標準体重の女子高生が18kg減量したその後18年の人生
減量したら周りが、世界が羨望の眼差し?
※※※ 自分の経験と聞きかじりだけで書いていきます。 ※※※
摂食障害で苦しんでいる人へ、孤独ではない事、助けを求める事を諦めないでほしいと思います。
随分長い年月、老若男女が不要なダイエット、痩せ願望であふれている事がとても危険だとも思う。
人生を通して無駄になる事はどこにもない。経験、出会いは全てが財産になる。
今の私は17歳の時とほぼ身長は変わらず、身長に対する標準体重と言われる数字に、ほぼ近い。
あの減量は反抗期の爆発を自分に向けた自傷行為の一種だと思っている。
家族をもっと信じて、ぶつかれば良かったのだ。
17歳の正月、私は芋栗南瓜が大好きな少女だった。
中高通して文系、と言うか帰宅部に近いのに瞬発力だけはあり、毎日天井に向かって、柳の下で跳ぶ練習をしている蛙のような事をしていたおかげで、
確か垂直飛びと太腿周りは64cmあったと思う。
毎日家でゲーム三昧だったのに50m走も7秒14だった。
当時の自分に言ってあげたい。
あー、勿体ない‼
年齢相応のちょっと肉付きの良い自然な可愛らしさがあったなと、当時の写真を見て思う。彼氏だってその気になったら作れるん違うかー?
興味も自信も無かったから仕方ないけど。
この年は家庭科の宿題で大好きな栗きんとんと、松笠焼きを年末自分で作った。
正月は栗きんとんをもう一口、もう一口と5人分平らげたのを覚えている。
そして、体重計に乗ってみると、驚愕の数字。正月で3kgくらい太った。
鏡を見ると悩み多き自分の姿があった。
春になったら毎朝走るぜ!
食事も自分でコントロールするぞ!
痩せたら綺麗になるぞー♫
当時nonnnoというファッション誌にハナと言うモデルがいて、超憧れていた。
毎朝のジョギングと無茶な食事制限の結果、
瞬発力を捨てて、持久力が付き、平常血圧が低くなった。
もともと不順だった生理が無くなった。
母が婦人科に行けと言ったのは、もっと痩せようとする私を、母ではどうする事も出来なかったからだろう。病院の先生の言いつけなら治るんじゃ無いかって思ったのではないだろうか。
婦人科の主治医が「体にも脳にも良くない。もっと食べないと将来赤ちゃんが産めなくなる。」と警告したが、体は前よりも鍛えられて毎日走れるし、勉強もして点数も取れているし、結婚する気もないし、子どもも産む気がない10代の少女の耳には右から左の言葉。
それよりも、体重計に乗る度に思った通りの結果が出て、モデルのハナちゃんに近づけた気がして気分が高揚した。
ジーンズを買いに行けば店員に細さを褒められた。
デパートで服を買えば入らないパンツは無い。
今までは、太腿が邪魔して何にも似合わなかったのに〜、超楽しい!
そして、エスカレート。
モデルと同じ、いや、身長が10㎝くらい低いからもっと痩せなきゃ。そうだ!食べる物をキャベツとコンニャクだけにしたらどうだろう!結果がでるぞ!
大学に行った後、どうありたいかなんてのも無かったし淡々と勉強し過ぎて喜怒哀楽、人の感情も忘れた。高校ではとうとう、一切遊ばなかった。
17〜19歳の間で18kg減量し、大学に合格した18歳の春。体脂肪率11%、毎日10km以上ジョギングをしていた。お尻は座ると骨が当たってアザが出来ていた。体重の割に骨が浮き出るのが早かった。骨が太かったせいもある。当時は骨が浮き出ている事は素晴らしく美しく見えた。
勉強も減量もやって自分は成功していると思った。
街でエステのテッシュ配りのお姉さんが声をかけてきて、骨皮すじ子な腕を触って
「羨ましいー」と言って来たのをおぼえている。
この時、「私は間違っていない。」と考えを補強して行った。
でも、思うように行かない。
洋服のサイズは上半身2サイズしかダウンしなかった。
生まれついての骨格は変わらない。
痩せても綺麗にはならない。
思っていたのと違う。
友達が羨ましいって、いっぱい話しかけて来ると思ったが、一度心配してくれたが、変わらなかった。
痩せたのに、何にも変わらない・・・。
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、全っ然っ違う‼︎
両親にはもっと心配してほしいとばかり思っていた。どうして何も聞いてこないのか、進路の話し合いも無いのか只々寂しい。心はこればかりで埋まってた。
大学進学
都内の大学13校に全て落ちまくた。でも、全然ショックも感じない。親へも悪いとも思わなかった。心は寂しさしか感じなくなっていた。
そんな時、母が最期に一校絞って、そこに向けて一か月やってみたらどうかと探してくれた学校があった。当時は医歯薬を除く理系大学の中では学費が高いと評判だった岡山理科大学。3月24日の試験を受け、その月末に合格発表を受け取り、一人暮らしをする事になった。
地方に痩せ細った、食がおかしな娘を一人暮らしさせる母親の気持ちを考えると二通りある。
1)凄く心配だが、強力な毒父親から切り離す為に仕方なく、泣く泣く。
2)面倒な奴は追い出して何処ででも死んでしまえ。
1)は今、私が母の立場だったらそう思う気持ち。
2)は大学進学した当時に勘ぐっていた事。
母に当時の事を聞くと(1)だった。
過食嘔吐に明け暮れる
いつしか、心を花のある植物だとすると、私の花は色んな人や物が素晴らしい水をいくら与えても吸い込まなくなって蕾のまま萎れていっているようだった。まるで砂漠にいるようだった。
今思うと大学の時は人に恵まれていた。いい仲間がたくさん周りにいた。普通の友人として楽しい事にもたくさん誘ってくれて、一緒にいたのに、私はそんな仲間の思いやりのある行動や言動が煩わしく、嫌だと思いながらも、どこかでほんのちょっと嬉しくもあった。
でも、私が人間と居て、嬉しいと思うなんて らしくない 嬉しいと思っちゃいけない、と気持ちに蓋をした。
心の砂漠では夜は暗さと寒さが襲い、昼は強烈な日照りにいつも喉が渇いていた。
いくら水を飲んでも癒えない渇き。
こんな事、
いつまで、
続くんだろう。
苦しい。
誰も私の事は見えていない。
助けて。
気づいて、、、。
いつでも徒歩だった私を見て、いつも友人は「元気だね!」と言った
心はガタガタ震えて一人ぼっちで元気なんかじゃ無かった。
気づいてほしいのに、自分をさらけ出すのも怖くて、誰にも助けを求められなかった。
恐怖から心はいつも閉じたまま。
生きるのが辛い、死んでしまいたい。
自殺したいと思う度に、
母親は悲しむだろうか、
それともスッキリしたと思うだろうか、
とグルグル考えた。
「死にたい」って思っても、
細胞の自死プログラムが発動しないのは不思議だとも思った。意思とは関係ない所で一生懸命に生命維持をしている60兆の細胞達。私はこの小さな美しい生命の結晶の集まりを率いて生きなければいけない。自分の身体は一つの生命の惑星のようだと考えてもいた。
生命が始まってから受け継いできた何かがたくさん詰まった身体を持っている限り、
一人になっても本当の孤独には決してなれない。
会ったことのない多くの命のつながりを意識すると、大きな何かが体を満たしているような気がした。
細胞や生物の良くできたシステムを学ぶほど、本当に不思議だなと思ったわ。
20歳も近づいた頃
夜中にお腹がはち切れんばかりに食べては、
ぬるま湯を持ってトイレに行き、その湯を腹に流し込んで
指を喉に入れて吐く事を繰り返していた。
成人式には出なかった。
そんな精神状態ではなかった。
孤独の世界の真ん中にいる自分は人の集まる所にいたら更に孤独感を募らせるのが分かっていた。
晴れ着を着て、幸せで楽しそうにしている友人と比べたら、なんて自分は卑屈で醜いんだろう。
自分なんて消えてしまえばいい。
吐く方法や、出す事ばかりを考えて、嘔吐症状の出ると言われているジャガイモの芽や、プロテアーゼ阻害作用がある物質があると聞いた生の大豆を食べたりした。生米もバリバリ食べた。
身体なんて壊れてしまえば、また痩せられるのに!
壊れてしまえ!
でも、そんなバカな頭脳のする事に身体は生きる選択をし続けた。
下痢もせず、吐き気もせず、食べるだけ体重は増えた。
身体も異常事態宣言をして頑張っていたのだと思う。
「親からもらった体。」「ご先祖様が見ている。」この言葉の意味を教えてやりたい。
あの頃の自分にこう言ってあげたい。
だけど、今の自分だけのモノじゃない。一時期借りていて寿命をまっとうするまで大切に扱わなければいけない。自分の命、生き死には全てが自分の勝手に出来るモノではない。
身体が教えてくれる事にもっと耳を傾けるようにしてみて。
今、生きている時間と空間もただあるのではなく、与えられたもので大切にしなければいけない。
だから生命には限りがある。
想像できないくらい、思い出せないくらい苦しんでいると思うから、苦しみを分かち合える人を探しなさい。
そして、自分の身体を憎まないで、凄い体なんだから!
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