『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第1章「始まりの年」

次話: 『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第2章「走り回る2年目」

その1「きっかけは1枚の貼り紙、しかも手書き」

1996年の春「イラストレーターになりたい」という
想いを抱いて大学を卒業した私。
子供の頃から絵を描く事が好きで、その夢を貫き通すのはいいけど
実際にはどのようにイラストレーターになったらいいのか
全然見当がつきませんでした。
学校も美大に通っていたと言うわけではなかったですし、
周囲を見渡しても、そんな仕事に就いている人はいません。
その上、世の中はほんの少し前にバブルがはじけたばかりの
「氷河期」と言われていた時代でした。

実績も人脈も技術も、ついでにお金もない、
あるのは「絵が描きたい」というやる気だけの私に、
世間の壁は想像以上に厚かった。
勇んで切り込もうにも、切り込み方すら皆目見当がつきません。
しかし取りあえず生活できないと困るので、某歴史史料館の
受付の職を得て、そこで非常勤職員として仕事をしながら
絵の売り込みを開始しました。

同時に「取りあえず何か後ろ盾が欲しい。資格を取ってみよう」
と思い立ち、仕事帰りに恵比寿にあるデザインスクールにも
通い始めました。
とは言え、イラストレーター用の資格はないので、
当時制度が発足したばかりのカラーコーディネーターの
クラスに通って、とりあえず色彩学を学んでみました。
想像はしていましたが教室内には案の定、誰一人として
絵描きなどおらず、みんなファッション関連の職に
興味があるお洒落な子ばかりです。
この選択は間違いだったかもしれない。
実際にその後も、カラーが仕事を得るのに役立った
覚えはありませんし。

けれど、通い始めて3か月が経った6月のある日のこと。
授業の合間に立ち寄った休憩室の掲示板に
一枚の貼り紙がありました。
そこにはなんと「イラストレーター募集」と書いてある!
憧れのイラストレーターになれるのか!
まさかこんな場所から、こんな方法で?
しかもそれは、恐ろしく稚拙な手書きの貼り紙でした。
冷静に考えたら、こんな怖い呼びかけはないかもしれない。
一歩間違えたら、東南アジア辺りに売り飛ばされちゃっても
文句は言えない様な、そんな怪しい貼り紙でした。

…でも若さはもっと恐ろしい。
「わぁラッキー!渡りに船とはこの事だ」とばかり、早速
作品ファイルを持って貼り紙を出した編集プロダクションの
ドアを叩きました。

出向いた先は、千駄ヶ谷にある発足して間もない
小さな編集プロダクションでした。
事務所を立ち上げたばかりだったため、本当にネコの手も
借りたいぐらい人手がなかったらしく、仕事経験もなく
基礎もろくに学んでいない、下手な絵を描いていた私でも
全く疑うことなく受け入れてくれたのでした。
こうして、そこからお仕事を頂く事で私のイラスト人生は
何とか幕を開ける事が出来たのでした。

その2「デビュー作はいきなりメジャーな全国誌」

編集プロダクションに作品ファイルを持ち込んでから、
1ヶ月後の7月、初仕事を頂きました。
遂にイラストレーターデビューです!
しかも掲載誌は全国的に有名な、某赤ちゃん雑誌でした。
こんなにすごい雑誌に、仕事経験のない素人を
使っていいのだろうか。
今にして思うと、なんだかすごく太っ腹な編プロです。
と言うか、単に無謀だったのかもしれません。
しかし仕事を取ったらこっちのもの。
これがデビュー作である事に変わりなし。

この時依頼された原稿は「働くお母さんの一日」と言う
記事の挿し絵でした。大きいカット4点と小さいカット7点の計11点分。
当時はものすごく一生懸命描いたのですが、今見ると
デッサンがめちゃくちゃで、恐ろしいぐらい下手です。
更に緊張のあまり夜中に「原稿が真っ白だ!!!」と言う
恐ろしい夢を3回くらい見ては目が覚めたので
全然眠れませんでした。

けれどその分、雑誌が発売された時はものすごく嬉しくて
「本当に掲載されているのかな」と、目に付く本屋さんに
片っ端から入っては、掲載誌を確認して歩いていました。
そして喜びのあまり大量に雑誌を購入したり、コピーを
どんどんとっては勝手に知人に送りつけたり…と、ひどく迷惑な
デビューを飾った次第です。

しかしこのデビュー作のインパクトは、周囲の人にとっても
大きかったらしく、このあと数年は「子供雑誌にイラストを
描いている人」と、皆から思われていました。今にして思うと、
ものすごく幸運な初仕事だったと思います。

けれどいくら良い雑誌に掲載されたとしても、原稿料の方は
しっかり新人レベルでした。この時のイラストは1点1000円。
通常5000~7000円が相場だとすると、破格の安さです。
それでもお金よりも、イラストレーターになれたことの方が
嬉しくて仕方なかったです。

その3「編プロで仕事の基本を教えて貰う」

右も左もわからない、素人の私が運良くデビューできて、
次々に仕事を頂けたのは、これはもう編集プロダクションに
所属していたお陰でした。
今はもう無くなってしまった、この編プロは当時まだ30代前半の
シングルマザーの女社長が立ち上げた、小さな事務所でした。
彼女自身もライターで「いつか自分の本を出す」事を目標に
事務所を立ち上げたとか。
しかし小さいだけあって、とてもアットホームな事務所でした。

そしてここでは、本当に色々な事を教えて貰いました。
イラストレーターは、ただ絵だけ描いていればOKという
わけではない事も、この時期、初めて知りました。
私は本当に勢いだけで社会に飛び出したので、
いざ仕事を貰っても、どういう風に作業を進めて良いのか
全くわからない状態でした。
何処にもマニュアルは無く、誰も教えてはくれません。

そんな未熟な私に、編プロのスタッフさん達は親切に
原稿の描き方や入稿の仕方、請求書の書き方、仕事の進め方…等々、
沢山の事を教えてくれました。この時教わった事は、多少の改善を経て
未だに仕事の土台として役立っています。

ここで頂いたお仕事は、主に雑誌の挿し絵などでした。
生活情報誌やビジネス誌、年配向けの医療系雑誌など、
ジャンルに捕らわれず、色々な雑誌から依頼が来たので
その都度、様々な作風を描き分けて仕事をこなした事は、
とても勉強になりました。

「イラストレーターは色々なタッチで描ける方がいいよ。
その方が仕事を沢山こなせるから」と言う、事務所の人達の
言葉を素直に受けて、当時は色々な画材で、様々なタッチの絵を
描いていました。
(しかしその概念は、事務所側の使い勝手の問題であって、
決して私達イラストレーター側の作家性を重んじた言葉では
なかったことに、後になって気がつくのですが)

この頃は、まだ不慣れなイラストの仕事に、非常勤のお勤め、
そして気がついたら社長さんの子供のベビーシッターまで請け負って、
毎日寝る暇もないぐらい、忙しい日々でした。
けれどすごく働いたのに、何故かすごく貧乏でした。
(ベビーシッターの基本給は時給600円でした。ほぼボランティアです)

それでも、その作業を通じて社長さんの近くにいる
つまり他の人よりも仕事を得やすい状況にいた事は、
大きなメリットでもありました。
それにとにかく、何をしても、どんなに忙しくても、毎日が楽しくて
仕方なかった時期でした。

どんどん自分の想い描いていた様に、夢が叶う楽しさと嬉しさ。
仕事をすればするほど、自信にもつながったし、
どんどん勢いも増して、絶好調です。
そしてその勢いは、ついにイラストの領域を飛び越えて
ライター活動をするという事態にまで発展し、忙しさは
加速度を増す事になりました。

その4「なぜかライターになっていた」

小さな編プロはその当時、毎日大忙しでした。
どちらかと言うとイラストよりも、取材記事の方が仕事を
取りやすいらしく、次々にその手の仕事が舞い込んでいました。
しかし事務所が軌道に乗り始めると、今度はライターが
足りないと言う事態が発生して…。

「仕事は取りたい、でも人手が足りない」と言うわけで、
ついにはイラスト専門の私にも「ライターをしてみない?」と
声がかかりました。
「無理です」と即答したものの「あなたが取材した記事には
全部あなたのイラストを載せるようにするから」と言う
殺し文句に負けて「それじゃ、やってみます」とイラスト描きたさに
始めたライター業。

しかし、きっかけはこんな形でも仕事は仕事です。
ライター用の文章の書き方を、しっかりたたき込まれ、
初めの頃は原稿が修正用の赤ペンで、真っ赤になりました。
なんだか大変な事に首を突っ込んでしまったと、
後悔しても後の祭りです。

ライター活動は私が単純に考えていた様に、ただ文章を
書くだけではありませんでした。まずテーマが出され、
それに基づいた取材先を探し、資料をしっかり読み、
取材先に足を運んで話を聞き、写真を撮り、それをまとめて
記事を書き、修正を重ね、取材先に出来た原稿を見せて
確認を取り、ようやく完成。

最後の最後で空いたスペースがあったら、イラストを入れる…
と言うのが主な流れでした。(時には初めからイラストを
主体にした、レイアウトの場合もありましたが)

更に記事を書く作業は、不慣れだとものすごく手間が
かかります。初めの頃は修正ばかりでなかなか進まず、
こなせる原稿量も微々たる物でした。
当然だけど取材の仕方も下手で、先方に不審がられたり、
文句を言われたりもしました。
なので最後にイラストを描く段階になると、時間が押せ押せになり
なかなか思うような物が描けなくて逆に大変。
「しまった、道を誤ったかも」と気付いたけれど、すでに
引き返せず…進むしかない状態です。

ちなみにライター初仕事の原稿は、某植物性オイルに関する
ダイエット記事でした。2~3ページ分の記事で原稿料は
1万2000円。
交通費や写真代などの取材経費は出して貰えたとしても、
やっぱり破格の安さです。
(それはそうです、思いっきり素人ですから)

でもすぐに取材に慣れ、原稿にも直しが入らなくなり、
量もこなせて、1ページ1万円ぐらいの原稿料を
頂けるようになり、気がついたら「イラストよりも
ライター業で稼いでいる」という状況になりました。
元々イラストレーターになりたかったのに、これでは本末転倒です。
しかしイラスト活動1年目は、こんな風に
「なんだかこれで良いのか、よくわからないけど」と悩みながらも
毎日勢いだけで突き進んでいました。

人生、何処に道が広がっているかわからない、無我夢中の日々でした。


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