わたしの3.11の記憶

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わたしの2011年、3月11日。


家中のロウソクを探していた。

当時22歳。

横浜の実家で、『二度目の最終日』を迎えていた。



当時のわたしは、地元のレンタルビデオ店と都内のカラオケでアルバイトを掛け持ちする勤労学生だった。

在学中からオーディションを受けて、学外で舞台活動もしていた。

稽古のない日は、授業が終わってからビデオ店で25時まで働き、

稽古のある日は、授業⇒稽古⇒カラオケの夜勤

といった毎日を送っていた。

(6年経った今考えると、24時間サイクルで動き回ってたあの頃の体力が信じられない)


そんな生活も卒業と同時に終わりを迎えた。

学生の肩書きを失ったわたしは、訳あって実家で暮らすことが出来ず、都内で一人暮らしをすることになった。

舞台活動を続けようと決めていたので、地元のレンタルビデオ店を辞め、カラオケの夜勤を続ける事にした。

新居の契約も済み、鍵も3月8日頃に預かって少しずつ荷物を移していった。

レンタルビデオ店の締め日が毎月10日だったので、3月10日の18時〜25時が最終出勤日となった。

最終日はなんやかんやで朝方帰宅し、

今日はゆっくり眠って夕方頃起きよう、夜には新居に向かおう。

今日から新しい日々が始まる。

家族と離れるのはちょっと寂しいけど、頑張るんだ、一人で。


そんなことを思う、22歳の春先だった。




揺れた瞬間はベッドの中だった。


我が家の家族構成は、

母、妹、弟、弟、そしてわたし。5人家族。

父はいない。


母はこの日仕事が休みだったので家に居た。

長男はこの頃小学校6年。だけど何故か休んで家に居た。


揺れると同時に母の「地震!!!」という鋭い声がした。

地震の際、我が家がやる行動の一つに『玄関扉を開ける』がある。

わたしの父の実家が兵庫県にあり、祖父母は阪神淡路大震災を経験していた。

「地震でドア枠が歪み、外に出られなくなったんだ」と語ったのは誰だったか…当時6歳なので覚えていないが、その話を聞いてから我が家の習慣になった。


とにかく揺れたら玄関へ。

わたしの寝室が玄関扉に一番近かったので、飛び起きてすぐ玄関に向かい、扉を開けた。

間も無くリビングから、母が来て、長男も少し遅れてやって来た。

その時家の奥の方から「ガチャン!!」と盛大に割れる音がした。テレビが倒れたらしい。

テレビゲーム好きの長男の顔が青ざめていた。


この時はまだ、東北がこれほどまで大惨事になるとは思ってもいなかったし、すぐ収まると思っていた。

だから、我が家の心配は「テレビ壊れたんじゃないか」程度だった。


揺れが収まるまで、3人で玄関扉を開けた状態で様子を伺った。

何かあればいつでも逃げられるように。


…それにしても揺れが長い。揺れ方が気持ち悪い。電気も消えた。

徐々に、いつもの地震と違うと悟った。

6歳の頃、父が悲壮感たっぷりに祖父母に電話を掛け続けていた姿が思い出された。

あの時の、不安感。緊張感。

震災の文字が頭をよぎった。


揺れが収まった頃、まずは妹と次男の安否確認をした。

高校生の妹は、10階建の縦長い校舎の学校に通っていた。わたしの母校でもある。案の定相当揺れたそうだ。

幸いにも連絡はすぐについた。この辺りの記憶が曖昧だが、電話は繋がらず携帯メールでやり取りしたような…

電車で30分程の距離もあり、電気も止まって帰れないと思うから学校に泊まるとの事だった。


残るは小学校5年生の次男。

校庭に避難しているはずなので、小学校へ迎えに行く事にした。


リビングのテレビは案の定、前に倒れてwiiに当たり、画面中央が割れていた。

それより衝撃的だったのが、電気の他に水道、ガスも止まった事だった。


復旧ボタンを押してもガスがつかない、蛇口を捻っても水が出ない、電気も止まったまま…

テレビも見れず、ラジオも電池式では無かったので電源が必要。携帯も繋がらなくなり、家の電話も電気がダメ……トイレも1〜2回しか流せない。コンロが使えないから料理も限られる。お風呂も入れない。


わたしたちの日常は、ライフラインの上に成り立っている生活なのだと痛感した。


ひとまず3人で小学校に向かった。

次男とは無事校庭で会う事が出来た。

この時点で15時半くらい。

合流したその足で、昨日辞めたビデオレンタル店に向かった。

家ではニュースも見れない。誰か知り合いに会って話を聞きたかった。


電気が止まっているので、もちろん信号機が機能していなかった。

車通りの多い道沿いに店舗はあったので、道路を渡るのも一苦労だった。

徐々に夕方になり、陽も傾いてきていた。


ビデオレンタル店には、大勢のスタッフが集まっていた。

休みの人も駆けつけている様子だった。

ワンセグのついた携帯電話を持っているバイトの友人がいたので、私たち家族はそこで初めてニュースを見た。


かなりの衝撃だった。

こんな大変な事態になっていたなんて…

この時見たのは確か火災の映像だった。


その時できる事といえば、店の手伝いと買い出しだった。

こんな状態でも返却日だからって真面目に返しにくるお客さんもいて、集まったスタッフ全員で入り口付近に仮設の返却場所を作って手作業で返却確認をしたりしていた。

しかし店の非常灯も徐々に灯りが弱まってくるし、外も段々暗くなってくる。


ある程度お客さんも来なくなったところで、店長から全員帰るように言われた。

それから近くのコンビニに寄った。食糧も水も備蓄が無かったし、停電がいつまで続くか分からなかったから。

コンビニは案の定ごった返していた。

一番衝撃的だったのは、店員さんがレジから商品名を叫んでいる光景だった。

言われた商品の棚に別の店員さんが駆け寄り、料金を叫ぶ。

レジの店員さんが電卓で計算してお会計する流れだった。


後にも先にも、あんなに殺気立ったコンビニは見た事ない。

バイト先のビデオレンタル店の返却処理もそうだけど、POSレジの店は大体パニックに陥っていただろうと思う。だって、あんな大規模停電、経験したことないから。


1時間くらいして水と火を使わずに食べられる物(殆ど残っていなかったけど)を購入して、私たちは家路についた。


あたりは真っ暗で、街灯も無かった。

日本はどうなってしまうんだろう。東北はどうなっているのだろう。

母方の実家が秋田なので、そちらの祖父母はどうしているだろう。


そんな事を話しながら家に帰った。


ライフラインはまだ復旧していない様子だった。

クリスマスに使ったロウソクがあったはずだと思い、携帯のライトを使って探し出した。

冷たい夕食を済ませ、寝るに寝られない夜はロウソクの火を見ながら母と話をしていた。


今頃は家を出ている予定だったね、とか。

午前中に引っ越していたら、都内で一人で心細かっただろうな、とか。

もう暫く、引っ越さないでこっちで暮らせば、とか。


一人暮らしの決意はかなり揺らいでいた。

でも、翌日は仕事で都内に行かなければならなかったので、朝、電車が動き次第出発すると伝えた。


深夜1時を回った頃、電気がついた。

テレビも、液晶中央が黒くシミになっていたが映った。


ここで初めて、津波の映像を見た。


訳がわからなかった。

食い入るように画面を見つめた。

災いは、あの瞬間の揺れと火災だけじゃなかった。


家族の安否が確認出来たこと。

家に帰ってこれたこと。

電気がついたこと。

水が、食糧が手に入ったこと。

どれだけ幸せなことか…


この日はショックすぎて眠れなかった。

読んでよかった
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貴重なストーリーをありがとうございました。僕もテレビで見た津波の光景には、言葉を失いました。

神原 ゆん

舞台、映画、音楽が好きな、かけだし裏方スタッフです。 25歳まで舞台三昧(主に出る方)の日々を送り、 接客のアルバイトに本気になり、 28歳で初の就職。 イベント会社で、今はテクニカルチームに所属しています。

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神原 ゆん

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