HAYATONY物語15
僕が新たに就職した会社はワンルームを中心としたマンション販売を手がける三洋ホームと言う渋谷にある会社であった。
この会社の営業方法は全国の開業医のドクターをターゲットに節税目的のリースマンション経営をベースにした不動産投資だ。
投資なので必要な資金は頭金の20%ぐらいで残りは融資を受けローンで購入する。
ワンルームを賃貸し家賃収入でマンションのローンを支払い、ローン利子やその他にもマンション経営で経費は引けるために節税しながら不動産資産を持てるという具合だ。
また、開業医のドクターは子供たちを東京の大学に行かせる人が多い為に、将来子供たちが大学に進学する時には子供たちの住まいとしても利用できると言うのがセールストークだ。
今から33年前なので不動産や証券バブル経済が密かに始まり始めたころだった。
この時に買ってバブル絶頂期に売却した人達はみんな大儲けしたに違いないだろう。
かくして不動産会社の販売営業マンとしての一日が始まった
ここでの初めての仕事はお茶くみだった。
新人社員は全ての先輩に朝、お茶を入れるのが朝一の仕事であった。
次に電話営業のセールスの仕方やリースマンションンの節税の仕方や仕組みを先輩社員からレクチャ―され新人は関東エリアから電話営業をするのである。
なぜ関東エリアかと言うと新人社員はせっかくお客様とアポイントを取って説明に出向いても契約率が低く、交通費などの経費の無駄遣いになる可能性が高くなる為、近県から始めるのである。
経験豊富な成績優秀な営業マンだけが関東以外の他府県まで電話営業ができるのである。
営業方法は全国の開業医名簿から一軒一軒電話営業し、そのワンルームリースマンションの投資説明を行うのだがまずは基本電話口ではほぼ取り合ってもらえない。
電話営業は断り続けられることから学びがあり、少しずつ顧客とのセールストークも良くなり始めると少しは話を聞いてくれたお客様は見込み客になり後日また電話営業をする。
電話営業で話す相手はドクターではなくその奥様が最初の窓口になる。
奥様と何度もコミュニュケーションをかわし様々な世間話をして信頼関係を構築していくのだ。
ドクターはたいてい忙しく電話には出ないが奥様は暇な時には1時間以上も話を聞いてくれるが肝心の訪問説明のアポイントになると何となくはぐらかされて「主人と相談します」がお断りの決まり文句だ。
僕は何とかアポを取りつけ物件の説明に向かう事が次第に出来るようになった。
トークが上手で口説き上手な先輩には旦那さんに相手にされない奥さんと不倫関係を結び購買を誓約している先輩もいた。
開業医の場合、お金の管理は奥様に任せているドクターが多い。
もちろん高額な買い物になるので旦那の決済が最終決定権を持っているが奥様を味方につけたらほぼ80%は契約出来る。何処の家も奥様は大蔵大臣だ。
1か月電話営業を続けると僕にもやっとアポが取れた。茨木水戸の開業医だった。
若干19歳の僕一人では力不足なので課長や先輩と一緒に車で訪問する事になった。
結果契約は出来なかった。
その後もアポまではとれるのだがなかなか契約までの道のりは険しかった。
1千万以上の買い物であるからなかなか売るのは難しいが先輩の営業マンは次々と毎週契約を取ってくる。
契約の度に花丸が社内の営業成績表に着き、契約を決めた営業マンにはボーナスが毎月50万以上支払われる。
そのたびに宴会である。相変わらず僕は一本も契約が取れないままである。
中堅不動産会社には中途採用の営業社員が随時入社してくる。
僕の後に入社した方は30過ぎのおとなしそうな人でどう見ても営業職向きではない。
僕より後輩になるので僕にも毎朝お茶を入れる事が毎日の日課だ。
サラリーマンの世界も大変だと感じた。
30歳過ぎて19歳の僕にもお茶くみや頭を下げなければいけない。
そんなことを考えながらふとある日のことである。
何十年も電話営業を続ける50代の部長を見ていて僕は目の前が真っ白になった。
朝は10時から夜の10時までほぼ毎日電話営業だ。
僕が20年後、部長になったとしても部長の様なこんな人生は送りたくはないと思った。
不動産の営業はお給料の手取りは確かに高卒の学歴しかない僕にはかなり割のいい仕事で有った。契約が決まれば大金のボーナスが支払われるがだが
でも大切な人生の時間を好きでもない仕事の為に、生活費を稼ぐお金の為に無駄には出来ないと感じてしまった。
どうせ働くならたとえお給料が始めは安くても自分が心からしたい仕事を見つけて働きたいと思った。魂が潤う仕事を見つけたいと。
気が付いたらその日に部長に辞表を出していた。
アパートに戻り同棲している彼女にも今日仕事を辞めた事を話した。
「ごめん、俺やっぱり自分がしたい仕事じゃないとダメみたいだ。
まじめにコツコツサラリーマンとして働くよりも心が魂が潤う仕事を見つけたいと。」
彼女は「わかった」と一言言って何も僕に言わなかった。
次の日からまたフリーターが始まった。
バイトの求人でアパートのそばで出来る仕事をさがした。
次に見つけたバイトは道路標識をたてる仕事で有った。
山形出身の個人事業主の親方でその作業の手間取りとしてバイトで雇われた。
肉体労働は電話営業と違い精神的には健全で毎日働いた感があった。
みんなが毎日見る道路標識やミラーの設置は人の役に立っている気がして仕事にも充実感もあった。
そのうち仕事も任されるようになり、お前もこの仕事で独立しろーと親方は僕に話してくれた。
僕は将来を悩んでいた。
どうする勇人お前は何がしたいんだ?と自問自答する。
そんなある休日の日に何気にTVを見ていたら僕の目に電撃が走った。
そのTVはニューヨークの人気ヘアサロン須賀の特集をしたニュースだった。
なんとも衝撃だったのはそのサロンのヘアスタイリストはほぼ男性であった。
アメリカのニューヨークでは男性が女性のヘアデザインする事が当たり前だった
きれいなブロンドのお客様に帰り際には「THANK YOU」の言葉にプラスしてハグされキスされお金をいただきそしてみんなが幸せそうな笑顔で仕事をしている。
こんな世界があるのだと画面にくぎ付けになった。
この日に僕の人生は決まった。
美容師としてニューヨークに向けて走り出したのである。
#HAYATONY物語
著者の田野上 勇人さんに人生相談を申込む
著者の田野上 勇人さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます