父とわたし

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みなさん、自分のお父さんのことは好きですか?

私の父は、一昨年のクリスマスイヴに天国へ旅立った。病室のベッドの上で、ひとりぼっちで。

父が亡くなったあとから、私は父との昔のことを思い返すようになった。そうすることが、父への一番の供養になるようなきがして。そして今では私の楽しみのひとつになっている。


《父》

昔の父は、厳しく、頑固で、怒らせたらそれはそれはこわかった。その一方で、ひょうきんな一面もあり、情に厚く、好き嫌いがはっきりしている人だったので、気の合う仲間や、ご近所さんからはしたわれていた。私もそんな父が好きだったので、出来るだけ怒らせないようにと、父の顔色をうかがいながら生活していた。


《我が家の酔っぱらい》

自営業だった父は、夕方5時には帰ってくる。

帰るとすぐに祖父との晩酌がはじまり、別部屋でアニメを見ている子供達も呼ばれ、私と弟たちは、"まただ"と顔をあわせ、居間に向かう。

テレビに向かい、ああでもないこうでもないと、二人が語り合うのに家族も付き合う。ニュース、野球、またニュース。ときにはテレビの前で酔っぱらい二人の意見があわずに喧嘩になることも。そうなるときまって幼い私は二人のてを取り合って、"仲直りの握手"をさせたのを覚えている。

今でも、暑い夏の夜の香りがすると、首にタオルをかけ、うちわを仰ぎながら野球を見ている父を思い出す。


《能ある鷹は爪を隠す》

父は達筆だった。冬休みの宿題である書き初めは、毎年父と並んで一緒に書いた。だが、父から教わったことはない。字は教わってしまったら個性がなくなるからと、よく言っていた。だから今でも、教科書のようなきっちりした字をみると、"つまらない"と思ってしまう。ひねくれものは、父ゆずりだ。

あとから母に聞いた話だが、父は昔から書道教室に通っていたらしい。しかも、自分で教室をひらける程の腕前で、青山(せいざん)という名前ももっていたそうだ。

青山、キレイな名前だ。

、、いやいや、父は書道教室に通っていたのか!!だったら私にも教えてほしかった。笑

これが、父がよく言っていた"能ある鷹は爪を隠す"ということなのだろうか。


《初めて平手打ちをくらった日》

ある時、小学校で「カンチョウ」というギャグが流行った。両手の平を前で結び、人差し指をつきだし、「カンチョウ!」というかけ声と共に、人様のおしりに向かって突き刺すというやつだ。

流行りにのった私は、あろうことかそれを父にやってみたくなってしまった。

父が後ろを向いたのを見計らって

「カンチョウ!」

一瞬、父の動きがとまった。

あれ、意外と大丈夫なのか?と思った瞬間

「バン!」「バン!」「バン!」

3発の平手打ちをくらった。

力が強くて、3発目で私はフラッと床に尻餅をついてしまった。

「ふざけるな。父親に向かってなにやってんだ!!」

と、怒鳴る父をみて、小学生のわたしは心の中で、だよねー(涙)と思った。


《父のスキンヘッド》

小学四年生の夏、朝起きたら、父の頭がスキンヘッドにになっていた。驚いて母にきいたら、前日の晩、母と喧嘩になり、昔からハゲとデブは嫌いだと言っていた母へのあてつけに、"ハゲ"のほうをやったらしい。そんなことを言う母も母たが、父も父だ。めちゃくちゃだ。

意外と気に入ったらしく、父はその後7年はスキンヘッドのままだった。

スキンヘッドは涼しいようでいて実は日差しが暑い とか、こまめに刈らないと飲み屋の暖簾にひっかかるだとか、酔っぱらって頭頂部だけ刈り忘れたまま飲み屋にいったらベレー帽をかぶっているのかと気かれた相手と友達になった、などとネタが増え、なんだか楽しそうだった。

《父と私》

父と私は、私が高校2年生の夏に別々に暮らすことになった。父と母が離婚したからだ。

その頃には、もう何年も前から父と母の喧嘩が耐えなかったし、喧嘩していなくても何かありそうな雰囲気に毎日嫌気がさしていたので、正直私は両親の離婚が決まり内心ほっとしていた。今思えば、あの頃私はすっかり心を無くしていたのだ。

高校を卒業し、美容師の道を志した私はそのまま夢を叶え、29歳になる今でも現役の美容師を続けている。"石の上にも三年"これも父から教わった言葉だったかと思う。

《父の散髪》

父は、私が美容室へ勤めてから四年目、ようやく美容師として人様の髪の毛を切ることでお金をいただけるようにになったと報告すると、すぐにお店に来てくれた。母と離婚してからまた生やしはじめた父の髪の毛は、私と同じくるくるの癖毛で、半人前の私にとっては大変切りずらかった。しかし、シャンプーをしている私に「こんな日がくるなんてなぁ」と恥ずかしそうに一言だけ言って無言になった父はあの時、泣きそうなのを堪えていたと思う。絶対に、そうだとおもう。

《結婚式》

私は27歳で結婚した。

挙式は近場で、盛大に行った。

昔、母が「中学生くらいまでは、お友達を把握できていたけれど、もうどんな子達と仲良しなのかわからなくて寂しい」

なんて言っていたので、両親に私がこれまでお世話になった大切な人達を紹介したかったのだ。

父にも、父として出席してもらい、バージンロードもふたりで歩くことができた。その日、朝から父は無口だった。

聞くと、朝から家でバーボンを数杯飲んできたらしい。嫌な予感と共に披露宴がはじまり、社交的でひょうきんな父はテーブルへお酌に回った。毎回「うちの娘は世界一だ」とかなんとか言っていたらしく、知らぬまにすっかり人気者になり、父と写真を撮りたいと言い出す人も出る始末。

そしてクライマックス、新郎新婦が両親へ感謝の気持ちをのべ、記念品贈呈の際。すっかり酔っ払い、感極まった父は新郎に「ごめんな〜」と言うなり私を抱きしめ口にキスをした。

その日一番のフラッシュと共に、父はその日一番の主役となったのだ。父にはかなわない。あっぱれだ。 


 

   父が倒れたのはそれから4ヶ月後の冬だった。

私は相変わらず忙しく、慣れない家事と仕事の両立に追われ、父とはなかなか会えないでいた。それでも、自分の誕生日には両親へありがとうと言いに行こうと思い、父の顔を見に行った。祖母の介護をしていた父は、なんだか忙しそうで申し訳なくなって私はすぐに帰ってきてしまった。

その2日後に父は脳梗塞で倒れた。

発見が遅れてしまったせいで、父は寝たきりになってしまった。喋ることも、食べることも、大好きなお酒をのむことも、何にもできずただ天井をぼーっと眺めている父を見たとき私は心の中で"ごめんね"と泣きながら「生きていてくれて、ありがとう」と言った。無表情だった父が、一回だけこちらを見てにっこり微笑んでくれた。後にも先にも、父の微笑みはあの時が最後だった。


高校二年のあの時、両親の離婚が決まった時からポッカリとあいたままだった父との時間を埋めるように、それからの私は出来る限り父のそばにいた。行くと私は、ひらすら喋るようにした。父が寂しいとか悲しいとか思わないように。話の内容はというと、私の近況報告とか昔の思い出とかだ。でも気づくといつも最後には「お父さん、生きていてくれてありがとうね」

と言った。いつも、これが一番言いたいことだった。


私は父に聞きたいことがある。

私の名前の漢字の由来。父の好きな音楽。お母さんのどこに惹かれて夫婦になったのか。小さい頃の夢。一番辛かったこと、嬉しかったこと。たくさんたくさん。

知らないことばっかりだ。

そんな自分を恥ながら、父との時間を大切に過ごした。そして父は、その年のクリスマスイヴに天国へ旅立っていった。


父が亡くなってしばらくしてから私は、父が遺してくれたものに気づいた。それは、人生を大切に生きること。

高校二年のあの時、心を無くしたあの時から私は自分をあまり大切にしてこなかった。だから大切な人のことも、大切にはできなかったきがする。

今が今しかないこと、当たり前ではないこと、後悔しないように大切にすること。そういうことを、父の死から教わったのだ。


父が亡くなった年にお腹に授かった我が子は、今ではハイハイが出来るまでになり、主人と息子との大切な日々を大切に過ごしている。

ひょうきんで酒好きな所が父に似ている主人とは時には喧嘩もするけれど、何かの縁があって一緒になれたのだから、出来る限り歩み寄って、顔が似たしわくちゃの老夫婦になるのが夢だ。


私は父が好きだ。だって世界でたった一人の私の父なのだから。





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