「おもて」と「うら」、夢追い人の夢追い人生

 私はいつも夢だけを追いかけて生きて来た。「今はまだ人生を語らず」という歌があったが、人生の節目を迎えるにあたって、次へ歩みだすためにも自分の人生を振り返ってみようと思う。

今でも貧困は問題化しているが、私は市民税均等割以下で、当時は全員接種だった予防接種が無料になるような家庭で生まれ育った。当時は「砂の器」のような世界がまだ普通にあるような世界だった。父親は身体障がい者で職人だった。私の起きる前の朝早くから、家の中で夜遅くまでずっと仕事をしていた。そのため、外へ遊びに行くこともなく、ごく稀に近所の同じ小学校に通う子供がいる家の人に一緒に連れて行ってもらったりするのが唯一の外出だっだ。当時ではまだそれほど多くなかった持ち家だったのが不思議だった。これは大人になってから知ったのだが、遺産相続の財産分与でもらったらしい。既に亡くなってしまったが、父親の人生も相当に大変だったようだ。

私は小学校、中学校ではクラスで1、2を争うほど身体も小さかった。今ほどみんな背は高くなかったが、高校1年の身体測定で148cmだったので相当なものだった。だからというのは言い訳には過ぎないが、運動も苦手だった。それ故に他のところでなんとかしようという意識が強くなっていったのかもしれない。

そんな家庭だったので、本を買う金もなく、はやっていた少年ジャンプなどの少年漫画雑誌も買ったこともなかった。だから、教科書以外で唯一の活字にふれたのは、新聞だった。インターネットの普及で情報が溢れている今と違って、新聞くらいしか情報を得るすべがなかったので、たいていの家では新聞をとっていた。白黒のテレビはあったが、見れる時間は限られていた。それで、小学校2年生くらいから新聞を読むようになった。おかげで漢字には強くなり、それだけは同級生の誰にも負けない自信があった。当時漢検があったら、のめりこんでいただろう。ノートに魚編の漢字を書き出して集めたりした。漢字辞書などなかったので、親戚の人が置いていった広辞苑を引いて、漢字を集めていった。だから、今でも鮨屋の湯飲みに書かれているような、鰆とか鰊とかの漢字はほとんどが読める。小学校3年生の時、同級生の女の子と、「不知火」、「漁火」をお互いに問題を出し合ったのを覚えている。

力は弱く、けんかをしてもすぐに負けていた。まあ、当時はとことん叩きのめすようないじめは多くなかったので、まあ救われたわけだ。小学校の5年生の時に、初めて算数の参考書を買ってもらったのをなめるように勉強したので、それ以降の勉強は余裕があったし、そこそこできる子になったので、いじめられることもなくなった。中学生になってから、これも友達に誘われて、無謀にもバレーボール部に入ったおかげで、運動に対する苦手意識もなくなっていった。

そんな私の転機となったのは、中学3年のときの隣のクラスの同級生との出会いだった。全校生徒2000人超という、マンモス小学校で同級生が450人もいるような学校だったので、ほぼ小中一貫みたいな状態だったので、9年間で一度くらい一緒のクラスになりそうなものだが、一緒のクラスにはなったことはなかった。仲の良かったクラスメイトの友人の一人で隣のクラスにいて話をするようになったのがきっかけだった。

彼は、詩人だった。学校は一つの行政区と同じくらいの広さのある学区のど真ん中にあって、彼の家は私の家の正反対の方向にあったが、時々、私は彼の家まで一緒に帰った後、家に帰るようになった。その道すがら、彼はいろいろなエッセイのストーリーを聞かせてくれた。その中の一つが、レモンちゃんと呼ばれていた時代の落合恵子さんの「45パーセントのしあわせ」というポエム・エッセイ集の最後のエッセイだった。彼は結構長いその内容を暗記していて、道すがら聞かせてくれたのだった。多感な時代の私は、その本をなんとか手に入れ、さらに新刊の「おうちへお帰り」という本を初版で買って読んだ。そんな彼が見せてくれたのが「東雲と黄昏」というエッセイだった。日の出と日の入りの刻を表すこの2つの読みにくい単語に私は魅せられた。私の「東雲二浪」というペンネームの原点はそこにある。当初は大佛次郎にちなんで、「次郎」だったが、それではあまりにも平凡なので「二浪」に後に変更した。決して、2回浪人したわけではなかったないのだけれど。そして、詩や歌詞、エッセイ、小説などを書くようになった。私が最初に書いた詩は、夜空の木星を見て書いたもので、かなり長い間机の中にしまって取ってあったが、もう捨ててしまった。まあ、今思うとただの駄文だ。

当時はフォークソング華やかなりし頃で、ご多聞に漏れず中学時代に近所にあったギター工場のB級品のギターを5000円で入手し、ギターを弾き始めた。私の音楽との関わりはここからスタートした。自分で歌詞や曲を書いて歌っていた。まあ、人まで披露するまでにならなかったけれど。フォークソング時代の吉田拓郎さんやかぐや姫なんかのレコードを買い込んだりして聞いていたり、ギターを弾いて歌っていたりした。私の世代より少し前のフォークソングは、ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランさんに代表されるような反社会的な側面も持ち合わせていた。「Blow in the wind (風に吹かれて)」や「Don't Think Twice, It's All Right(くよくよするなよ)」やサイモン&ガーファンクルの「Sound of Silence」,「El Condor Pasa(コンドルは飛んでいく)」などを英語の歌詞のままギターを弾き歌っていた。どれも同じであるが、元々は南米のフォルクローレの「コンドルは飛んでいく」は、かなり意味深な歌詞がつけられている。まあ、私の人生は確かに「風に吹かれて」いるようなものだ。

そうした中で、自分の中に「おもて」と「うら」の2つの人格があることに気づいてしまった。昼の社会との付き合いのための表面的な自分とメロウになっていく夜の物書きとしての自分である。ペンネームを使い出したのも、「おもて」と「うら」の自分をコントロールするためだった。そして、「おもて」と「うら」が、非同期的に自分の中で成長をしていった。

今でも納得がいかないが、当時の政策で学校群制度が導入されることになった。2校がグループになった群を受験する仕組みだった。そして私は、その第1期生だった。私の受験した群は、同時市内で2番目としたから数えて何番目みたいな高校との組み合わせだった。結果として、下の方の高校へ進学したのだが、合格気分になれなかったのはいうまでもない。中学3年生の時に、受験間際だというのに、友達の家で毎日トランプに興じていたバチがあたったのかもしれない。

私の進学した高校は、当時でも珍しい競争のない平和な進学校だった。灰色の受験生活とは無縁の高校だった。なんせ、1、2学期は10段階評価、クラス学年順位はつけない学校だった。上を目指すにはよくないのかもしれないが、いいシステムだったと今でも思う。まあ誰が賢いかもなんとなくしかわからない状態だった。まだ教員組合が強い時代だったので、それができていたのかもしれない。

今では考えられないだろうけど、教員のストも経験した。パトカーが学校に来て、何かしていたけど、当時はさほど関心もなかったが、今思えば、世界史や倫理社会のテストで、ほぼ白紙の論述問題だったのは、今では考えられないことだと思う。漢文の先生は、中国語でそのまま文章を読んだり、化学の先生は舞台の脚本を書いたりするような個性的な先生が揃っていた不思議な学校だった。規制も結構緩かったので、昼に抜け出して、外で食事をしたり、授業後に教室で紙麻雀をやったり、授業後に雀荘に行ったりした。3年になると黒だけどジーパンで登校してくるものもいた。同じくらいの学力の学生が集まってきていた時と違い、私たち学校群一期生は先生たちにとってもたいへんだっただろうと今では思う。

当時の教科書は今の3倍くらいの厚さがあるようなもので、参考書など買わなくても、その中できちんと説明がされているようなものだった。だから、自分で先回りして勉強しておけば、ほとんど授業は不要だったし、自分の考えと先生の考えはそもそも噛み合わなかった。その当時の「夢」は文筆家になることだったし、高校の授業はつまらなかったので、教科書を立てて、紙にずっと歌詞や詩、エッセイを書いていた。今でも右手の中指にペンだこが残っているのが、その証拠だ。少ない小遣いの中で、時には昼ご飯のためのパンを買うためのお金を使って、文庫本を毎月毎月メモ帳に書きながら、国内外を問わず、いろいろな作家の本を手当たり次第に買って読んでいた。最初は、著名な作家のカフカとか芥川龍之介とかを読んだりていたが、途中から本屋で知らない作家の本を選んで買うようになった。そこで出会ったのが、吉田知子さんの小説で、そのスタイルは自分でも特に気に入っていた。日曜劇場のように、時間の流れの中にさりげなく入っていって、押し付けがましくなくさりげなく終わっていく。自分もそんな小説を書きたいと思うようになった。まだ、「うら」の私が成熟していなかった時代である。

「おもて」の自分は、優等生的にいる自分が、それではいけないと思い始めていた。元々いい加減なのかもしれない。それで、いわゆる真面目でないことに色々トライした。それは、唯一学年順位がついた高校2年始めの実力テストでは38位だったこともあって、さらにエスカレートしていった。普段はもちろん、テスト期間中であろうが教科書は持って帰らず、友達の家で麻雀に興じていた。テストなんて実力テストでいい、とさえ思っていた。ところが、全国統一模試で現国・現国部門という理系向けの部門だが、全国62位でカタカナで名前が載った。そもそも現代国語なんて、学校で習うようなものではないと思っていたので、成績は10段階で5、5段階で3だった。できんぼうだと思われていた私の成績に高校の先生が驚いていたのを覚えている。正確にはわからないが、学年で2位だったらしい。高校時代も奨学金を貰って通っていた私は家庭の事情もあって、当時でも珍しく就職指導を受け、国家公務員試験を受けようとしていた。まあ、当日雨降りで結局は受験することはしなかった。雨が降らなかったら、郵便配達をしていたことになる。当時も進路指導もあったが、今と違って受験校を強制するようなことはなかったので、念のため自分で一ランクだけ志望を落として、国立の2校だけ受験した。数学と国語は70近い偏差値だったし、模試の結果はランクを落とす前の状態でもA判定だったので、まあ落ちることはないとタカをくくっていた。

実は進路を決める際に、「うら」の私は文学部に行きたかったが、「おもて」の私は当時流行っていた電子ボードを買い込んで電子回路を組んだり、ラジオやアンプを自作したりしていた。進路を決める時、ミニマムな将来像として、文系のセールスマンと理系の工員を天秤にかけ、結果として自分の「おもて」面である理系を選択した。当時電子工学はソニーなど隆盛を誇っていた。そして、工学部の電子工学科を受験した。しかし、それでも「うら」の私は大学入試の会場でも詩を書いていた。


二日きり -Mar.23,1976大学入試会場にて-

小雨にけむるキャンパスに

寒さにふるえる初春が

ほんの二日だけ私のもの

回りは見知らぬ人ばかり

ちょっぴり孤独を味わっている

いつも一人ぼっちなのに

今日は初めてテストの日

明日が過ぎればもうずっと逢えなくなるさ


そんなだったので、当然のごとく入試には失敗し、結果としてかろうじて地方国立大学の第2希望の学科に補欠で進学することになった。これが化学との出会いになった。自営業とはいえ、年収70万円という家庭環境では、それ以外に選択肢はなかった。今よりもかなり学費は安く、奨学金を貰えば、かろうじて進学ができたのだった。希望の大学でもなく、学科でもないところに進学した上に、大学の授業も思ったほど楽しいものではなかった。憧れと期待で受講した心理学はわけのわからないものだったし、得意だったはずの数学も高校レベルから一気にジャンプした内容についていけず、興味を失っていった。数学自体が結果として厳密なものでないなら、高校時代からそう教えるべきだと思う。当時は、出席を取らない講義も多かったので、次第にいわゆる不良学生への道を歩み始めることになった。

糸の切れた凧のように彷徨っていた私を同級生が音楽系のクラブへ誘ってくれた。もう夏休みも間近のころである。私は補欠入学だったので、入学時には、すでに入学式も終わっていて、クラブ勧誘のタイミングを逸していた。本来は文芸部とかフォークソング同好会とかに入りたかったのだけれど、一人で門を叩く勇気がないでいた。大学に教育学部があったため、そのクラブは男女半々ぐらいで、ほとんど異性に縁のなかった私には新しい世界だった。安物だったが、クラシックのギターは持っていたので、それで入部しギターを弾くことになった。私がクラシックの世界に足を踏み入れることになった瞬間だった。

クラブは「おもて」の私に大きな変革をもたらした。自分を変えたくて、2年になった時に指揮者に立候補した。上級生もいる合奏団で、当たり前だけど一人で指揮をして音楽を作っていったのである。今更ながらに、そんなことができた自分に驚くとともに、それを許してくれた部員たちに感謝しなければならない。そして、私はどんどんのめり込んで行った。デンスケと呼ばれていたソニーのステレオカセットテープレコーダーを担いで、先輩に連れられ、いろんな演奏会場にでかけた。特にメッカだった京都に足繁く通い、京都の大学のクラブの演奏会は半数くらいは行ったのではないかと思う。先輩もマニアで、楽譜を買っていたりしていたが、お金もないのに私も自然と楽譜を集めるようになった。2年から下宿し、朝昼抜き、晩自炊みたいな生活を送っていた上にそんなだったので、留年ぎりぎりになったこともあったが、なんとか4年で卒業はした。その頃から、私の「おもて」の夢は「音楽に関わる人生」になっていった。

それでも、4年生の卒業研究だけは真面目に取り組んだ。研究室は物理化学を選んだのだが、その中は工学部というより、理学部に近い環境だった。実際に教授のS先生も理学部出身の40歳くらいの当時としては若い先生だった。助教授のK先生は30歳くらいで、説明を頼むと白板にサササッと数式を書き立てて、だからこれくらいになるでしょと説明するような人だった。私は自分がいかに無能かということを思い知らされた。K先生は北大から京大の先生になられたので、やはりすごい人だったのだと思う。助手のK先生は大学院を出たばかりで3つほどしか年が離れていなくて、しかも小柄だったので、学内でよく学生と間違われていた。学生時代にオーケストラをやっていたということで、先生の住む部屋にはよく遊びにいかせてもらって、いろいろな話を聞かせていただいた。そのK先生も今は立派な大学の教授になられている。当時の指導教官の教授の先生のポリシーは、世界的な研究をし、そういった研究者を輩出することだとおっしゃっていた。あまり例がないような気もするが、次の人も名大の教授になっていった。いわゆる大学政治には興味がなく。本当に研究一筋の先生で、その姿勢は私の模範とするものになった。

私たちは、その研究室の一期生で、実験器具や実験環境を手作りしていった。丸ノコやガスバーナー、電動ドリルなど、とても化学の研究室とは思えない部屋だった。実際に、元々電子志望の学生が半数を超えていたと思う。データを取るための実験用の基盤とかも自作していた。私ではないが、炭酸ガスレーザーまで自作していた。一からモノを作っていけるのは、とても楽しく、夜の10時くらいまで研究室で勉強をしていた。当初の実験は、マグネトロンという、要は電子レンジを使って硫化水素と酸素を流して、励起した発光を見るというようなものだったが、液体窒素で冷やしていたガラス管が次第にきれいなシアンブルーになり、綺麗だねと言っていたら、助手のK先生がそれを見つけて、それを外し、慌てて分厚いガラスが前面にあるドラフトの中に入れて、閉めてしばらくして爆発したらしい。実は青いのはオゾンの氷で、硫化水素と反応して爆発したのだった。なんせ、暑さが1cmくらいもあるようなガラスが木っ端微塵になっていた。危うく、事件どころか殉職になりそうな一件であった。

就職先は、結果として求人票の一番上にあったソフトウエア会社を選んだ。化学の面白さもわかり始めていたが、やはり仕事にする気はあまり起きなかった。「うら」が時々顔を出すので、無謀にも出版社とか行けないかと思ってはいたが、さすがに工学部でそれはないと断念した。ドーナツ屋の店長やスーパーのパックのラベルを印刷する機械を製造する会社の説明会も行ったが、しっくりこず、結局は元々やりたかった電子系に近いコンピュータの世界を選んだのだった。唯一教授に勧められた半導体会社の推薦を友人に譲らなければ、180度違う人生になっていただろう。教授の先生の計らいで4年の後半は、化学科なのに、電子計算機センターに入り浸りという生活になり、当時ようやく使われ始めたコンピュータシミュレーションを題材に卒業論文を書いた。今はどうかわからないが、当時は教授陣の前での卒論発表会があり、そのための要旨集をあえて、先生にタイプライターを借りて、英語で書いたのを覚えている。卒業後、しばらくは化学科なのに実験もせずに卒業したやつがいると語り草になっていたらしい。これが、今での仕事の一部になっているコンピュータプログラムとの出会いである。

そんな頃、ちょうど大学を卒業した、1980年3月25日のことである。「うら」の私は、初めての短編小説「遠い日の憧れ」を書いた。旅に出た大学生が、旅先で高校の同級生と出会い、話をしていくうちに、彼の独白的恋愛話を聞くというようなストーリーだ。これは、いつか何らかの形で世に残しておこうと思っている。この頃から私は小説を読まなくなった。自分の書くものに影響を与えたくなかったからである。今思うと、このことは私の文学的レベルの進化を自分で止めてしまったのかもしれない。

「おもて」の私は、後輩との約束を守って、卒業後も2年は大学のクラブへ頻繁に顔を出し、地元の楽器店に入り浸った。そこで、初めて美容院にいってパーマをかけたり、当時は華やかな世界で、店が終わった後、楽器店のご主人や仲間とちょっとしゃれたレンストランへ食事に行ったりもした。何より、プロやセミプロレベルの人たちと音楽の話をするのがとても楽しかった。私は、ろくに弾けもしないが、楽器を2種類買い、DX-7という当時話題のシンセサイザーやドラムマシン、デジタルピアノ、MTRまで買った。そして、ポプコン華やかなりし頃のヤマハの作曲編曲コースに2年通ったりもした。そして、作曲がやりたい一心で26歳くらいからピアノも習った。楽器店仲間から、何人かがプロになって行ったが、所詮マニアな私は、さほど上達することもなく、次第に自分の限界を感じるようになっていった。

就職先での私のソフトウエア業界に関する知識は、インターネットなどない時代なので、OSやコンパイラを作るようなことをするのだと思っていた。実際に面接でプログラマになりたいと言ったら、SEですよね、と言い換えられたことを覚えている。その入社した会社は、当時は色々な意味で有名になっていた、いわるゆ派遣系のソフトウエア会社だった。舞鶴自衛隊での体験入隊をしたり、夏には富士登山をしたりと話題には事欠かない会社だった。いろいろ悪口も言われていたが、自分としては給料が安いことを除けばそれほど不満があるわけではなかった。確かに見せ金商売だったと思うし、技術は金で買えるということもよくわかった。それでも社長はある意味人格者だったし、他人からは好き嫌いがはっきりするような人物だったが、その時に配られた社員手帳の各ページに書かれていた語録は、サラリーマンにはともかく、起業する人にとっては大事なことが書かれていた。良くも悪くも、実際に、その会社から多くの会社が生まれていった。

私が幸運だったのは、なんとかアカデミーと称して私の入社した年だけ、6ヶ月間仕事なしで勉強を社内でさせてくれたことだった。基礎知識を習得するには十分の期間だった。その後、派遣先の大手工作機械メーカーで1年、自動車製造メーカーで3年システムエンジニアとして働いた。しかし、初任給10万円の時代で、自分の派遣単価が30から40万円であることを知ることになり、周りが辞めて行く機会に私も独立を決意した。そして、当時使われていた小型のビジネス用コンピュータであるオフコンの販売会社と月30万円で契約して1年間働いた。社長はアパレルの店を経営している人で、とてもいい人だった。社員のことを考えると夜寝られない日もあるんだ、など社長業の大変さもいろいろ聞いた。

しかし、自分の実力を過信していた私は、さらに上へという欲求が抑えられなくなっていた。そして、知り合いの紹介で3ヶ月ほどフリーのプログラマになった。2ヶ月で60万円、週休4日、つまり月、水、金だけ客先でプログラムを作成するという、当時とすれば悪くない条件で仕事だった。しかし、当時住んでいた一人暮らしのマンションの下で、3時くらいになると小学生らしき子供の声がし、昼ごろにファミレスに行けば、不良学生か主婦みたいな人しかいない中で、自分はこんなことしていていいのかと思うようになった。それで、昔のつてをたどって、再び月40万円の派遣契約で1年間商社で働いた。今思うと、派遣根性が染み付いてしまっていたのかもしれない。しかし、空いた時間を利用して個人的に勉強していたパソコンの仕事ももらって、年収は600万円ぐらいあった。繰り返すが、初任給10万円の時代なので、それなりの金額である。私の人生の中で一番収入が多かった時代でもある。今ぐらいパソコンがビジネスになるようだったら、この後の人生は大きく変わっていただろう。しかし、CPU1MHz、メモリ640kBでは、まだまだパソコンは非力だった。

それで、調子に乗って、友人たちと4人で会社を立ち上げた。4等分して出資して、いちばんの年長者が社長になり、他は平の取締役になった。設立時にコンサルをしてもらった行政書士の人にも言われたが、結果としてこれは失敗だった。当時なら、皆独身だったのでリスクも取れたので、今思えばもう少し他の方法もあったのではないかと思う。後で話すが、私は途中で抜けたので実際のところはわからないが、少なくとも成功はできなかった。今と違って、社内でソフト開発ができるような時代ではなかったのである。結果として、それぞれが、それぞれ派遣的な仕事をしていたので、会社としては赤字にならずに済んではいたが、大きくなることもなかった。今思うと、ままごとのような会社だった気がする。その会社での最後の1年、大阪で仕事をすることになった。元請けで月100万円のサブシステムの基本設計の仕事だった。間に何社も入っていても、自分の会社にも60万円入る契約だったので、今では考えられないようないい条件だった。

ただ、この大阪での1年は、また「おもて」の私を変える大きな1年になった。派遣先で、初対面でいきなり「お前そこに座れ」と言われ、席を指差されたのには面食らった。何度も派遣経験はあるが、初対面で、お前呼ばわりされたのは初めてだ。当然のごとく、昼も誰も誘ってくれない。初めてきた場所で右も左もわからず、仕方なく、他の社員の後をつけて同じ店に入って一人で食事をとったりした。まあ、元請けがやや怪しく、しかも高額で若造がきたので、やっかみだったのかもしれない。そして、数日したら、部長さんが誘ってくれるようになった。その時は経験の中からいろいろな情報を提供したので、好意的に応対をしてもらった。ただ、若い人たちの対応は相変わらずだった。

それで、今まで自分がいかにぬるま湯の世界で仕事をしてきたのかを悟った。自分で動かなきゃ何もしてくれないということを商売の本場で肌で感じたのだった。お金になると思えばよくしてくるし、そうでなければ相手にしないという、社会では当たり前のことなのかもしれないが、まだ20代の私にとっては衝撃的だった。特殊なデータベースを使うシステムで、その設計経験を買われたのだったが、結局その仕事は2ヶ月ほど基本設計書を提出して終わった。開発部隊を持っていなかったグループだったので、開発はできなかったのである。

そして、間に入っていたシステムコンサルタントの人にこちらで仕事をしないかと誘われて残ることにした。ようやく仕事に使われ始めたパソコンベースの仕事が発生しそうだったので、他のメンバーも一時呼んだのだが、結局は軌道に乗らなかった。結局自分だけが残り、会社は辞めて新しい道を選択した。自分の給料は会社にプールしていて、それは精算しなかったので、結果として自分としては、かなり持ち出したことになる。他のメンバーにはそれで許してもらったことになっている。それでも大きな不義理をしたとは思う。

そして、システムコンサルタント事務所のシニアコンサルタントとして、アシスタント的な仕事をするようになった。代表はかつていろいろなソフト会社を経営していた人で、最大は80人ほどの会社を東京でやっていたようだった。海外の会社の名刺もあったので、一時はかなり手広くやっていたようだ。なんでも取り込み詐欺にあって、会社を畳んだとか言っていた。本人曰く、灘高校慶応大学卒業で大手コンピュータメーカーの営業として、20代で年収1000万以上あったらしい。確かにコンサルタントとして、提案書を書く速度は並大抵ではなかったし、勉強のためと言って、着物を着た女の人が応対してくれるようなクラブへも連れて行ってもらった。わずか30分、ビール1本で10万円の請求書を見たときは、当時の「飲む・打つ・買う」という大手会社のトップセールスの接待の世界を覗き見た気がした。事務所で留守番をしていた時、代議士の秘書と名乗る男性から電話があって、「君は誰だね」と言われた時は、正直びびった。なんでも、ビルの1フロアを借りてやるから学校をやらないかというような話だったらしい。はたから見ると良さげな話に見えるが、やはりいろいろあるらしく断っていた。

大阪での1年は、「おもて」の自分を大きく変えた。とにかく自分の意思を出さないと何もやっていけないし、そもそも関西弁がしゃべれない時点でよそもの扱いだ。一緒に働いていた女性には、東京の人と思われて、興味をもたれたが、違うとわかると残念そうな顔をしていた。それでも彼女たちとは時々一緒に飲みにいったりもした。どこか「美味しい店教えてください」と職場の人に聞いたら、「くいだおれ」か「王将」にいっとき、、「よそものには教えない。それでいい店が混むのは嫌だから」とはっきり言われた。なので、安い店は美味しくなくて当然、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」なんて誰も言わない。だけど、3000円も出すような京都料理の店は、それなりに美味しく愛想もいい。そんなもんだと思っていた。ガード下の安くて、すごく美味しいどての店があることを知ったのは、随分後になってからだ。小学校以来封印されていた攻撃的な性格がこの時少しずつ解き放たれていくのを感じていた。

当時知り合った人は強烈な個性を持った人たちばかりだった。カナダからログハウスを輸入して売っている人がニックネームを持っていて、テレックスで仕事をしていたり、フィリピンバーへ行くとタガログ語でホステスと話す人がいたりで、驚きの連続だった。当時の私の名刺は自分の会社の取締役、システムエンジニアの2枚、仕事を貰った会社のシステムエンジニア、コンサル先のシステムアナリスト、頼まれて発起人にもなった新しい会社のシステム事業部長、コンサルタント事務所のシニアシステムコンサルタントと、まるで詐欺師見たいになっていた。そして、出会って一緒に飲みに行った社長の名刺だけでも40枚ほどになる。今みたいにコミュニティが盛んな時代で、単に名刺交換をしただけではないので、相当なものである。大阪って、石を投げれば社長に当たるくらいに思えた。実際に、一番小さな会社をやっていた人は、サプライを扱う会社で社員が0.5人だった。つまり、他の会社の事務員を半分借りていたのである。今のように携帯電話がない時代なので、仕事を受けるためには事務員が必要だった。とにかく、何でもありに思えてきたし、自分としても「毒喰わば皿まで」という気になっていた。

そんな中で、私を救ってくれたのが、コンサルをしていた会社の役員の人だった。大手土木系の会社の子会社の役員で、どこがよかったのか気に入ってくれて、毎晩カラオケスナックへ飲みに連れていってくれた。その人は京都の大学の出身で、見るからに体育会系で、いつもパリッとしたダブルのスーツを着こなす怒らせたら怖そうな人だったが、自分には優しかった。「自分に返そうと思うな、若い者に返してやれ」と言われたのは、今でも自分のポリシーになっている。仕事の上での危ない経験談や喧嘩の仕方とかも教わった。いつも奢ってもらっていて、自分で払ったのは、その人が別の接待で連れてきていたらしい外国人に絡んだ時に、一緒にいた営業マンに睨まれた時だけである。

とにかく刺激的な環境だった。向こうで紹介されて、宝塚に住むお嬢さんらしき女性とお見合いもした。それで、結婚していれば、これまた、まるっきり違った人生を歩むことになっただろうし、結果として、ハイソの世界に行ける唯一のチャンスだったと思う。しかし、さすがに釣り合わなさすぎると思ってお断りした。というと立派そうに聞こえるが、その時は特別雇用ながら、父親は大手自動車会社に勤めていたし、妹も高卒ながら大手製粉会社で働いていたので、そこまで卑屈になる必要はなかったので、ただ単にチキンだっただけかもしれない。

そんな生活は長くは続かなかった。次第に給料がポケットから、しわくちゃになった札で出てくるようになった。さすがに鈍感な私も察しがついた。借りてもらっていたマンションを友人の手を借りて、逃げるように実家へもどった。結果として、膨らんでいた私の「おもて」のビジネスへの夢はそこで潰えた。


以下、後半に続く。

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