ボクとアニキの起業物語 ~町工場から医療機器の会社を立ち上げた話~

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医薬品事業 経営戦略企画

アシスタント・バイス・プレジデント


これはボクがシンガポールのベンチャー企業に勤務していた時の肩書きである。正直、何をしているのか?、偉いのか?偉くないのか?良くわからない。


そして今は…


カーターテクノロジーズ株式会社

代表取締役


アシスタントもバイスもなくなり、いわゆる一つの「社長」となった。ただ、なんの会社の社長なのか…相変わらずわかりにくい。



ボクはシンガポールにいた。

ボクは、もともとは国内の大手製薬会社の製造部門で働いていたが、色々あって新たなキャリアを目指し、医薬品や医療機器の開発を行うベンチャー企業に飛び込んだ。昔からボクは山っ気が強く、人とはちょっと違った道を好むタイプ。中学を卒業して、わざわざ埼玉県から栃木県の高専に入学したのもちょっと変わっている。この頃から何となく普通の人生よりもチャレンジングな人生を目指していたのかも知れない。結果、ボクの人生はいつもジェットコースターのように山あり谷ありの刺激的なものになっている。


 

シンガポールでの仕事は順調にはいかなかった。何よりも英語があまり得意でないボクは現地の同僚とのコミュニケーションに苦戦していた。そんな時、ボクを救ってくれたのは、ガンという名の中国系シンガポーリアンである。彼の年はボクより1コか2コ上、世代が近いということ、加えて彼も英語がそれほど得意ではないこと等、共通項がいくつかあり意気投合するのに、そう時間はかからなかった。仕事が終わると、ガンと夜の街に繰り出し、観光客ならば絶対に行かないようなお店で、食事をし、酒を飲んで楽しんだ。


そんな中、徐々に現地の同僚ともコミュニケーションが取れるようになり仕事も少しずつ回り始めた頃、帰国命令が下った。ボクの勤めていた会社はシンガポールに本社がありその子会社が日本にある。もともとボクは日本の子会社に就職して、シンガポール本社に転勤になっていたので、日本に戻れとのこと。実はこの頃、会社は資金繰りが大変で、お金のかかる駐在員を帰国させ経費を圧縮しようとしていた。

 

日本に戻ってからは給与のカットや購買品の制限等、徐々に会社の経営状況は悪くなり、ついにリストラも始まった。ボクは少しずつ新しいキャリアを探すことを始めた…。



ボクが生まれた場所。


ボクが生まれたのは埼玉県にある松伏町という小さな町である。読み方でよく間違えられるのだが「マツブセ」ではなく「マツブシ」が正解。現在も電車が通っておらず、田んぼや畑が目立つのどかな田舎町。最近はゴルフの石川遼くんの出身地として少しは名が売れ始めたが、それでも同じ埼玉県民でも知らないと言われるぐらいマイナーな場所だ。(その頼みの石川遼君も最近は成績が振るわず、松伏町の知名度も低下しつつある)


この松伏町にある関根製作所という小さな小さな町工場の次男としてボクは生まれた。関根製作所はボクのオヤジが脱サラして立ち上げたプレス金型の製作所である。オヤジは中学を卒業後に小僧として金型工場に住み込みで働き出し、30歳頃に会社を辞め自分で事業を始めた。

 

家の横にトタンで作った作業場にいくつかの中古機械を並べてオヤジは1人で仕事をしていた。ボクが子供の頃は、自宅の工場の経営状況など知る由なかったが、家族4人が特に不自由なく暮らせていたことから、何とか経営できていたのではと推察する。小学生の頃、ボクの家の工場が社会科見学の場所となりクラスのみんなが見学に訪れた。みんなが感心しながら機械を見学していたところに数々のオモチャが登場する。当時、オヤジの工場はオモチャの金型も手掛けていたので、この日はオヤジのおかげでボクはクラスの人気者になれた。



そんなほのぼのとした毎日も時が過ぎ、否応なしにオヤジも老いていった。関根製作所の事業が拡大することはなく、ボクの2つ年上のアニキが加わっただけで、関根製作所は2人で事業を推進していた。ボクがシンガポールから帰国した頃は、関根製作所の経営状況は必ずしも良いものではなかった。リーマンショックや海外への製造拠点の移転等、個人事業の金型製作業には、あまりにも厳しい経営環境であった。それ以上に長年の仕事がオヤジの身体へダメージを与え続けていたことから、オヤジは体調を崩し入退院を繰り返すようになっていた。個人事業にとって、働き手の離脱は直接的に経営状況の悪化を招く。アニキは1人で金型製作からプレス作業までこなさなければならず、負担が増していった。それでも仕事があるのならば、何とか経営は保てるだろうとボクは思っていたが、金型製作費は最近ではだいぶ値下がりしており、決して粗利の良い商品ではなくなっていた。

 

実家の工場がピンチの時、ボクは何かできることはないだろうかと考えた。ボクは一応だが、大学院で技術経営を専攻しており修士号を持っていた。加えて、ベンチャー企業で経営戦略なんぞに携わったこともあり、コンサルタントのように関根製作所の経営状況の分析を始めた。過去5年分の収益を確認していったところ、1つのことに気がついた。特に取引先別のデータを確認していた時である。山谷がある売上高の中でもコンスタントに売上高をキープしており、またその金額もある程度収益性の高いものであった。

ボク
ねー、このSS社とYS社って何の会社だったっけ?そこそこ良い取引が続いている印象なんだけど。
アニキ
あーそれは、医療機器の会社だよ。オヤジが昔から金型作ってあげて、部品で納めてるんだよ。最近は、プレスだけじゃなくて、ワイヤーとかフライスで部品に仕上げる品物もあるよ。

なるほど、なるほど。

他に業種別に括って、売上高データを確認したが、家電、自動車…特徴的な分析結果は得られなかった。

基本的に金型製作の仕事は単発仕事が多い。金型製作を請け負うと、製品図面を確認しながら、どのような工程で、それをいくつの工程で製品に仕上げるのか、設計を行う。その設計に基づき金型を製作し納品する。納品先のプレス機を用いてテストを行い、金型を調整しながら、最終的に仕上げる流れだ。つまり、金型が完成すれば1つの仕事は完結し、継続的な仕事にはならない。継続的な仕事にするには、金型を用いてプレス機で部品に仕上げて納品するスタイルが良いのだが、プレス品の単価は驚くほど安い。ウチのような少人数で行っている会社では数量がこなせず、プレス品で攻めるには向いていない。少し考えれば分かるのだが、金型を製作するタイミングは新製品がリリースされる時が多い。どの会社もそれほどコンスタントに新製品が出るような経営環境ではなく、金型の仕事を新規で受注するのは、難しいのである。

現状のプレス金型事業を考えると、受注が安定しており、単価も高めの医療機器部品は、関根製作所にとっては、ありがたい取引であった。

 

医療機器の部品か、ボクの業界に近いな。もしかしたら、この分野が関根製作所の救世主になるかも知れない…とその時は深く思わなかったが、今、思い出すと、この気付きがボクとアニキの物語のスタートだったのではと思う。



展示会に出展してみた。


数ヶ月後、オヤジの体調は回復の兆しが見えず、1度の入院期間が長くなっていた。この頃、関根製作所もオヤジの体調と同期するように経営状況は日に日に悪くなっていた。

 

ボクは何か活路を見つけなければと躍起になり、金型を製作する上での材料仕入れの圧縮やムダな在庫を持たない等のアドバイスをアニキにしながら、少しでも経営が上向くように、週末を使って実家の工場を手伝っていた。

 

そんな時、工場の事務所に置いてあった一枚のチラシ。商工会から案内された地域の工業展のお知らせだった。関根製作所は商工会には加入していたが、このような展示会へは出展したことはなかった。

ボク
この展示会出てみようよ
アニキ
そんなの出ても新しい客がつくわけねーだろ

軽く流されてしまった。


アニキの言っていることは、事実であったことは、展示会が終わった後に知ったのだが、何はともあれ何か新しい取り組みをせずにいられなかったボクは、展示会に出ることにした。(アニキも最終的には出展にOKしてくれた)

 

出展準備はボクの担当だ。金型の実物サンプルや金型で作ったプレス部品等の展示は基本だが、ポスター3枚とチラシを新たに準備した。ブースの真ん中には、モニターを置いて、金属の加工風景を動画で見せることとした。これで新規の顧客が獲得できれば…。

 

意気揚々と展示会の当日を迎えた。ボクとアニキは準備してきた展示物をブースに並べる。なかなかの仕上がりだ。初めての展示会にしては良くできていたと思う。実際の展示物の写真がこちら。



展示物に加えて、当日の思い付きで、飴玉を配ることにした。大阪のオバちゃんではないが、せっかく見学していただいた方々にお礼ということで。

 

 そして、開場!

…うん?


…あら?


全然、人が入ってこない。


地域の物産展示会と同時開催、平日ではなく休日の開催。これらを考えると当然ながら、ビジネスベースの来場者は少なく、物産展に来た方々が「なんだろー?」という感じで工業展に迷い込んでくるという流れでしかなかった。しかしながら、直前で用意した飴玉だけは好調な売れ行き(無料配布なので、売れ行きという表現はちょっと違うが…)で午後に追加の飴玉を買い出しに行く事態となった。

ボク
やっぱ、新規顧客につながるようなことはないね…。
アニキ
まぁこういうモノだと分かっただけでもいいんじゃない?
ボク
そうだね、まぁこれも勉強だね。

ボクはアニキに弱音を吐いた。ボクは展示会に出ようとアニキをけしかけた責任もあり、少々凹んでいた。こういう時のアニキはいつもボクをフォローしてくれる。アニキは子供の時からそうだった。一緒に落ち込んでしまうと、凹み度合いが加速してしまうが、そこを上手くバランスしてくれるのだ。

ボクは気をとり直して、終了時間まで勤め上げ、片付けを開始した。

こうしてボクとアニキの初めての展示会出展は、新規顧客を獲得できる気配は全くないまま、飴玉を配って幕を閉じた。

 

が、実はこの後、大きな『気付き』を得ている。展示会終了後に出展者での懇親会が行われ、せっかくだから、ボクとアニキはそこに参加した。その席には、いわゆる地元の工場仲間の寄り合い的な雰囲気があり、完全にボクら2人は浮いていた。色々な人に話しかけられる。

どこで事業をやってるの?
従業員は?
どんなものが作れるの?
ヘェ~兄弟でやってるんだ~

多くの質問やコメントをいただいたが、「兄弟でやっているんだ」というコメントを最も多くいただいた。そして、

会長さん
おいっそこの若い兄弟、一言あいさつしろや!

と促され、2人で前に行くように案内される。アニキと目配せする。

ボク
どうする?
アニキ
オレはダメだ。オマエ頼む。

そう、アニキは職人であるため、どちらかというと口下手だ。と言っても一緒に事業をやるようになって、そんなことはなく、お客さんの前でもしっかり話ができることを最近は知った。ともあれ、この時は緊急事態で、すぐにスピーチをやらなければならない状況だ。そんな場面はボクのフィールドだ。ボクは技術系の人間には珍しいぐらいお喋りだ。ベンチャー企業に転職した後は、数々のお客さんに向けたプレゼンをこなした経験もある。


ということでマイクを握りじょう舌に語り出す。何を話したかは覚えていないが、調子よく話をして、最後に

ボク
関根の兄弟を今後ともよろしくお願いします!

と締めくくった。


そう、先ほど話した『気付き』とは、この「兄弟」というキーワードのことである。若い兄弟が町工場を経営しているという事実は、後継者問題を抱える多くの社長さんたちにとっては羨ましく映り、さらには高年齢化している町工場業界にとっては珍しく見えたようであった。


そして、周りの他の工場の社長さんたちは「頑張れよ!」と多くのエールをかけてくれた。


このように展示会では、新規顧客の獲得はできなかったものの、兄弟でやっていることは、顔や名前を覚えてもらうこと、周囲に印象を与えることができる「武器」になるのでは…そんな感触を得て、ボクたちの展示会から懇親会までの長い1日が終わった。



医療分野への参入を考えた。


展示会も終わり、日常を取り戻した関根製作所は、業績は相変わらずの低空飛行であった。そろそろ何か手を打たねばと考えていた時、アニキがボソッと言った。

アニキ
医療機器の仕事をもっと取れないかな…

この頃、ボクとアニキは今後の関根製作所について色々話をしていた。金型の収益性は高くなく、更には多くの注文が取れる訳ではないことからも、経営的に言えば次の柱になる事業が必要な状況だ。ボクの経営分析においても医療分野はターゲットとしては最良と考えられたが、果たしてどのように参入すれば良いのか?まだ具体的な未来図が描けていない状況だった。

しかしながら、ボクの思いとアニキの思いは医療分野に向けて一致していることが確認できたことは大きい。あとは、方法論だけならば、調べて考えるのみである。ボクはアニキに

ボク
じゃあ、方法を考えてみるね。

と告げて、医療分野への参入計画の策定に取り掛かった。



まずは参入プランとして、どのポジションを狙うのかを明確化する必要があった。特に医療機器の分野においては、医療機器を作るための医療機器製造業が必要で、開発し医療機器メーカーになるためには医療機器製造販売が必要だ。この業許可を取得するのは結構なハードルがある印象だ。それでも、ボクはこれまでのキャリアの中で、製薬と医療機器の分野で数々の業許可取得、更新の場面に立ち会ってきた。どのようにすれば業許可が取得できるか、そのイメージはできていた。しかしながら、いきなりそのポジションを狙うのは、リスクが高いと判断し、まずはこれまでの関根製作所で実績のあった医療機器向けの「部品製作」というポジションで参入することを決めた(て言うか、部品製作ならば既に参入済みなのだが…)部品製作には、医療機器製造業の許可はいらないのか?と良く質問を受けるが、答えは「業許可不要」である。考えてみて欲しい。医療機器も様々あるが、細かい部品から作り上げられている製品も数多く存在する。ネジ1本、パッキン1つから、使用される部品一つ一つが業許可を受けた企業で製造されている訳ではないことは、想像するに容易い。

ということで、まずは本当に医療機器の部品製作事業で新しい顧客が獲得できるのか、顧客はどのような悩みを抱えているのか、とにかく仕掛けを作って、テストマーケティングを行う流れになった。ボクはアマゾンで購入したホームページ制作書を片手に自作のホームページを作り出した。(生まれて初めて自分でホームページを作った)

ウソかホントか、ボクが調べた限りではホントだったので、キャッチコピーは「日本で唯一の医療機器専門の部品加工屋」と打ち出した。この辺りは言ったモン勝ちである。多くの部品加工屋は、様々な加工設備を有している。その設備の能力と稼働率によって、収益は決まる訳だが、稼働率を上げたいために、医療だけの部品をやっている企業はまったくなかった。(あくまでボクの調査結果だが)関根製作所でも同じであるが、家電の部品も作るし、自動車の部品も作る。同じ加工機を使えるのなら、業界は問わないという仕事の仕方が通例であった。そこに対して、ボク達は、医療機器専門と謳った。なぜ、専門にしたかと言うと、医療分野の規制を逆手に取った作戦である。医療分野は薬事法(今は、薬機法と言いますね)で厳格に管理されていることから、何か特別な産業の印象が強い。ボクも長年、医療分野で働いてきたからそうであったが、医療分野の人間は、外注先等を選定する際にやたらと実績を重んじる傾向が強い。

医療機器の部品を作ったことがあるの?
(上から目線…)
医療機器の部品は、家電とかと同じと考えられたら困るんだよね。
(特別意識…)

このような傾向があったことから、「医療機器専門」と謳った際には、医療分野の人間の心をくすぐれるのではないかと、考えた訳である。

そして、実際に関根製作所だと医療専門にならないことから、関根製作所からスピンオフしてあくまで別会社という建付けで、ホームページで宣伝することにした。つまり、テストマーケティングと言いながらも、表面的には医療機器を専門とする部品加工会社を新たに立ち上げたように見えるホームページを作ったのである。新しい会社となると会社名が必要である。この会社名が、冒頭に記した「カーターテクノロジーズ」というものである。テストマーケ中は、株式会社ではないので、屋号のような位置づけで、カーターテクノロジーズと名乗っていた。


ここで、良く質問される社名の由来。

特になぜカーターなのか、という質問は最も多い。

隠すこともないので、あっさり説明しますが、「カーター」とは金型の「型」をもじって作った造語である。カーター…そう、カタを伸ばしただけである。(カーターさんという人物が関係していることは100%ありません)テクノロジーズは、やはり型の製作技術という意味で、こちらはそのまま英語を複数形にして合体させた。

このビジネスの原点は関根製作所の金型事業であり、金型を絡めた社名にしたいと思ったのは、ボクもアニキも共通の想いだった。一方で、本当に事業が立ち上がったらボクは海外展開をしたいという気持ちがあった。シンガポールのベンチャー企業で進めていた医療機器の開発は途中で資金ショートしてしまった失敗のリベンジにも強い想いを持っていた。ということで、ベースになっている金型事業をもじり、海外でも通じる社名を作り出した。本来ならば医療を行うという意味ではメディカルを入れるべきかも知れなかったが、この時はあくまで部品事業ということもあって、テクノロジーズを優先してしまったが、今思うとメディカルを入れれば良かったと少し後悔もしている。


ということで、ネット上でカーターテクノロジーズという医療機器の部品加工業者が誕生した。(あくまでネット上で)



世の中はそんなに甘くない。

出来上がったホームページには結構満足していた。

自作にしてはイイ感じだと思っていた。


関根製作所で製作したことのある医療機器部品の写真を撮り、どのように加工したのか一口メモを加えて紹介した。設備も関根製作所の加工機の写真を全て掲載した。サービスの紹介としては、オーダーメイドの医療機器を作りますよというコメントも記載した。

そして、売りは、兄弟2人で経営している医療機器の会社であること。これは、関根製作所で参加した展示会の時の気付きを取り入れた形だ。父親が作った小さな町工場をベースとして、兄弟2人が新しく医療機器の会社を立ち上げた、こんなストーリーを紹介した。

宇宙兄弟をもじって「医療兄弟(メディカルブラザーズ)」なんていうものも掲載してみた。この辺りは、展示会に出展した際に得られた『気付き』をもとに設定した。

 

これで、問い合わせがくるはずだ。ホームページの制作を開始してから1ヶ月。夜な夜な作ったホームページは、関根製作所の新しい未来を切り開くための、テスト結果を与えてくれるはずだ…と大きな期待を持って公開した。


 ボクの友人で、今は当社の営業課長のカツマタは、こんなことを良く言う。

カツマタ
関根さん、ビックリするぐらい売れないから…

 これは何かのアクションに対して、良い結果を期待して待っているんじゃない。

 むしろ悪い結果が出ることを想定して、次のアクションを準備しておけ。


という意味かとボクは解釈している。

なので、最近では、例えば新しいサービスを開始したり、新製品を発売したりしたとしても、良い結果が起こることを想像するよりも、ダメだった時の対処方法を準備するようになった。また、この心の準備が、ダメだった時の精神的ダメージも軽減してくれる。

しかし、このホームページを公開した時は、ダメだった時の次の手を考えるどころか、必ず問い合わせがくると大きな期待をして公開してしまった。

そして、毎日のようにカーターテクノロジーズホームページのアクセス解析を楽しみに行っていた。


最初の数日、1週間、2週間…


まだ公開したばかりだからと言い聞かせながらも、1日で10 Page Viewsぐらい。まったくホームページが見てもらえていない。一応、ホームページに加えてFacebookも立ち上げてみたが、こちらも完全に内輪でやり取りしているだけのページとなっていた。キーワードとして医療機器はビッグワードなので、医療機器部品や医療機器試作品等の合わせ言葉で、検索エンジンにヒットするように設計していたが、上手く上位表示されることもなく、そもそもそのキーワードで検索をかけている人が少ないような結果であった。日々、素人ではあるが、SEO対策を頑張っていたボクは、毎日心が折れそうになることを堪えながら、ページの更新作業を対応していた。

ボク
そんなに甘くないか…

特にお金を投資した訳ではないので、金銭的なダメージはないのだが、精神的なダメージがジワジワとボディーブローのように効いてくる。夜な夜な自作したホームページは、自分的には良くできたと思っていたが、集客できなければ、完全なボクの自己満の創造物でしかない。我流で仕掛けたSEOもまったく効果が得られない。やはりボクが考えた「医療機器専門の部品加工」というビジネスは、本当に仮説で終わってしまうのか…


問い合わせがあるのは、変なセールスや海外の工場からの売り込み。特に中国、仕事くださいな的なメールが良く来ていたが、こっちが仕事欲しいんだよ、と言ってやりたい気持ちであった。いまだに良くメールが来る。しかも5MBぐらいの資料を添付して送ってくる、かなり迷惑…

また、インタビューしたい、雑誌に掲載したい的な電話がかかってきたこともあり、これはスゴイと張り切って話を聞いていたら、こちらがお金を払って雑誌に掲載してもらう…つまりセールスであった。

本当に毎日、心折れそうになりながらも、テストマーケティングを続けるていると、1つの奇跡が起こった。



ついに問合せがキタ!

実にテストマーケティングを開始して8ヶ月が経過した頃である。8ヶ月は物凄く長い時間であったと記憶している。ほぼ、諦めかけていた時期でもあった。

そして、その問い合わせは、新規の開発案件であった。


問合わせメールには、オリジナルの医療機器を開発したくモノづくりできる企業を探している。一度、詳細な話をする機会が欲しいという内容であった。既にそのメールには医療機器の一般名称が記されていたので、すぐにどのような機器かを調べ、アニキに連絡した。(医療機器は一般名称と販売名称があり、一般名称は国が定めたリストがあり、そこに名称、機器の概要が説明されているので、一般名称さえ教えてもらえれば、直ぐにどのような機器なのかを知ることはできる)

ボク
アニキ、ついにちゃんとした問合わせが来たよ!医療機器の開発。どうやら手術で使うような器具のようだ。調べると金属系だから、ウチで加工できるのでは?
アニキ
うん、これなら作れそうだ!

力強いコメントである。

今でこそ、少しは加工屋の技術的な話もボクは理解できるようになったが、当時は何が作れて、何が作れないか、まったく想像できなかった。おそらく、そのままボクだけで、営業活動していたら、


「何でも作れます!」


という、とんでもない営業をやっていたことだろう。

やはり、餅は餅屋に任せて判断するのが最良である。


ということで、アニキが作れると判断できるのならば、ここから先は、ボクの営業の力で話を前に進めるだけである。早速、先方様にアポを取り、打合せを設定した。


この時の作戦、後にカーターの基本戦略の1つになる「先にモノ作っちゃいました作戦」を決行したのである。これは何かと言うと、ボクたちは、誰からも知られていない、謎の会社である。(謎の会社どころか、当時はテストマーケ中の身であった)そこで、ボクたちを信じてもらう、一緒にビジネスをやりたいと思ってもらうためには、どんなアピールが適切かと考えた結果、モノづくり企業の特徴を生かして、先行してモノを作ってしまい、最初の打合せ時に持ち込むという作戦である。



例えば、この時、最初の打合せで持ち込んだのは、想定される開発品の部品の一部を試作して持って行った。材料は何でもよい、廃材を使って製作している。ドンピシャでなくても良いぐらいのスタンスで製作することも重要である。アニキはモノづくり職人であるため、当たり前であるがモノづくりに強いこだわりがある。ただし、この最初のアタックでモノを提示する目的は、あくまで


「あっこの会社は実際にモノが作れそうだな」


という印象を付けさせるための施策であり、何も正確な部品を仕上げろと言っている訳ではない。この辺りは職人と営業マンの気質的に異なる部分であるが、とにかく仕事のスピードも重要なことから、訪問日時をなるべく近日に設定し、訪問するためにも、とりあえず話のネタになる程度のモノを仕込めれば十分である。ということをアニキに理解してもらい、モノの準備をお願いした。


そして、打合せ当日。


ボクとアニキで初めて臨むお客様との打合せ。


スゴく緊張したけど、やはり先にモノ作っちゃいました作戦は大変効果的であった。

お客さん
えっもう作っちゃったんですか?

お客様から、このようなコメントが得られたら、作戦は8割方成功したと言っても過言ではない。ここから先は、具体的な要求仕様の話を行い、実際にモノが作れるかどうか、設計を行うことになった。

ボク
やったねー
アニキ
うんうん、なんか出来そうだな。
なんか、宝くじに当たったみたいだね。
ボク
うん…?

ちょっとした違和感を覚えた。

ボクは宝くじとは決定的に違うと思った。

宝くじにも「何処で買うか」、「いつ買うか」、「いくら買うか」、確かに戦略はあるかも知れない。それでも一般的には、ただ買って待つというのが宝くじだ。

ボクたちも外から見れば、ただホームページを作って顧客から連絡が来ることを待っていただけだと言われるかも知れないが、そこは大きく違う。どのようなホームページにするのか、例えば医療機器専門というキャッチコピーは考えて設定したものであるし、Facebook上では、部品の製作風景の動画を用いたクイズの企画など、宝くじとは大きく異なる戦略を立案し、このテストマーケティングに入れ込んできた思いがある。


そして、何よりもボクたちは思い切って新しいことにチャレンジしことが大きい。


誰だって新しいことを始めるためにはストレスがかかる。現状の場所にいた方が安泰だし、楽なのはその通りだと思う。だけど、ボクたちは新しいチャレンジをする方を選択した。チャレンジの理由は、関根製作所の経営状態が悪く、このままではマズいことになる…という追い詰められた状況であったことが原動力になった。人間は負のエネルギーがあると爆発的なパワーを生むとボクは思っている。


この野郎!今に見てろよ!

全体に見返してやる!


実は、関根製作所の経営状態が悪くなったころから、色々良くないことを言ってくる人たちも多くいた。だからボクは、そういった人達を絶対に見返したいという強い想いを持っていた。その気持ちが原動力になり、ボクたちの行動に移っていったと思っている。



そして、このお客様との最初の打合せを契機に、ボクとアニキの最初の仕事が部品製作だけではなく、新製品の開発という大きなプロジェクトとなり、そのスタートを切った。



それでも世の中は甘くない。

開発は順調に行かないのが定説であり、ボクたちのプロジェクトも例外なく、順調には進まなかった。第1号機の試作品はそれなりに出来上がったが、実際の臨床研究では、思っていたような成果は上げられず、改良改良が続いた。ボクたちのプロジェクトは、依頼者がいて開発の依頼を受ける所謂「受託開発」というビジネスモデルであったため、試作品のスペックを予め決めて、試作品を製作し、臨床研究を行う訳だが、その試作費用は、都度、依頼者が負担することになる。なので、受託開発というよりは、試作品の製作の依頼を受けていたといった方が良いかも知れない。それでも、どう作るか考えたり試作品を作るための試作をやったりと、もらえるお金以上に出ていくお金も結構あり、結果的にお金を持ち出している状況にあった。


この辺りは、ルーキーによる見積の甘さである。


後に当社の営業を担当することになる、カツマタに話を聞いたところ、試作費用は自分たちが算出した見積額の2倍程度で提示しないと大赤字を食らうことが良くあるとのこと。


そりゃー極端だな… ボッタくりだな…


と思ったが、それほど的が外れていないことも直ぐに気が付いた。

実際に試作をやるということは、やったことのないことをやる訳であり、想定できないトラブルも多く起きる。そのリスクマネーを考えずに、ただ試作品を作るための製作コストを算出し、見積書を提出していたのでは、ビジネスにならないと、注意を受けた。

そういうことからも、最初の開発プロジェクトは結構な赤字を食らってしまった。

ただし、ボクたちは初めての開発であり、勉強代だと考えていたし、何より製品化すれば、ボクたちに製品の製造委託をするという約束だったことから、そこまで頑張れば十分に利益は出せるという思いでプロジェクトを進めた。

モノづくりを担当していたアニキは、試作品を持って病院を訪問し、臨床研究の現場にも立ち会うようになり、これまで話したこともない「お医者さん」と機器の話をするようになっていった。だいぶ、医療機器の開発者としての雰囲気が出てきた頃である。


ちょうど、プロジェクトに没頭していたころ、大きな出来事が起こった。


オヤジの死である。


入退院を繰り返していたオヤジは、ボクとアニキが新しくビジネスを模索していたことは知っていた。こんな依頼がきて、ボクとアニキで試作品を考えて作ってるんだという話にも、病院で嬉しそうな顔をして聞いてくれた。おそらく元気だったら一緒にモノづくりをしたかったであろう。オヤジは根っからの職人である。そしてアイデアマンである。今、生きていたら相談したい案件は山ほどある。もっと早く、ボクがこのビジネスを立ち上げていれば、オヤジの大好きなモノづくりをやらせてあげられたのに、それこそが最も大きな親孝行であったのではないか、まだまだ親孝行しきれていない…。


ボクは大人になって、こんなに泣いたことはないぐらい、泣いた。


もともと、オヤジは口数が少ない。それでも病院で聞いたら

オヤジ
ウチの次男はオレと違って、医療系の人間だからな、変な薬なんか使ったら、直ぐにわかるからなー

とボクのことを自慢の息子として話をしていたようだった。

オヤジに直接褒められた記憶はないが、このように聞き伝えられると効果は倍増する。


そして、オヤジとのお別れの時、棺にボクとアニキの初めての開発品の設計図を入れた。


「オヤジ、天国からボクとアニキを応援してくれ!」


そう祈った。



ビジネスを本格化させる。

オヤジの死からボクとアニキはオヤジのモノづくりの魂を継承すべく、新しい医療機器のビジネスに全力で取りかかった。

試作も複数回行い、部品の種類も何パターンか試しながら、製品化に向けてプロジェクトは進んでいた。また、その間、スポットではあるが医療機器部品の製作依頼や、他の開発品の相談、投資会社からの連絡?等、それなりにビジネスになりそうな要素は出てきていた。


そして、開発品の完成も目前に迫った時、ボクとアニキは正式にカーターテクノロジーズを法人化させ、本格的なビジネスを行うことを決めた。


会社の設立日は、このビジネスのルーツであるオヤジの誕生日である9月18日にした。


この日、ボクはカーターテクノロジーズ株式会社の代表取締役となった。

合わせて、医療機器製造業の取得にも取り組み、無事に業許可を取得した。


そして、満を持して、ボクとアニキで開発した第1号品は無事に製品化された。


現在、会社設立から丸3年が経過し、受託開発の製品が3品目、更には製造販売業を取得し、昨年、自社オリジナルの製品も上市することができた。

まだまだ利益がしっかり作れるような安定したビジネスには育っていない。これからもっと頑張っていかなくてはならいが、少しだけ何か道筋が見えてきたことは確かで、ボクとアニキで始めた医療機器ビスネスは、少しずつではあるが歩みを始めている。


そう、歩みを始めたことが重要なことなのだ。


良く言われることだが、本を読んだり、テレビを見たり、セミナーに行ったり、そして最近はネットから、多くの情報が入手できる時代になった。その得た情報を自分なりに考え、行動に移せる人間は実は数少ないと言われている。ボクとアニキで医療機器のビジネスを立ち上げられたのは、共に考え、テストを行い、会社を作りと、とにかく怯むことなく実行を続けた結果だと思う。


精神的にはキツイ時期もあったが、2人でやっていたから何とか乗り越えることができた。

よく「兄弟ケンカしないのか?」と質問を受けるが、そりゃ想像通り、ケンカはする。ただし、お互いの専門性が強くあり、その分野に関しては、お互いを認めているので、結局はその専門性を活かして、お互いに判断は委ねる流れで、ケンカは終息する。


いつまでも兄弟2人という訳にはいかない。今後はビジネスの本格化を目指し、人材も含め、次なるステップへのチャレンジが必要になってくる。


ただ、会社がどのようなフェーズになっても、ボクとアニキは、オヤジのモノづくり魂を受け継ぎ、その技術を医療機器というモノに仕上げ、患者さんに届けるというスタンスは、変わることはない。


モノづくりを実直にやっていく。


これがボクとアニキのビジネスである。

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関根 敦

カーターテクノロジーズ株式会社 代表取締役 実家の金属加工工場のリソースを活用し、兄と一緒に医療機器の会社を立ち上げ、現在に至る。 http://carter-tech.jp/

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