私の骨。

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もう長いこと忘れていたけれど、ずっとずっと若い頃、私はとある男性と付き合っていた。今日彼のことをふと思い出した。そして私が彼にお願いしたことを。


私よりもずっと年上だったその人は、その頃もうすでに若くはなかった。いろんなことを諦めていて、いろんなものを犠牲にしていた。それとは対象に、私はまだ若く、希望に満ちていた。少なくとも、今よりは。


「君を見てると、若い頃の自分を思い出す」

彼はスーツケース一個でどこまででも行ってしまう私によくそう言った。その頃私は世界に恋をしていて、次の旅行先、新しく見る景色のことで頭がいっぱいだった。世界はキラキラと輝いていて、扉を開けて私を待っていた。私は今まで行ったことのある場所を、よく彼に話して聞かせていた。カラフルな色彩のメキシコ、現実か夢かわからないような幻想的なプラハ、それから香港のねっとりとした湿気などを。 

彼はその頃、とある問題でがんじがらめになっていて、もう自分の意志では身動きさえ取れなかった。いつか一緒に旅行が出来たらいいね、と彼はよく口にしたけれど、私にはそれがいつか叶うとは到底思えなかった。

彼にだってそんなことわかっていたかもしれない。でも口にせずにはいられなかった。そう口にすることで、彼を取り巻く不穏な空気から一瞬でも逃げることが出来たのかもしれない。私には彼がそういう風に生を繋いでいるようなそんな気さえしていた。


若い女独特の傲慢だと言われるような言葉をあえて書くけれど、その頃の彼にとって、私はある種の希望だった。いくつかの過程で、そして様々な事情で彼が無くさざるを得なかったものを、その時まだ私は持っていた。彼にはそれが、強烈に恋しかった。無くしたくはなかった、でも無くさざるを得なかった。私にすがりつくことで、自分だってそれを無くしていないと思いたかったのだと思う。誰かにすがりついてないと、自分さえ失ってしまう。そんな経験をすることが、誰にだって一度くらいあるのではないだろうか。もしそれに心当たりがないとしたら、それはきっととても幸運なことだ。  


なぜ、私はそれを彼にお願いしたのだろう。でも私は彼にだけお願いしたことがある。他の誰にも一度も言ったことはない。後にも先にも彼だけだ。 


「私があなたより先に死んだら、私の骨を盗んでくれる?」

それはきっと、「私が死んだら、一緒に死んでくれる?」と同じくらいの情熱で。

どういう会話の内容だったかはすっかり頭の中から抜け落ちてしまっているけれど、とにかく彼はものすごく困った顔をした。彼がそういう顔をする時、私はなんだかとても得意な気分になった。いつも理論ですべてを説明したがる理系の彼に、解けない謎を与えたようで嬉しかった。  


「どういうお願いなのかな、それは」

そう言った彼の顔からはすでに困惑が去り、呆れていたように見えた。私は少しだけ落胆しながらも、説明した。

その頃私はまだ日本に住んでいて、不慮の事故か何かで死んだ場合、狭いお墓に埋もれることがどうしても耐えられなかった。だから私の骨を海に流して欲しいと本気で思っていた。そしたら世界中どこにでも行ける。狭い日本からインドシナへ、そしてオーストラリア、アルゼンチン、自由に旅ができる気がしたのだ。 


私にはまだ見るべき世界がたくさんあった。


私の"物語"を聞いた彼は、「そんなこと親に頼んでくれよ」と苦笑いしただけだった。私の親は面倒くさがって、私の望みを叶えてくれなさそうだと思っていた。それをやってくれるのは、彼しかいないような気がしていた。 


そんな日はやって来ない。私は、死なない。だからこそ、私は自分の突飛な思いつきに満足した。


私の白い骨を抱えた滑稽で忠実な彼を想像して、いつまでも笑っていた。楽しそうな私を見て、呆れながらも彼もまた笑っていた。

小さな木箱に入った白い骨になってしまった私はその時満たされているに違いない。私には私の骨を抱えた彼はどこまでも愛しく、それは彼の私への愛の証のようだと思った。 


毎日を生きることで精一杯の男に、ひどい話だ。今なら、そう思うのだけれど。


あの頃から何年も経った。年を取り始めてきた今では、死んだら自分の生まれた土地で眠りたいと思うようになった。あの頃キラキラと輝いていたように見えた世界の中に飛び込んでみると、美しい世界だけが広がっているわけではないことも学んだ。 


私もいろんなものを諦めて、私の人生なんてもうすっかりホープレスだ。あの頃は自分の人生がこんな風になってしまうとは思ってもみなかった。もうきっと、あの頃彼が好きだった私はいないだろう。

そんな風に考えて、私は少ししんみりした。私も、無くしてしまった自分が、死ぬほど、恋しい。


なぜこんなことを思い出すのだろうと考えていたら、今日は彼の誕生日だった。数えたくもない遠い昔の今日、私は彼と一緒にいた。もう何年も連絡すら取っていない。今後も会うことなどないだろう。


彼があの後どういう人生を送ったか、今どうしているのか、私にはもう知る術がない。知るべきこととも思わない。


この少しの胸の痛みも、あの時聴いていた音楽も、明日にはもう、忘れているだろうから。


 


2014・3・18 ブログにて掲載

2017.3.4 加筆・修正

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