元ひきこもりの猫人間が芸人目指して慶應大学に入った話 無職編

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19歳、無職、ひきこもり




19歳の私は無職であった。


といっても自立している無職ではないので(自立している無職というのも変だが)、カテゴライズするとニートと呼ばれる存在だった。


朝起きて何の目的もなく一日を過ごし、また次の日まで待つ。そもそも朝起きる理由もないので、昼過ぎ、時には夕方まで布団の中で過ごす。深夜、家族が寝静まった頃を見計らって台所に向かい、冷蔵庫の中にある晩御飯を解凍し、腹を満たす。ひっそりと静まり返ったリビングで、一人テレビを鑑賞し、また朝頃に眠りにつく。


そんな絵に描いたようなひきこもり生活をしばらく続けた。

勉強する気は全く起きず、あまりに退屈であったことと自身の置かれた状況に一抹の罪悪感を抱き、コンビニエンスストアに置かれた求人雑誌を購入し、バイトの求人に目を通す。そうしてバイトを探しているフリをし続けるが、一向に電話をかけることはない。そんな勇気は一ミリもなかった。


二度目の大学受験が失敗してからすぐに、短期のアルバイトに応募した。高校はアルバイトが基本的に禁止であったため、それが人生二度目のバイト経験となる。いわゆる短期派遣のコンサートスタッフで、朝バイト先であるイベント会場に向かうと自分と同じような年代の若い学生たちが集まっていた。しかし、彼らと決定的に自分が違うのは、彼らが社会的集団に所属しているという点であった。このようなイベントスタッフの派遣バイトをやったことがある人ならわかるかもしれないが、バイトの扱いは恐ろしくひどい。イベント会社の横暴な社員にこき使われ、バイト時間中は精神的にも肉体的にも疲弊してしまう。しかし、周囲に自分と似たような境遇の人間がいれば、乗り切れるものである。実際、皆学生同士、もともとの友達同士も中にはいたのだろうが、仲良く休憩時間は会話をして過ごしていた。自分の人見知りする性格も相まって、私はそこで一切会話に加わることはなかったし、孤独に派遣期間である3日を終えた。地方であったし、その頃はまだ最低賃金が600円代だったから、手元にはほとんど金が残らなかった。それに加えてその時感じた窮屈さが、私に労働に対する厭忌心を芽生えさせた。



心の中でこのままではまずいと思いながらも、アルバイトはしたくないと思い、何もしない。予備校に通っても勉強はしないことはわかっていたし、親にこれ以上金銭的迷惑はかけられないと思いながら、家で勉強をすることはない。こうして何もしない、何もできない、19歳の無職が出来上がった。



ただ、私は大学入学後、2年間何をやっていたのか聞かれた時はいつも「フリーター」をしていた、と答えるようにしている。この無職期間中、このあと2ヶ月だけネットカフェでアルバイトをしていたのは事実であるし、完全な間違いではないが、フリーターとして生計を立てていたわけではないし、2年間のほとんどはニートのようなものである。かといって、じゃあ浪人していたのかと聞かれると、ほとんどの期間勉強をしていなかったわけで、真面目な浪人生に申し訳ない気がして、浪人していたとも名乗れない。フリーターと答えた方がかっこいい気がしてそう答えていたが、今思うとどちらにもなりきれない、ニートであるし、ひきこもりである。でも、そんなことは決して言えないだろう。ただの穀つぶしをしていました、なんて言ったら軽蔑される、そう思っていた。


私は重い腰をあげて5月の終わり頃から求人広告に応募し始めた。かなりの件数に応募したが、すべて不採用となった。その頃徐々に、自分の置かれている境遇の社会的立場がわかるようになっていた。私と同じような19歳のほとんどは、何かしらの社会的集団に所属している。それは大学であったり、専門学校、職場、サークルであるかもしれない。少なくとも社会的に信用されるに値する集団に所属している。そしてその事実がそのまま人間の信用にも関わって来るのだ。どこにも所属していない人間はそれだけで信用に値する材料がない。そういう人間を社会は簡単に信用しない。また、1年間ひきこもりのような生活を送った人間の雰囲気というのは、容姿や振る舞いからおのずと溢れている。自分自身を客観的に見ることは難しいが、自分以外の人間からはそのすべてが筒抜けとなる。アルバイトであっても、なかなか一度レールから外れた人間が、社会復帰するのは簡単なことではないのだ。そんなこともあってか、私の「就職活動」は苦労した。しかし、踏ん張り続けていれば、可能性は0ではない。諦めかけていた時に、とあるネットカフェに採用された。時給は最低賃金であったし、交通費も一切出なかったが、涙が出るほど嬉しかった。けれどもそこでのバイト生活は長くは続かなかった。その詳細はここでは書かないし、面白い話ではない。たいして語るほどの話でもない。だが、このバイト生活の結果、私は絶望のどん底に叩きつけられたような気持ちになった。自分という人間について疑い、社会に対して恐れと同時に後ろめたさを抱き始めた。社会を語るほど何も経験はしていなかったが、その一面はあまりにも冷たく、酷であると感じていた。自分の能力のなさに嘆き、もう何をする気も起きなくなった。そうしてまた、私は無職になった。




「なんで浪人生が、アルバイトしてるの?」




無職になってまたしばらく同じような単調で堕落した日々が続いた。夕方目を覚まし、だらだら過ごした後、明け方眠りにつく。時々地元を離れ自転車で街を散策したり、古本屋で時間を潰す。そうやって日々をただ無為に消費していく。そんな毎日に焦燥感を抱きながら、何もすることはない。お金を貯めてどこかへ行こうか。そんなことを考えつつも、バイトをする気は一向になく、自由に使える金はほとんど0に近い。それでもできるだけ楽に金を稼ぐ方法を考え、一日中ネット検索にふける。たまたま自宅からすぐ近くのところでイベントが開かれるということで、二日限りの短期アルバイトが募集されていた。二日目のバイト終了後、日払いで一万円がもらえるという。私は二日間なら多少キツくてもいいや、という気持ちで応募し、すぐさま採用された。当日イベント会場に出向くと、ガテン系のいかついいかにもな方々と体育会系の若い学生たちが集まっていた。この時点で嫌な気がしていたが、仕事は案の定会場設営のために重い機材を運ぶ肉体労働が中心のものであった。現場のガテン系の社員に怒鳴られながら、汗だくになり機材を運ぶ。なんとか休憩時間まで耐えると、社員の人たちが缶ジュースをおごってくれた。それを至福の思いで飲んでいると、ひょろっとした自分と同年代の男が話しかけてきた。聞くと彼は愛媛出身の大学生で、今は北海道の名門である北大に通っているらしい。普段は家庭教師をやっているが、日払いということで今回このバイトに応募したそうだ。


北大生
このバイトきついね。こんな肉体労働だと知っていたらやらなかったよw
ねこた
そうだね。俺も普段全然外出てないからきついよw
北大生
へえ。てか、俺と同い年なんだよね。大学はいってないの?
ねこた
うん。一応大学受験はしたんだけどね、しっぱいしちゃってさ。
北大生
俺も浪人したから今年から大学に入ったんだよ。ということは今2浪目ってこと?
ねこた
まあ、そうなるかな。受験勉強しながら(まったくしてないけど)、バイトしてる感じ。
北大生
え?なんで浪人生が、アルバイトしてるの?
ねこた
え?お金ないから、、、かな。
北大生
いやいや、そんなに受験って甘くないっしょw
やばいよ、君w
ねこた
・・・・・・・

北大生はその後一切話しかけてくることはなかった。二日目バイトの給料をもらい、アルバイトを終えると挨拶することもなく、北大生はその場を後にした。詳細な会話は覚えていないが、あの軽蔑したような目線は、はっきりと覚えている。もちろん当時の私の心境を考えると北大生の言葉を過大にとらえてしまったのかもしれないが、自分の境遇が客観的に見てありえない姿なのだと、思い知らされたような気がして、どうしようもなく後ろめたい気持ちが全身を覆い尽くした。けれども一向に勉強をしようという気はせず、参考書を開くことすらなかった。加速したのは早く家を出て自由になりたいという逃げの心だけであり、私はがむしゃらに求人広告を見つけては応募し、落ち続けた。自分は自立することも、勉強し学生になることもできない。何もできない自分にいつの間にか絶望し、それでも明日考えればいいと思いながら、1日1日をひたすらにこすり続け、減らしていった。





私は家を燃やした。そして家を出た。




人間はなぜ朝、目覚めるのだろう。それは朝起きるべき理由があるからだ。朝起きる理由がない時、人間は眠り続ける。朝起きる必要なんてないのだ。だって、することがないから。

私はついにほとんどの時間をベットの上で過ごし、空腹の限界まで眠り続けるようになった。そうしてまだ雪の残る北海道の春は、いつの間にか夏になり、夜は少し肌寒い季節までもう間も無くとなった。もう受験勉強なんて話ではない。今までの時間に世の中の浪人生は基礎固めをし、毎日限界まで頭を酷使している。私の頭はもはやスポンジのごとくスカスカで、忍耐力も集中力もはたまた思考力も0に近い。同居している母親の視線は冷たく、夕食の間も一切の会話はなかった。そのうちに私が深夜に目覚めるようになると、夕飯の用意すらなくなった。そんな日々が続き、もう誰からも何も関心を抱かれていない状況にある意味、自由すら感じた。肉体的にも精神的にも経済的にも不自由なのだけれど、人に期待されていないことは、窮屈な自由であり、心地の良い不自由なのだ、と。私はスポンジのような頭と一日中ベットで寝ることで、筋肉は削げ落ち、干からびてしまった肉体を台所まで移動させ、深夜に一人で晩御飯を作るようになった。適当に冷蔵庫をあさり、冷凍食品を揚げたり、レンジで解凍する。ふらつきながら、目覚めたばかりの眠い目をこすり、夕飯を作る。その日も母がパートから帰ってくる前の夜10時過ぎに目覚め、一人フライドポテトを揚げていた。フライパンのすぐそばにはキッチンペーパーが乱雑に置かれている。マクドナルドにあるようなカリカリに揚げられた小麦色のポテトが食べたくなった私は、いつもより長時間油で揚げることにした。そもそも揚げ物をほとんどしない私は、どのくらいの温度で揚げるべきかなんてわからなかったし、どのくらいの時間あげればいいかなんて見当もつかなかった。油のたっぷり入ったフライパンからは煙が出始めていた。まあマクドナルドでも煙が出るくらい揚げているのを見たことあるし、もう少し揚げるぐらいがちょうどいいだろう。そんなことを思いながら、いや実際は何も考えてなかったかもしれない、もうほとんど寝ぼけていたのだ。私は少し目を離し、ポテトの入った袋を冷蔵庫に戻した。再びフライパンに向かおうとした瞬間、油がキッチンペーパーにはね飛んだ。それはほんの一瞬であった。キッチンペーパーについた油は一瞬にして火の玉になり、そのまま壁を伝い天井を火の海で覆った。キッチンは瞬く間に炎で覆われた。私はパニックになり、蛇口から水を救い、フライパンにかけた。その瞬間、炎は勢いを増して私の周りを囲み、台所全体がオレンジ色の炎に包まれた。その後はあまり覚えていない。とにかく必死だった。頭の中は混乱し続け、家が燃える、自分が死ぬ、そんな思考がいつ現実化してもおかしくない状況だった。5分後、天井は真っ黒になり、家の中は煙で真っ白になった。幸いなことに天井以外に目立った跡はなく、自分の体にも怪我はなかった。しかし、安心なんてまったくできなかった。私はとにかく、この状況をこれから帰宅する母親にどう説明するべきか、その心配で頭がいっぱいだった。ただでさえ、家に居づらい状況であるのに、ボヤ騒ぎまで起こしては、もはや自分に対する信用なんてあるわけがない。私は急いで換気扇を回し、家の窓という窓を全開にした。そうしてしばらく経ったあとに、母親が帰宅した。母親は台所の状況を見て絶句した。そして当然のごとく、狼狽している穀つぶしをひたすらに罵倒した。どう考えても私が全面的に悪いのだけれど、自分がついさっきまで死ぬかもしれなかった恐怖を説明しようにも一切聞き入れてくれない状況に、私はとても悲しく、寂しい気持ちになった。喉元がとても熱く、痛かった。どういった言葉をかけたのかは、あまり覚えていない。私は母に反抗し、そしてどうしようもなくなって、玄関扉を開け、母から逃げた。その夜は明け方まで家に帰ることはなかった。札幌へ向かう深夜の田舎道を歩き続け、明け方家に戻った。母は眠りについており、私はいつもどおり人々が1日を始める時間帯に、目を閉じた。



この後も様々な出来事があった。といっても濃度はとても薄い。普通の大学生活を送っていれば、この時期楽しいことやつらいこと、さまざまな経験が待っていたはずだ。そんな時に私は家を燃やしたり、母親に無為な苦労をかけたり、1日をただひたすらに眠り続け消費したのだ。特段書くべき経験などはしていない。私の人生経験は、とても薄い。ニートだった人間から教わるべきことなど何もないだろう。ニートの経験談などは、例外なく自慰行為にすぎない。私はこの後、父が帰ってくるという母の言葉を聞き、衝動的に家出をすることになる。この自分の状況を父に知られては、どうなることかわからない。結局のところ、私は様々な重荷から逃げ続けたのだ。一度逃げグセがついた人間は、決して逃れることのできない楔のように、死ぬまで逃げ続けることになる。バイトで貯めたわずかな貯蓄を使い果たし、東京で2週間過ごした後家に戻らざる得なくなった私は、ついに母親に向き合うことになる。




あんた、これからどうしたいの?
ねこた
大学に行きたい
勉強はしてるの?
ねこた
・・・・してない
そう。。。なんとなく気づいていたけど。じゃあどうするの?このまま家に居てもしないでしょ?
ねこた
東京に行きたい。東京で勉強する。
東京に行ったって、何も変わらないじゃない。そんなお金もないし、予備校に通うなら別だけど。
ねこた
東京にいい家庭教師がいるから、その人に連絡とって教えてもらうよ。お金はバイトして稼ぐから
バイトなんかする時間あるわけないじゃない。あなたは受験勉強をなめすぎよ。お金は出すから、とにかく予備校には通って。それと学生寮にはいりなさい。晩御飯でるところに行って、半年間しかないけど、受験に集中して。お金はなんとかするから。



今考えても、なんて甘い考えの持ち主なのだろう。母親に甘えに甘え続け、経済面で多額の出費をかけさせ、精神的にも多大な苦労をかけてしまった。私の家は都内の私立大学に通えるような裕福な家庭ではない。このころはまだ慶應大学に行こうなどとは毛頭も考えてはなかったが、慶應に通うような家庭からは最も遠い存在であった。結果論で言えば、子供のころから塾通いをし、私立中高に通っていたような慶應生よりはかなりコスパのいい金額で大学受験を成功させることにはなるのだが(私はほとんど参考書中心で勉強していたので、予備校に通った場合と比較しても、かなりの低額で慶應合格を勝ち取った。)、母親にかけた心労は比較できないほど大きなものであろうと思う。



こうして、私は東京で大学受験を始めることになった。






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