死と同乗した夜行列車


 もう50年ほども昔、私が高校3年の時のことだから、記憶が曖昧になっているが、たしか1月の終わりのころだったと思う。2ヶ月ほど前から行方がわからなくなっていた父から手紙が来た。


 夕方、学校から帰った私は、母からその手紙を渡された。あまりの衝撃が風邪を悪化させたのか、母は熱を出して寝込んでいた。読んでみると、肩の張った癖のある字で、


「わしは、もうあかんわ。好きな鳥取砂丘に行って、人生を終わらせたい」


 と、自殺をほのめかすことが書かれている。


「なんや、これ!」


 慌てふためいた私は、何も考えられずに、ただ、


「鳥取砂丘に行こう」


 と、瞬時に頭脳に浮かんだことだけを行動に移した。


 まず、北新地のクラブで働いていた姉に電話して、このことを伝えると、電話の向こうで、


「えー、なんやてえ!」


 と絶叫した。飛び上がって驚愕している様子が見えたような気がした。まだ営業前だったから、姉は私の「鳥取砂丘行き」の提案を受けて、急遽休みを取った。


 


 8時に大阪駅で待ち合わせたものの、福知山線は出発したばかり、次は10時過ぎの最終便しかない。しかも、その列車は夜半に福知山に到着するが、そこから先の便は、明け方の山陰本線の始発を待つことになる。一刻も早く鳥取に着きたいと気が焦っていた私たちは、とにかくこの列車に乗ることにした。その間、梅田地下街に行ってカレーライスを食べ、駅に戻って待合室で待機した。


 10時ちょうどに列車は出発した。なにぶん鈍行だから、ノロノロと各駅に止まり、そのたびに乗客は減った。


「お父ちゃん、もう死んだやろか」


 と私が言うと、


「さあ、どうやろなあ。死んでるかもわからんし」


 姉の悲痛な横顔は、蛍光灯の下で蒼ざめて見えた。


 窓外の暗闇に目をやると、ガラスに父の蒼白の顔が映った。それは死顔だった。父の死顔が手で触れることができるほどの近さにある。しかも、いつまでもその顔は消えてくれない。


「お父ちゃん、絶対死んでるな」


 そう思った私は、一つの客車に、父の死骸と一緒に乗っているような恐ろしい錯覚に陥った。疲労と眠気がそのようにさせたのかもしれない。




 福知山に着いた時には、駅の待合室は閉じられていたから、やむなく駅前の小さな商人宿で仮眠させてもらった。しかし、頭脳がいろいろな想像を巡らせて働いている状態では、とても眠れるものではない。この時間、福知山駅前の街は暗く、人通りもない。タクシー会社の前に立つ電柱の裸電球が、路上に小さな黄色の円を作っていた。


 早朝、始発の鈍行に乗り、鳥取に着いたのは、たしか朝の9時ごろだったと思う。それまでの時間、曇天とはいえ、明るい窓外には、まだ父の死顔が映っているように思えた。


「こうやってお父ちゃんは、僕らを自殺現場に導いてくれてるんやろなあ」


 姉は昨夜から、ほとんど無言でいる。時々、目に涙を浮かべていた。




 鳥取駅に着くと、駆け込むように鳥取県警に行き、父の手紙を見せて、事情を話した。しかし、警察官の対応はのんびりしたもので、


「いまのとこ、砂丘で自殺体は発見されてませんなあ」


 途方に暮れた私たちは、ひょっとしたら砂丘のどこかで父を発見できるかもしれないと思い、バスに乗った。


 砂丘には誰もいなかった。まだら模様の雪に覆われた砂丘の向こうに、濃い鉛色の日本海が横たわっている。波はなく、静かだった。幼いころから父にかわいがられて育ってきた姉の横顔は、喜怒哀楽の表情変化が凍結して、深い悲しみに凝固しているようだった。とにかく寒かった。




 午後、もう一度県警に行ったが、返事は同じだった。もう、どうすればいいのかわからない。鳥取で泊まる金どころか、ぎりぎりの汽車賃しか手元にないから、なすすべもなく夕方の鈍行に乗った。


「お父ちゃん、自殺せえへんかったのかなあ」


「わからんけど、ほんまに迷惑かける人やなあ」


 この姉の言葉を少々解説すると、父は大阪で書画骨董を商うかたわら、洋画家としても活動していたが、商売はうまくゆかず、かといって絵も売れず、いつも方々から借金していた。やがて借金がかさんで家を取られ、大阪市内の陽射しの悪い安アパートに移ったが、このころから父は家に寄りつかなくなった。愛人をつくって、その家に入り浸っていた。


 母と2人暮らしの狭いアパートに、週に1~2回は借金取りが来た。ほとんどは夕飯のころ、音を立てて玄関の戸を開き、


「今日こそ貸した金を返してもらうで」


 と大声でわめく。母が額を畳にこすりつけ、泣きながら、


「夫はいないから何もわからないし、お金もありません」


 と訴えると、


「親父がおらんかったら奥さんがもっと働いて返すんじゃ。それでもあかんかったら、この息子を働かしてでも返してもらうで」


 と、母と私を鋭く交互ににらみながら凄む。典型的な暴力金貸しである。こんな状況だから、毎日、夜になるのが怖かった。家に帰るのがいやで、ずっと学校にいたいと思った。だが、母を1人にしておくわけにゆかないから、勇を鼓して帰った。姉はこのころ、すでに南森町のアパートで独り暮らしをしていた。


 要するに父は、家族にさんざん迷惑をかけていた。その挙句にこのたびの「自殺行動」である。




 9時ごろ、山陰本線の鈍行列車が福知山に着き、ここで大阪行きの福知山線に乗り換えた。乗客の数は驚くほど少なかった。夜が深くなり、途中でどんどん乗客は減り、大阪に近づくと、客車には私たち以外に、前方の席に中年の男が1人乗っているだけだった。座席は、今でいう「クロス・シート」である。


 終着駅大阪に着いたのは11時半ごろだったと思うが、前方に座っている同乗の男は、立ち上がろうとしない。


「変なオッサンやなあ。まだ寝とんのかいな」


 と思ったその時、車掌が入ってきてその客に声をかけた。びっくりした顔を挙げた車掌は、走って私たちのところに来て、


「お客さん、あの人死んでます!」


 と告げて、


「すぐ警察を呼びますから、お客さんたち、すいませんけど、福知山からここまでにあった車内の出来事を、全部警察に話してくれませんか」


 と頼んだ。もちろん了承し、やってきた警官の質問にすべて答えた。話が終わったあと、警官は、


「おそらく列車に揺られてる間に、急に持病が悪なって、座ったまま亡くなったんと違いますかなあ」


 また事情をお聞きするかもしれませんから、というので家の住所を教えて、ようやく車外に出た。


 この何時間か、私たちはこの客車内で、死人と3人きりで過ごしたことになる。遠目で死体を見た私は、そのことの気味悪さよりも、


「お父ちゃん、どうしてるんやろか」


 という直面する心配事のために、ますます心が重くなった。いまごろあの砂丘のどこかで、この人と同じように冷たい死体になっているのだろうか。




 2週間ほど経ったとき、父から手紙が届いた。自殺をほのめかしたことなどまったく忘れたように、


「スケッチしながら山陰の温泉を巡っているから、安心するように」


 と書かれていた。拍子抜けとはこのことだ。それまでの間、姉は毎日、父の安否を確かめるために鳥取県警に電話をかけていたし、母も私も不安の毎日を過ごしていたのだが、この手紙を読んだ姉は、「よかった」とわずかに泣き崩れたあと、すぐに笑顔を上げて大声で言い放った。


「なんて人騒がせな人や! あほ!」


 


 怒っていいのか喜んでいいのか笑っていいのか、なんとも言いようのない結末を迎えたが、今となっては、結末そのものよりも、往路は父の死の幻想と、復路は本当に死んでいた人と同乗したことは、私の青春時代に一つの「死生観」のようなものを刻んだ。鳥取砂丘から見渡す鉛色の日本海は、不思議にも、その後何度訪れても同じ色をしていた。











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