『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第9章「パレットの年」

前話: 『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第8章「初めての連載依頼。春は来たけれど」
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その1「井の中の蛙、イラストスクールに通う」

勤めを辞め、連載も終わり、貯金はわずかだけれど
時間だけは沢山あった活動9年目の春。
意を決して築地にあるイラスト学校、
パレットクラブ・スクールに通い始めました。

通ったのは「イラストコース」で、私は
その8期生でした。パレットで過ごした時間や
授業内容などの詳細は、長くなるので省略しますが
ここでの授業が、参考になったのはもちろんの事、
それ以上にこんなに沢山の「絵を描ける人」が
いる環境を、目の当たりにしたのはこの時が
初めてだったので、その衝撃の方がずっと強かったです。

後年、イラスト仲間との飲み会に、異業種の方が
入っていた時「こんなにたくさん絵描きさんを見たのは
初めてです!」と、新鮮なまなざしで言われることが
何度かありましたが、この時の私もまさにそんな
心境でした。

「ここにいる(60人ぐらいの)人たちって、みんな
絵が描けるのか。すごい!」と自分を差し置いて
素直に感嘆。 そう、この時まで他の人達が
一体どんな絵を描いて、 どんな活動をしているのか
全く知らなかった私は、本当に井の中の蛙でした。

授業は週一回ペースで、毎回違う講師の方が来て
作品を見て下さいました。その都度頂けるコメントが
嬉しくて、いつも一番前の席に座っては張り切って
課題を描いたり、 作品ファイルを作っていました。
ここに通っている期間中、100枚近くの絵を描いたので
作品のタッチも通い始めと最後では、随分変わった様に
思います。「とにかく描かないと何も変わらないんだな」
と言う事を感じると同時に、他の人達の作品や活動も
非常に参考になりました。

そして一連の授業が終了した後も、ここで
知り合った友人達の作品展を見に行ったり、
仕事や展示の相談をしたり、時々飲み会をしたり。
はじめは「果たして、ここでは友達なんて
出来るのだろうか?みんなライバルなんじゃ
ないかしら?」と、不安に思っていたので、
同業の人々との交流は嬉しい誤算でした。
そしてイラストの世界において、初めて横の繋がりが
出来た事で、この世界の情報や人脈も一気に広がりました。

更にパレットを終了した後は、仕事の流れも
若干変化しました。
友人からの紹介や、卒展の冊子を見てなど、
ここでの活動に経由する物が多くを占めました。
正直言うと通う前は「ずっと一人でも仕事をして
きたのだし、今更学校に通い直すなんて」と、
思っていた部分はありました。
けれどあの時期、パレットに通っていた人達は、
みんなすごくイラストや、仕事に対する意識レベル(向上心)が
高かった。なのでここに来て切磋琢磨してようやく
「世の中にはすごい人がいる。これじゃ私に
仕事が来ないのも納得できるわ」と、蛙は素直に思いました。

無知の知と言うか、己の実力の程を知った事が、
ある意味パレットに通って一番価値があった事
だったかも知れません。


その2「束の間、会社員イラストレーターになる」

この年の年末に、パレットの授業が終了すると同時に
微々たる貯金も尽きたので、仕事をみつけて
働きに出ました。
実はパレットに通っている間も、ずっと
「途中で貯金が尽きて、電車賃がなくなったら
通えなくなっちゃうかも。最後まで授業を
受けられるかな…」と、ドキドキしながら通っていたぐらい
究極に貧しかったのです。(いつも究極に貧しいのですが)
必要に迫られてのイラスト人生再出発でした。

通常、イラストレーターが仕事を探すとなると、
作品ファイルを持って営業に行くのが王道ですが、
何故か私はハローワークに行き「イラストレーター募集」の
求人を発見してきました。
そこは都内にある、出来たばかりの小さな
広告代理店でした。医薬品関係の広告などを
取り扱っていたので、様々な病気の勉強をしては
毎日会社に通って臓器の絵を描いたりしました。

ここで初めてMacを使わせて、絵を描かせて
貰えてことは大きな収穫でした。実は今まで
パソコンで描く作業をしてこなかったので、手描きの
アナログ人間である事は、密かに大きなプレッシャーでした。
パソコンの知識を持ち、デジタルで描けないと、
この先ますますこの業界から取り残されてしまう
のではないか…と。

しかし実際使ってみると「なんだパソコンは、
ただ絵を描く道具の一つに過ぎないんだな」
という事がわかり、一気に不安は解消しました。
そんな私を社員の方々は、見放さず優しく
教え続けてくれました。私のために新しいペンタブや
マニュアル本まで買ってくれました。

が、しかし。そこが必要とする医薬系広告のイラストは、
ほとんどが「スーパーリアリズム」と言う、すごく写実的な
イラストでした。(これは簡単に言うと、遠目には
写真かイラストかの区別がつかない様な、精密な
タッチの絵です)なので私の描く絵とは、
感覚的に完全に異なります。

技術的な要素が根底から違うので、直そうとして
直せるものでもありません。かくして折角張り切って
通勤していたにも関わらず、「お互いが求めている絵の
方向性がかみ合わない」ことを理由に、正社員の
夢を断たれ、わずか2ヶ月で職場を後にしました。

民間企業は厳しい。けれど「社会に適応できなかった」と、
へこんでる私に対し、絵描きの友人達は口々に
「良かったねぇ。2ヶ月間無料どころか、逆に
お金を貰ってMac教室に通っていた様なものだよ。
しかも交通費まで支給されて」と、慰めの言葉を
かけてくれました。…考えようによっては、確かに
そうかもしれない。
イラストレーターの子たちは、なかなか発想豊かに
逞しく生きているのです。

実際にこの時教えて貰った技術が役立って、
その後もイラスト入りの小冊子を作れたり、
DMもデータ入稿できたりと、色々個人的にも
応用がききました。
ここまで来たら、転んでもただでは起きないわ。
そもそも、ずっと転びっぱなしみたいなものですが。



その3「三足のわらじは厳しい」

会社員イラストレーターをしていたのと同じ時期、
個人的にもイラストのお仕事を頂いて、描いていました。
以前、歴史史料館に通っていた頃は、週3勤務の
非常勤だったので、イラスト業も両立出来ていましたが、
今回の様に週5勤務となると、予想以上に
勝手が違って大変でした。

まずイラストの打ち合わせをするにも、時間が
取れなくて四苦八苦です。また会社にいる間に、
家では留守電から雪崩のように、企画書の
ファックスがこぼれ落ちていました。
帰宅後にそれを見て不備に気づいて電話しても
先方もすでに帰宅している時刻なので繋がらず、
いたずらに時間ばかりを食ってしまいました。

携帯は持っているけれど、まさか勤務時間中に
かけるわけにもいきません。
今はスマホがあるから、多少は勝手も違うかと
思いますが、とにかく仕事の掛け持ちは
連絡の仕方ひとつとっても至難の業でした。

更に作品を締切には間に合わせたけれど、
その後に思わぬミスが生じ、最後の最後は
身動きがとれなくなって、仕方なしにクライアントさんに
勤務先の会社まで、直接原稿を取りに来て貰うと言う、
大変な手間をかけさせてしまいました。

しかも追い打ちをかける様に、忙しい時に限って
色々な事が重なる物です。この時期は
パレット卒展用の作品制作も進行していました。
二足ならぬ、三足のわらじです。
ちなみに、このお勤めとイラスト仕事と展示会の
「3つの作業が重なる期間」は、わずか1ヶ月ほど
でしたが、睡眠時間が連日3~4時間と言う、
過酷な日々でした。

こうなると、全ての作業を無事にクリアするか、
それとも体の限界が来て倒れるか…のどちらか
でしたが、取りあえず倒れる寸前で、全てを無事に
クリアした。けれど卒展作品の出来のひどさは、
今考えても青ざめるほどだったし、イラストの仕事も
自分の限界を感じるほどに、痛々しい仕上がりでした。

更に「これからは会社の仕事に集中して」と
思った矢先に辞める事になってしまうし。
気がついたら全ての事が、別の意味合いで
クリアになっていました。あんなに全部頑張ったのに、
どれもまともに手元に残らず、反省点ばかりなんて。

生活のためにお金を得なくてはいけない。
でもだからと言って、限界まで作業を詰め込むと
作品の質に影響してくる。
何処でどう、折り合いをつけるのがいいのか。
新たに生じたジレンマや悩みを抱えつつ、
9年目が過ぎていきました。


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