた協働作業だ。これが僕はだめだった。先生には「あなた何勝手な事やってんの。ちゃんと皆んなとやりなさい」毎日文句を言われるしいい加減嫌んなって行かなくなってしまった。

 文化祭当日父さんが見に来てたけど「おいリョウ。美術部見に行ったけどおまえの作品わかんなかったぞ」そう。僕の作品には名前が付けられていなかった。でも僕の絵はちょっと変わってるから父さんは多分わかったはずだ。まー敢えて何も言わなかったんだろうと思う。そんな事で美術部はやめた。今度は何部にしようか色々考えた挙句囲碁部にした。これは本当に偶然だったが父さんは市の日本棋院の支部長をしていたのだ。父さんは家で囲碁をした事もないので全然知らなかった。まさに偶然である。どこまでも縁がある。

 さて、この囲碁部。部員は1年生は僕一人。他の2名は3年生のたった3人のクラブである。正直存続が危ぶまれる。初めて囲碁を打ったけどネットのゲームで一人でもできるので結構おもしろかった。

 2年生になり3年生二人はいなくなった。晴れて囲碁部の主将だ。何としても新入部員を獲得しなければならない。僕は部員募集のポスターを作り必死に勧誘した。つもりだ。でも誰も入らなかった。そりゃそうだ。話すのが苦手。説得力0だもの。囲碁部主将。部員1名。見兼ねた先生が中学の囲碁部と合併させた。中学の囲碁部。部員1名。高校と合わせて2名のクラブだ。中学の囲碁部の子は女の子だ。実はこの子が強い。僕は全く歯が立たない。それでも何とかクラブとして存続はできた。

 2年生になり6月。とんでもない事が起きた。父さんの会社が倒産したのだ。父さんは元々3つの会社を経営していたが議員になりそれぞれ番頭さんに任せていた。そのうちの一つが倒産したのだ。番頭さんに任せていたとは言え責任はやはり父さんにある。会社の整理に当たり家も手放す事になった。僕らの生活は一変した。ゴールデンウィーク、夏休み、春休み。当然何処にも行けない。冬の田舎だけは行ったがスキー三昧は無くなった。休み毎の家族写真も途切れた。

 妹のジュンは1年位前から荒れ出していてこの頃はひどい状況だ。ある時母さんと大喧嘩をしてリビングのガラスを割る騒ぎがあった。父さんにも「全部。あんたが悪いんだからね」さすがに父さんも落ち込んでいた。家の雰囲気は最悪だ。母さんも働き出した。何とか議員の給料があったので生活は出来たがこれまでの暮らしとは全く変わってしまった。でも父さんは僕の3つの「居場所」はしっかり守ってくれた。僕にはこの「居場所」さえあれば何とかなる。

 債権者からの電話。いやがらせのビラ。普通なら暗くなるどころの騒ぎじゃない。ところが父さんはこんな時でも僕らの前では決して弱音をはかず明るかった。普段と全く変わらない。これが我が家の救いだった。好きなお酒も毎日欠かさなかった。と言うよりは飲まなきゃやってられなかったのかも知れない。でも父さんのお酒はこんな時でも明るい酒だ。

 夏休みに入る前に三者面談が行われた。今回は父さんが来た。「先生。こいつの成績は聞かなくてもわかっています。実はお願いがあります。リョウは中学の時からボクシングをやっているんですけどぜひ高校の大会に出したいんです。ところがこの学校にはボクシング部はない。無くても唯一出られる方法があります。それは先生が一人付き添って頂ければ出場が可能になります。何とかお願い出来ないでしょうか」「まー行ってやりたいのは山々ですけどこればっかりはちょっと学校で相談しますのでお時間下さい」「わかりました。よろしくお願いします」「ところでリョウ君は結構強いんですか」「いや。全然ダメです。ただここの所大分やる気が出てきてこの話も今では無く、来年の大会の話ですからそれまでには強くさせます」「そうですか。わかりました。でもこの子は本当に変わりましたね。おい。先生の事殴るなよ」「そんな事しません」その晩。家に戻ると「リョウ。ボクシング頑張ればボクシングでも大学行けるんだぞ」「そうなの」「ボクシング部のある大学なら可能性はあるよ。唯、高校での経歴がものを言うから今からだとちょっとかったるいかもな。まーどっちにしても大会に出られなきゃ話にならないけどな」「そうだね」

 結局学校では認められず大会の出場は断念した。

 夏休みになったが僕らはこれまでみたいに何処かに行く事はなくなった。というより行けないのだ。でも僕には「居場所」がある。これさえあれば平気だ。

 実は僕の「居場所」の塾には高校生は僕以外いない。大学受験になると大抵の人はいわゆる予備校的な塾に行くのが常だ。でも僕は相変わらず同じ塾。僕の「居場所」に通っている。でもここで塾の先生に色々相談が出来た事は本当に良かった。ある日「パパさー。僕大学に行こうと思うんだよね」「おまえ。受からなきゃ行けないんだよ」「うん。わかってるよ。やるだけやってみる」「まー好きにしろよ」

 塾の先生とも色々話し合って僕は歴史が好きだったので史学部のある学校を志望した。自分を弁護する訳ではないけどこの頃はもう偏差値25ではなかった。40以上はあった。それに全国1位でもない。

 2月修学旅行が行われた。3年生になると受験があるのでこの時期に実施される。場所は何とカリフォルニア西海岸だ。入学時より積立をしていたお陰で何とか行く事が出来た。やっぱりアメリカはでかい。ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、グランドキャニオン、空母ミッドウェイ、ボクシングの聖地ラスベガス。ここでスーパースター達の試合が行われる。マニーパッキャオ、ドネア、メイウェザー等など。桁が違う。この学園で行く最後の修学旅行だ。相変わらず変わり者だと思われてるがもう僕をいじめる奴は誰もいない。存分に楽しんだ。  

 3年生になりすぐに三者面談が行われた。「お母さん。リョウ君は大学進学を希望してますが正直難しいですよ。近頃は色んな大学があって何処でもいいとおっしゃるなら入れる大学はありますけどどうなんですか」「えー本人は歴史が好きだから史学部を希望してるみたいですけど」「史学部ですか。難しいですね。史学部がある所はある程度歴史のある大学しかないですからね。本学園の大学なら何とか入れると思いますけど史学部はないですからね。あなたは史学部以外は考えてないの」「はい。史学部以外は今の所考えてません」「推薦とかAO入試とか色々あるからよく研究しなさい。推薦やAO入試は秋だから早急に準備するように」「わかりました」

 本格的に受験準備を始めた。まともな試験ではとても受からない。それ位の自覚はしている。やはりAO入試がベストだろう。AO入試があって史学部のある学校3つに絞った。 

 10月に入り受験シーズンがやってきた。先ずはT大学。手応えはあったけどちょっと面接の時ワイシャツの襟が折れているのを気づかず面接官に注意された。それだけが気がかりだ。

 試験の結果がでた。不合格。ショック。受験は小学校以来だから初体験みたいなものだ。やはり落ちるとへこむ。「次があるから頑張れ」父さんは常に前向きだ。次はK大学。手応えは前回よりあった。父さんが「リョウどうだった」「うん。前回より全然出来たと思うよ」「そうか。受かるといいな」結果が出た。不合格。ショック。はっきり言って自信があっただけに相当へこんだ。どうしよう次ダメだったら行くところがない。この結果を受け父さんはK大学の知り合いに何がダメだったのか聞いてくれた。結論は面接が全くダメだと言う事だった。AO入試は論文と面接だ。僕的には面接も上手く答えたつもりだったのに全然ダメだという事だ。

 「やっぱり言語の発達障害じゃ面接はダメなのかな。相手に伝わらないもんな。クソっ。ちきしょう。悔しいよ。面接の練習も塾の先生と沢山したのに通じないんじゃどうしようもない」見兼ねた父さんが母さんに「次は何処受けるんだ」「S大学」「そこは受験の事前相談みたいなのは無いのか」「あると思うよ」「ちょっと直ぐに電話して予約取ってくれ」「どうすんの」「事情を正直に話に行く。ダメ元だ」後日両親はS大学の事前相談に行き父さんが「実はうちの子は子どもの頃言語の発達障害と診断され自分の意思を相手に伝えるのが極端に苦手なんです。ですから面接の時じっくりと息子の話を聞いて頂きたいんです。お願いします」「わかりました。それは面接官に伝えます。唯、その事で優遇される様な事はございませんのでそれは了承しておいて下さい」「もちろんそれはわかってます。兎に角出来るだけじっくりと聞いてやって下さい。よろしくお願いします」父さんは隠していてももうしょうがない。はっきり言って臨んだ方がいいと判断した訳だ。

 S大学受験当日。「リョウ。頑張って来いよ。今まで色んな事をおまえは乗り越えて来たんだから自信持ってやってこい」「うん。わかった。行って来ます」

 論文も終わりいよいよ面接だ。「失礼します」「まず本校を志望した動機を聞かせて下さい」「はい。2点ございます。まず一つ目は私は歴史に非常に興味があり史学部を希望しております。貴校にはその史学部があります。これが1点目です。2点目は何よりも少人数制と言うのが自分には最適だと思ってます。私は幼稚園の頃言語の発達障害と診断され非常に人とのコミュニケーションをとるのが苦手でした。それを心配した両親が少人数制で面倒見のいい私立の小学校に入学させてくれました。結果は大正解だと考えています。こちらも少人数制ですから学生一人一人にしっかりと目を配った教育を施してくれるものと思ってます。これが2点目の志望動機です」「次に趣味についてお聞かせ下さい」「はい。現在はボクシングに凝っています。中学校2年生から父に進められ始めました。元々身体も小さくどちらかと言えば貧弱だった事もあり又、男は一つくらい格闘技を習っていた方が良いという事で始めました。練習時間も束縛されず個人練習ですので自分の都合でジムに通えます。お陰様で大分体力もついたと思ってます」

 言いたい事はきちんと言ったと思う。後は結果を待つだけだ。「おうリョウ。どうだった」「うん。今までで一番良かったと思う」「そうか。この間も同じ様な事言ってだめだったな。はっはっは」「そんな事。言わないでよ」「あーごめんごめん。受かるといいな」 

 3日後父さんが叫びながら帰ってきた。「受かった。受かったぞー」父さんが郵便を受け取ったのだ。「リョウ。おめでとう。良かったな。やっぱりママ。事前相談行っといて良かったな」「そうね。正解だったわね」「あのリョウが大学生なんて信じらんねーな。全国1位だったんだぜ。下から。本当信じらんねー。リョウ良かったな」父さんに思いっきり抱きしめられた。涙が出た。

 これで進路が決まった。本当に助かった。後日、高校の先生が大学に電話して話を聞いた所面接官3人の内の1人が僕に非常に興味を持ってくれて「どうしてもあの子を入学させたい」と押してくれたそうだ。拾う神ありだ。本当に感謝だ。でもその前に事前相談に行って僕の事情を打ち明けてくれた両親に感謝だ。「ありがとう」後から聞いた話だけど試験の前日父さんは一人で日帰りで宮城に墓参りに行ったそうだ。僕の合格をご先祖様にお願いに行った訳だ。

 実はこの頃父さんは4回目の選挙に向けて活動を始めていた。毎朝駅頭で演説をしている。僕は電車通学だから小学校1年生の頃から父さんの駅頭を見ている。早いなーあれからもう12年だ。会社の事もあり非常に厳しい選挙の様だった。酷い噂もあった様だ。家にも無言電話や変な電話が掛かって来ていた。ネットでも相当やられた様だ。

 今回の選挙で僕は初めて個人演説会なるものを見に行った。壇上では父さんが必死に訴えかけている。隣には母さんが神妙に立たずんでいる。両親のこんな姿は初めてみる。なんかこういう親の姿を見ると変な感じだ。父さんは人前で話をするのは僕と違って得意だ。スポーツも得意だ。時には本当に親子なのかなと思ってしまう。でも他人から見ると僕と父さんは見た目はそっくりだそうだ。

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