閖上で亡くなったみゆさんのこと





 ここでは、彼女のことを「みゆさん」と呼ぶことにします。


 みゆさんは、名取市閖上の出身で、東日本大震災による犠牲者の一人です。




 みゆさんは、当時高校2年生でした。明るく、面倒見がよく、ちょっと天然な彼女の存在は、周囲の人間を和ませてくれました。合唱部に所属していた彼女の最後の本番は、2011年3月8日、仙台市青年文化センターで開催された「仙台フィルと夢の共演、青少年体験コンサート」に参加し、山下一史指揮の仙台フィルと一緒に、三善晃「唱歌の四季」などを歌った演奏会です。


 プロ・オーケストラとの共演は、高校生にとって本当に夢のような企画で、このような企画を実施してくれた仙台市民事業団・仙台フィル・山下一史さんには、本当に感謝の言葉しかありません。客席から見た彼女は、ただ無心に歌っているように見えました。


 この演奏会のための合同練習がはじまったのは2月。その頃からみゆさんは、時々保健室に来ていました。何となく体調が悪い・・・そういうだけで、彼女は多くを語りませんでした。ベッドで休むわけでもなく、保健室の椅子に座り、机の前で、黙って座っていました。普段は人懐こい笑顔の彼女が、その時は涙目で困ったような表情をしていました。




 3月の第2週、宮城県の公立高校の授業は、高校入試のためにお休みです。そんな中、合唱団は3月8日(火)に本番、9日(水)は練習休みで、10日(木)から練習再開でした。


 10日(木)の朝、彼女は閖上の自宅から、仙台市内に勤務する父の自家用車で送られて学校に来ました。その時、彼女は車の中に生徒手帳を落としていきました。この生徒手帳が、彼女が残した唯一のものとなりました。




 11日(金)朝、みゆさんは合唱部顧問の先生に、体調がよくないので今日は練習を休むとメールで伝えてきました。


 そして、その時・・・。学校には約200名の生徒が、部活動や翌日からはじまる国公立大学後期試験の準備のためにやってきていました。グランドに避難し、点呼を取り、泣き出す生徒を慰め、学校に避難してきた近隣の方々を体育館に案内し、生徒たちを生徒会館2階の和室に誘導している時、雪が降ってきました。


 避難してきた近隣の方々の対応、トイレ用の水運び、毛布などの準備でバタバタとしている中、生徒会館の前で、みゆさんのご両親から声を掛けられました。


 「みゆの父です。みゆを迎えに来ました。みゆはいますか?」




 合唱部顧問の先生は、朝もらったメールの内容をご両親に伝えました。そして、ご両親は自宅にむかいました。その頃、閖上にはもう津波が到達していたはずです。




 避難所の運営を交代して私が帰宅したのは、15日(火)です。


 帰宅すると仙台市中心部にある自宅では電気がつきました。パソコンを起こし、安否確認のメールをし、テレビを見て東北に何が起こったのかをやっと理解しました。NHKが放映した名取市閖上の映像、田んぼの上をビニールハウスを飲み込みながら進む真っ黒な津波をはじめて見ました。




 ご両親は、みゆさんを探して名取市内の避難所をめぐりました。時々学校に来て、閖上は地獄ですとつぶやかれました。


 ご両親のお話によると、地震のあと、同じ閖上に住んでいたみゆさんのお祖父さんが「みゆの様子を見に家に行ってくるから」と言って電話を切ったそうです。そのお祖父さんは、数日後、遺体で発見されました。


 私たちは、みゆさんがどこかにいると信じていました。彼女のことですから、私たちが心配していることなんか気付きもせず、どこかの避難所にいる。一人で寂しさをこらえて隅で体育座りをしているかもしれないし、隣の婆ちゃんと仲良くなってお話しているかもしれない。とにかく電気もない、水も出ない、JRもバスも動かない、ガソリンもない。でも次会ったら「あ、おはようございます」って、いつものように言うよね。そんな会話を交わしていました。




 3月30日、学校では終業式・離任式が行われました。みゆさんは、まだ見つかりません。




 それからもう少し日時が過ぎ、4月21日からJRが運転を再開し、学校は新学期をスタートすると発表された頃、みゆさんのご両親から連絡がありました。


 住所で言うと岩沼市にある、遺体安置所となっていた国道6号線沿いのボーリング場にいました。ご両親が再会した時、その遺体には5組のご家族が「これは私の娘です」という申し出をしていました。


 ご両親が遺体を引き取り、火葬場に行くと「150人待ちです。山形か新潟にご自分で運んでください」と言われたそうです。


 


 みゆさんは、安置所で見つかりました。ですから、彼女がいつ、どこで発見されたかの情報がありません。地震のあと、彼女が何を考え、どのように行動したのか、まったくわかりません。それは、残された者にとってとてもつらいことです。


 そのまま、閖上の海岸線から数百メートルの自宅にいたのか、それとも避難しようと閖上公民館、閖上小学校、閖上中学校の方向にむかったのか・・・それを知ることはもうできないのです。


 彼女の自宅跡に立って振り返ると、彼女の母校である閖上小学校と閖上中学校がすぐ近くに見えます。何で早く逃げなかったのかという思いが沸き上がります。でも、自宅で一人でいたみゆさんが、あの時どんなに恐い思いをしたかを思うととてもつらく、彼女を責める気持ちにはなりません。




 その年5月、合唱部は、恒例の「定期演奏会」を実施予定でした。しかし、予定していた会場だけでなく、仙台市内の音楽ホールはすべて地震によって使用不能となっていました。そんな中、生徒たちの強い意志と努力とにより、学校の体育館で6月末に定期演奏会を実施することになりました。演奏会の冒頭、生徒の発案で、みゆさんのために、一分間の黙祷を捧げました。




 合唱部だけでなく、生徒にも先生にも、震災で大切な人を失った人はたくさんいて、みゆさんだけを話題にすることは何となくしないまま月日が経ちました。そして、合唱部は新しい顧問の先生をむかえて歌い続けています。


 やがて、みゆさんのことを知っている人が、みゆさんの母校からいなくなる日が来るでしょう。その前に、文章にして、ここに残しておこうと思いました。ただ、それだけです。




 



著者のNobu Ishiiさんに人生相談を申込む

著者のNobu Ishiiさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。