平和な時代の偉大な死に方

12月某日、仕事を終え帰宅のため渋谷駅へ向かう私の携帯電話がなった。とっくに日は暮れているのに、あたりは昼間のように明るかった。109方向に向かう雑踏の合間を縫うように足早に駅へと向かう私の足が妻からの一言によって杭を打たれたかのようにその場から動かなくなった。

「おじいちゃん亡くなったって。」

不思議な現象だった。先ほどまでけたたましく鳴り響いていた雑音が鎮まり、私の周りの空間だけが一瞬静寂に包まれた。

         *

私の母は私が6歳の時に他界した。その後、私の食事や勉強、学校の持ち物まで一切の面倒を見てくれたのは明治生まれの祖父だった。運動会や参観日、学校へ駆けつけてくれたのもいつも祖父・原野松太郎だった。

祖父のおかげでその頃の私は母親のいない淋しさを少しも感じることなく過ごしていた。

婿養子だった父は母の死後数年して、原野家から籍を抜き再婚をする。私が小学校3年生の頃だ。当然私と4歳年の離れた兄は父と供に祖父のもとを離れ暮らすようになる。私は継母と上手く接することが出来ず、このとき初めて母親のいない淋しさを強く感じる事となった。

「行って来ます」といっても無視、帰ってきて「ただいま」といっても無視、そんな生活だった。継母には連れ子がいたのだが、5歳下のこの義理の弟と、あからさまな差別をされることはとにかく辛かった。自分には母親がいないということを実感する瞬間だった。

そんな環境にあっても、私をいつも祖父が影から支え続けてくれていた。辛いことがあると祖父の元へ行き悩みを打ち明けた。それは私が就職し社会人となってからも続いた。

19歳で美容学校を卒業した私はレンタカーを借りワンボックス1台分にも満たない荷物を持ち国分寺にある就職先の寮へ向かった。親には「じやぁ行くね」それだけの挨拶をして。

就職して数年後、ヨーロッパ研修のチャンスが訪れた。美容師としてワンランク上に行くチャンス。だが、このとき私の蓄えは必要額の3分の1程度しかなく研修を諦めようと思っていた。その時、私に再びチャンスを与えてくれたのが祖父だった。祖父は私に封筒を差し出し「光春が勉強のために使うなら返さなくていいから」といった。

封筒には100万円入っていた。

もし原野松太郎が私の祖父でなかったなら恐らく私は愛情というものを知らずに大人になっただろう。中学生くらいで非行に走っていてもおかしくはなかった。そう思えるほど祖父の私に対する愛情は深いものだった。

         *

「おじいちゃんが亡くなったって」

「そうなんだ」その言葉が出るまでにどのくらい時間がかかったのか分からないが、その時間が私にはものすごく長く感じられた。

だが、以外にもその後の私の反応は落ち着きを保っていた。

明治生まれの祖父は既に90歳を越え長寿をまっとうしていたし、いつこんなときが来てもおかしくはないと覚悟のようなものがあったためか、もしくはすぐには事態が飲み込めず現実のこととして捉えることが出来なかったからなのか、このときは分からなかった。

翌日、仕事を早退し、通夜に出向いた。

埼玉県朝霞市の葬儀場、正面に飾られた遺影を見た途端私の目から涙が溢れ出した。抑えようもなく、止め処なく涙が溢れ出した。覚悟なんかできていなかった。いつも私のために愛情を注いでくれた祖父の死を今初めて認識したのだ。ここに来るまでの間も、ずっと何かの間違いだと思っていた。笑っていつものように「光春」と呼んでくれるものと思っていた。この瞬間までそんな期待をして甘えていられたから冷静でいられたに過ぎない。

数日前、2・3日夜になっても家の明かりが消えなかったのを不思議に思った近所の方が、夕方様子を見に行ってくれた。その時、既に祖父はお風呂場で亡くなっていたらしい。

死因は心臓発作。亡くなって尚、しばらく放置されていたということを不憫に思った。

喪主は叔父(私の母のいとこ)が務めてくれた。祖父は生前、自分の甥であるこの浅川氏に死後の一切を託していたのだ。

人間、泣いているときの記憶というものは残りにくいものなのだろうか。

この後の状況を思い出すことが出来ない。いつまでそこにいたのか、どのようにして家に帰ったのかも。

 

祖父は数年前、祖母を見送っている。それ以前の生活は今でも私の記憶にしっかりと刻まれている。認知症を患う祖母の看病のため3km以上の道のりを毎日のように自転車で病院へ通っていた。80過ぎの老人の漕ぐ自転車は見ている方の心が締め付けられるような情景だ。私が訪れたときだけバスで祖母を見舞いに行くが雨が降らない限り祖父は毎日のように自転車で祖母の待つ病院まで通い続けた。

晩年の祖母はいよいよ自分の姉妹も孫の顔も分からなくなっていた。だが、最後まで祖父のことだけは忘れなかった。

祖父はこの頃、胃の全摘出手術を受けている。

退院後も戦後間もなく建てられた古い家屋に一人で暮らし、食事はカップラーメンやスーパーで買ってきた出来合いの惣菜などで済ませていた。

日中でも日当たりの悪い暗い部屋で電気もつけず過ごしていた。

祖父は若い頃からほとんど贅沢といえるものしていない。酒は毎晩一合程度、たいした量ではなかった。タバコは一日一箱のハイライトその程度だ。

祖父は胃がんを発病したのをきっかけにその両方をやめた。病気なのだから仕方がない。私はそう思っていた。

祖母の死後、いつものように休みを使って祖父の元を訪れると1mmgの低タールのタバコを吸う祖父の姿があった。

「あれっ、おじいちゃんタバコ始めたの?せっかく止めていたのにもったいないんじゃない?」と私が嗜めると。

「おじいちゃんもそう永くないだろうし、もういつ逝っても良いのだからこのくらいの贅沢させてくれや」そう言って笑った。

私はその言葉で祖父が健康の為にタバコや酒を止めたのではないことを悟り胸が熱くなった。認知症の祖母を残して自分が先に逝くわけにはいかない。そんな思いで祖父は酒もタバコも止めていたのだ。

         *

四十九日の法要の日、これが終われば全て終る。私はこのときまで、通夜からの葬儀代などはどうなっているのか気になっていた。戸籍上は無関係だが、本来ならば自分が何とかしなければならない立場なのではないかと自覚していたからだ。だが、その心配は喪主である浅川氏の話で杞憂に終わることとなる。

浅川氏の話では原野家は原野松太郎で最後、一周忌は行わないということだった。そして最後をこう結んだ。

「伯父(祖父)さんからもし俺が死んだらこれで何とかやってくれと300万円預かっておりました。この四十九日が終わって60万円残りました。今日お集まりいただいた方々に一家につき5万円ずつお持ち帰りいただきたいと思います。生前の伯父さんの性格を考えるとそうする事を望まれると思いますので。」と。

私は、この言葉を聴き感動で涙が止まらなくなった。

食事も質素で、日中は灯りもつけずに電気代を節約し、まったく贅沢というものをせず、後に残る人に迷惑をかけないように300万円も預けておいた祖父、そして残ったお金を各家に分け、持ち帰ってもらうことを祖父が望んでいる。そう思われていることに私は言葉では言い尽くせない感動を覚えたのだ。

私だけではなく誰に対しても優しかった祖父の人柄を表してくれたエピソードだ。

人に迷惑をかけないで生きていける人などいない。でも極力、人に迷惑をかけないで生きていきたいと思う。

そして、それがなかなか難しい。

特に死ぬ時は・・・。

でも祖父はその迷惑を最小限にして逝った。

 

その後、私と兄は浅川氏の家に呼ばれ、祖父名義の通帳を手渡された。

晩年の祖父の暮らしぶりを見ていた私は通帳を開いた途端、目頭が熱くなり、苦しいほどに胸が締め付けたられ、またしても涙を抑えることが出来なくなった。

その通帳には2ヶ月に一度振り込まれる年金が何年もの間一度も手を付けられることなく同じ数字だけが刻まれていた。そしてそこには800万円のお金が蓄えられていた。

これだけのお金があったのならもう少し贅沢な暮らしができたはずなのに、そう思うと涙が止まらなくなった。と、同時に誰にも迷惑をかけず、そんな逝き方をした祖父を私は心の底からかっこいいと思った。

 

《どのような生き方をするのか》と《どのような死に方をするのか》正反対のこの二つの言葉を私は今、同じ意味だと捉えている。

死に様を決めるのは生き様なのだと、祖父の死を越えて教えられたような気がする。

祖父から受けた愛情が深かっただけに何もしてあげられなかった無念を私は今でも感じ続けている。

祖父の死後、尊敬する人は誰ですか?と問われたら私は迷わず「祖父を尊敬しています。」と答えている。そして、「誰も知らないけど、どんな偉人よりも祖父は私にとってヒーローなのです。」そう付け加えている。

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