『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第18章「イラスト人生、上手くいかない時は」

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その1「大きな仕事!しかしチャンスは指先をすり抜けて逃げた」

俗に言う「3年間の大殺界」の最後にあたるこの年、
生活のために続けていた、アート施設での仕事の
ストレスはすでに頂点に達していました。
なのでもう、いつ職場を去ってもいい様にと、
イラスト活動の方面で営業を強化しよう思い、
色々と動き始める事にしました。

施設での作業は、学芸員の資格をもっていたせいか
環境が良い時は働く体制も十分に優遇されていたので、
お給料は高くはないけれど、とりあえずの生活は
安定しました。
なので一時は「ここで昇給して社員にして頂いた方が、
今後の生活も安心でいいかもしれない」と考えていた程でした。
けれどそこで重宝されて忙しくなればなるほど、そして生活が
安定してくるほど、今度は逆に「一生懸命頭を下げてまで
イラストの営業に出よう」とは思わなくなりました。

もしも今もあのまま、あの職場で、何の問題もなく
働けていたら、私はずっとぬるま湯につかったままの
もっと中途半端なイラストレーターでいたかもしれません。
若しくは活動する時間が取れずに、辞めてしまったでしょう。
しかし幸か不幸か、その安定は長くは続きませんでした。
当時、その職場全体が抱えていた、人間関係の癒着や歪みが

日増しに大きくなっていき、徐々に働きにくく

なっていったからです。

そこで前述の通り、イラストの営業活動を
始めたわけですが、その甲斐あってか、この年は
とても大きなお仕事や、魅力的な企画の話を多数、
打診されました。
例えばそれは大手新聞社での大型連載だったり、
私の特集ページが組まれた本の制作だったり…。
どれもキラキラ眩しいぐらいに、素敵な話ばかりでした。
またそのどれもが実現したら、間違いなく代表作になる位の
規模でした。けれどそれらは打診されたまま、企画としては
実りませんでした。

中には役員面接を経て、8割方は決まったかのように
見えた案件でも「前の連載が延びる事になり、新しい企画を
開始する時期が不透明になった」などの理由で、ことごとく
消え去りました。

そんな事ならむしろ、初めから何もなかった方が
精神的にはずっといいです。大きな話に期待した分だけ、
がっかり感も大きかった。ああ、ダメな時は本当にダメだな。
悔しいぐらいダメだな。
何処をむいても、なんの追い風も吹いてこない。
そんな切ない時期が、まだしっかりと続いていました。


その2「しなやかに、逃げると言う事」

あと一歩という所で、夢見ていた企画が
去ってしまった事は残念ですが、この手の話は
実は割とよくある事です。でも困ったのは、
今回イラストの企画が通る事を見越して
アート施設でのシフトを先に減らしてしまった
事でした。

なので仕事がなく、お金も入って来ない状況に
なってしまいました。けれど、この時期にはもう
その仕事場で働く事が、辛くて辛くて限界でもありました。

あまりにたくさんのストレスを抱え過ぎて、ついには
声が出なくなったり、体があちこち痛くて悲鳴を
あげたりしました。このままここで働いていたら、
頭が禿げてしまうかもと思うほどに、不当な嫌がらせを
受け続けた厳しい状況でした。

なのでシフトが激減した時、もう辞め時かもしれないと
決心がつきました。「私はこの職場で、今まで重宝に
されていると思っていたけれど、別に私がいなくても
ここは普通に運営できているじゃないか」と。

そこで時間だけは出来たので、今度は気分転換と
勉強を兼ねて、ギャラリー巡りをしに出掛けました。
ちなみに仕事で活躍している時は、行く先々で
「作品見たよ」とか「すごいですね」と、ありがたい声を
かけられますが、この頃はその逆でした。

あるギャラリーでは初対面の若い作家さんが、
私が名前を記した芳名帳をちらっと見て、その上で
「絵を描いている方ですか?」と、声をかけてくれました。
イラストレーターになったばかりの頃は、よくそう言われたな。
でもいつの間にか、この世界にも知り合いが増え、
作品や名前を覚えて頂いただく内に、そう聞かれる事は
ほぼ皆無になっていました。

なので「ああ、私、またしてもふりだしに
戻っちゃったんだなぁ」と思いました。
せっかく、ここまでコマを進めてきたのに。
どうしていつも、この先に、これより上に行けないんだろう。

けれど負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、
そう言われる事はそんなに嫌ではありません。
むしろ言われるたびに、己の自惚れをたしなめられて
「調子に乗っているなよ」「お前なんてまだその程度
なんだから、威張るなよ」と、誰ともなしに
増長を抑えられている様な気もします。

そしてそういう時は、大抵「そうですね。絵は趣味で
ちょっと描く程度ですね」と言って微笑みながら
素人の振りに徹するので、相手に気負いや
余計な詮索をされる事なく、のんびりと作品を
見せてもらえます。

そして一人、帰り道で思うのです。
「今までは『頑張って活動しないと、成果を出さないと、
停滞しちゃう』とか『そうしないと忘れられちゃう』と
思って焦っていたけれど、世間様はとうの昔に、
私の事なんか忘れているじゃないか。と言うか
元々その程度の認知度なんだから、気負う必要
なんてないんだ。また一から「新人です!」と言う
気持ちで、新たに積み上げていけばいいんじゃないかな」と。

それに例え、忘れられたり、ふりだしに戻って
しまったとしても、今まで築いてきた人間関係や
仕事の実績までは、消えてなくなるわけでは
ありません。「なんとなく土台のある新人」と
言う感じで、また初めから活動すればいいだけ、
とそんな事を考えていました。

こんなストレス過多な時期に相変わらず
私を支えていたのはヨガと絵を描く事でした。
「ヨガがなかったら、正直私は危なかったかも
しれないな」と、後になってから度々そう感じました。
何にしても、逃げ場があるのは良かったです。

「逃げること」は負けではなく、自分を守る事。
道はまだ長いから、ここで折れるわけにはいかないのです。



その3「展示と仕事と」

その年の8月、再び青山のギャラリーから
絵本の展示会に誘われました。そしてそこで
お知り合いになった出版社の方から年末に、
お仕事を頂く運びとなりました。
これは実に、2年4か月ぶりのイラストの仕事でした。
正直ドキドキしました。「仕事の段取りって、どうだっけ」と
言う感じで、気分はすっかり新人です。

ところがこの作業、教科書系のしっかりした
出版社さんが相手でした。なので仕事内容も、
教室に貼る姿勢図ポスターと言う、子供たちの
見本となる作品でした。
これは相当厳しい依頼でした。

当然ながら作品は1ミリのずれも許されず、
ラフはどれも赤ペンでびっちり修正されました。
余りにもきちんとしたものを要求され続けたので、
途中で「これはもう私には無理かもしれない」と、
初めて弱音を吐いた位、本当に厳しかったのです。

そしてちょうどこの時期、4年近く自宅で
介護していた父が、大手術をしていました。
右足の指が壊疽を起こしたため、そこから毒が
体に回って様態が急変、まさに生きるか死ぬか…
と言うシビアな状況でした。

足を切断する手術をすれば、持ち直すかもしれない
けれど、果たしてその手術に弱った父が
耐えられるかとどうか…。なので家族は
頻繁に病院に駆けつけ、仕事の電話も
病院のロビーで受けていました。
「家族の具合が悪く、今は病院にいます」と言う
プライベートな事情は、なかなか先方に
言えなかったので、平静を装った受け答えを
していただけに、精神的にはこの時期が一番
厳しかったです。

そして父はこの頃には、介護の負担も加速度的に
増してきていて、もう自宅で生活させるのは
限界だと言う状態に。家族もかなり疲弊していました。
夜まともに寝られない、外出もままならないなど、
体力的にもきつかったのです。

色々な側面がどん底でした。
色々工夫したり気持ちを切り替えて、この不遇な状況を
乗り越えようと頑張ってみたけれど、とうとう自分の
運気や精神面の底辺に触れた気がしました。


その4「運が悪い時も、いつかは終わる」

2013年の年末、ついにどん底まで到達した私。
しかし「底辺」とは言わば、全ての物の「終わり」を意味し
文字通り、様々な現象が静かに収束に向かっていきました。

まずは無事に手術を乗り越えた父。
しかし片足を失いました。
そして同時に食事を拒否するようになり、今後は
経管治療と言う鼻からチューブで、液体の栄養剤を
入れる食事法に切り替わりました。

そうなると、もう自宅には連れて帰れず、療養型の
病院を探してそこで生活する様になりました。
それは長かった在宅での介護の終焉を意味しました。
その後も私は、毎日病院に見舞いに行く日々が
続くのですが、それでももう介護の為に家に
縛られなくても済みます。
外出も自由に出来るようになったのです。

そしてイラストのお仕事も。厳しかった教材作成の作業は、
様々な修正を乗り越えて、無事に完成しました。
そしてその仕事を通じて「私はここまできちんと
描くことが出来るんだな」と、自分に自信が持てると
同時に、仕事はここまでクリティの高い物を提出するべき
なんだなと、描くレベルも改まりました。
まさに新人のような心持で
「原点」に立ち返ることが出来た、貴重な仕事でした。
この仕事はその後、私の代表作のひとつとなり
担当さんとも、ずっと懇意にお付き合いさせて頂いています。

最後はアート施設でのお勤めも。
ある時「辞めるべきか、否か」と、まだ決断できない
気持ちのまま街を歩いていると、偶然占い師さんが
目に入りました。当たるかどうかはわからないけれど、
迷っている時期だったので「背中を押してもらう感覚で」
ちょっと見てもらうと…。
私の生年月日を聞いた占い師さんは、それだけで開口一番
「あなた、この2年ぐらいはひどい運勢だったんですよ。
これは…ひどいわ。うわぁ、可愛そう。今まで誰に
何を言っても全然聞いてくれないし、何をしても
うまく行かなかったでしょ」と言いました。
薄々「運が悪いなぁ」とは感じていましたが、
そんなに酷いの?

占い師さんが言うには「あなた、この2年ぐらいは
大殺界だったのよ。でもこれは並みの大殺界じゃ
ありません。天中殺の時期でもあったのね。
しかも同じ大殺界でも、運気の流れみたいな
ものは別にあって、それが高いと大した事は
ないんだけど、あなたの場合はそれも底辺まで
落ちていました」と。
なるほど、どうやらシングル、ダブル、いやトリプル…で
運勢の波が落ちていた、大不運期だった様です。
そう言えば私が男性だったら、この2年間は
厄年でもありました。それも大厄。確か何かの資料で
『働いている女性には昨今この男の大厄が、当てはまる
説もある』と書いてあった様な。

と言うことは、これは壮絶な4大不運の襲来!?
台風で言うと、大型の強い台風が4つ同時に
上陸した感じでしょうか?確かにそれはひどい。
もう台風どころか、ゴジラまで襲来して破壊された
都市の如く滅茶苦茶なイメージです。
道理で何をやってもうまく行かないどころか、
裏目裏目に出たわけです。しかし今までの不具合を
単に「運気のせいよ」と言ってもらえた事で、
気持ちは逆にぐっと軽くなりました。

更に占い師さんは続けました。
「この不運な時期も、もうすぐ終わるけれど
あまりに悪かったので一気にパーンとは
晴れ渡りません。土砂降りの状態がようやく終わって、
翌年はどんより曇り空。翌々年は雲間から薄日が差し込み、
安定するのはその次の2016年からです」と。
そして「今年は転換期。副業の仕事は辞めた方がいいでしょう。
周囲は変わらないし、ストレスは溜まる一方ですよ。

それに無理して続けると、体調面か精神面の
どちらかに変調をきたしますよ」と。確かに
その兆候は、すでに両方共に出始めていました。
それでは辞めてしまおう。
8年も頑張って働いたけれど、もう十分です。
そもそも私にとってはイラストの仕事が メインで、
その活動や生活を支えるためのサブの仕事で、
心身がおかしくなるまで頑張るなんて、
本末転倒も甚だしいと思えました。

引き続き占い師さんがいう事には「今後運気の
ポイントは「医療」「パソコン」それから「温かいもの」と
出ています。「これがあって良かった」と、人が思う物に
運がありますよ」と。断片的判断なので良くはわかりません
でしたが、自身の中で「それに一番近いのは、
介護のブログかしら?」と言う確信がありました。

こうしてこの年の春3月、8年間務めたアート施設での
受付業務を辞めました。そして空いた時間で、
父の病院に通う傍ら、再びイラストの営業活動を行ったりして
すごしました。


その5「失う物なし最強のイラストレーター」

停滞期や不運期は、俗に「自分の膿を出す期間」
などと言われたりもしますが、今回は膿みどころか
「刃物でザックリと、そぎ落とされた」と言っても
過言でないぐらい、最終的には何も残りませんでした。
仕事も、お金も、人気も去り、 ついでに恋愛も終わり、
更には介護も(ほぼ)手を離れ、本当に何にもない状態です。

ここまでキレイさっぱり、全てがなくなって気付いた事は
「これらは別になくなっても、私は困らないんだな」
と言う事でした。
仕事はまた新たに見つければいい、お金はまた
働いて稼げばいい。恋愛も然り、人気も然り。
要は今手持ちの物に執着しなくても、一から
新しく始めれば、何とかなる事がわかりました。

でも唯一、イラストだけは違います。
今までも何度か「向いてないなら辞めた方がいいのか」と、
迷う時がありましたが、ここに来て「いや、やはり
これがなければ、私は困る。絵を描くと言う事が、
私の絶対に譲れない核なんだ」と、再び気付きました。

そしてそのことで、なんだかものすごく自信がつきました。
これだけ辛く厳しい時期でも、描く事をやめなかったんだから
これから先も私は絶対に、描き続けて生きていくだろう
と言う確信が、自分の中で生じたからです。

この時点で全てが一度終わった。もう失う物は何もない。
守るべきものも見定めた。
ある意味、最強です。
ここからまた新しい一歩を始めるんだ。

けれどあまりにも運気が悪く、過度のストレスを溜めていた私は、
色々な悪縁を断ち切ったのはいいけれど、今度は
容易には元の位置に戻れないでいました。そこまでの
気力は、まだ備わっていなかったのです。
例えて言うならば、海底の重たい砂の中にうずまった
カレイか、ヒラメの様な心持でした。
浮上したいけれど、砂が重くて自力では動けない。
しかしここで、思いがけない形で救世主が現れます。


その6「拾う神あり、ふたり展への道」

アート施設を辞める直前の2014年3月。
友人のイラストレーターA子さんから
「ふたり展をやりましょう」と言う連絡を受けました。
実はずっと以前から、一緒に展示をしたいと言う話は
出ていたのですが、まさか本当にやるとは思って
いなかったので、連絡があった時は「本気なんだ、ふたり展!」
と思いました。

けれどこの時の状態の私には、それは思った以上に
有難い申し出でもありました。もはや自分1人では
浮上できないほどに、衰弱していたので
A子さんの様にパワーがある元気な人に、勢いよく
ひっぱりあげてもらうのは良い事かもしれない。
時には他力本願を駆使してみよう、と。
こうして1年半後に開催を決めた展示に向けて、
再び走り出す日々が始まりました。


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『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第19章「活動再開。イラストエッセイ本を作る」

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