トレンチコート

  二十代の頃、年上の彼女がいた。その人は大人の女性らしく、近づくとほのかに香水の香りがした。ある日、彼女とデートをしている時、ふと、かっこいいトレンチコートが目にとまった。

 何気なく着てみると驚くほど良く似合う。そんな事は奇跡に近かった。その頃、彼女からは「本当にあなたは、何を着ても似合わない人ね」と言われていたのだ。

 「よし、あなたの誕生日も近いし私が買ってあげる」と言われ、ふと値段を見て驚いた。何と八万五千円。まだ若かった僕にとって、その値段は常識の範囲を超えていた。

 「いいよ、いいよ」と断る僕を半ば強引に押し切り、彼女はトレンチコートを買ってくれた。うれしいやら悪いやら複雑な気持ちでお店を出たが、彼女のやさしさが身にしみた。


 そのシーズンはコートを着る機会も多く、彼女とも仲良く過ごした。しかし、年が変わり、僕は職業がかわった。その業界は背広を着る必要がなく、いつしかトレンチコートを着る機会もなくなっていった。

 仕事は多忙を極め、彼女と会う機会も減り、やがて自然消滅のようなかたちでふたりは別れていた。


 時は流れ、あるとき背広を着る機会があり、タンスの奥を探していると、しまったままのトレンチコートを発見した。あまりの懐かしさに、一瞬にして当時の楽しい思い出が頭をよぎった。そして、彼女への想いが蘇った。あの笑顔、あの優しさ。なくしたものの大きさを知った。

 その後、僕は夢中で彼女の居場所を探し出し、何とか連絡が取れて会うことになった。


 休みの日なので、ジーンズ姿のカジュアルな服装にトレンチコートを着た僕。待ち合せ場所にあらわれた彼女は、前よりもはるかに輝いていた。近づくとほのかに香水の香りがした。あの懐かしい、甘く切ない香り。

 僕の顔を見て、僕の着ているトレンチコートを見て、彼女は大きく笑った。昔のままの笑顔で。

そして彼女は言った、「本当にあなたは、何を着ても似合わない人ね」。



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