人生最後の日に笑ったおばあちゃんの話

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おばあちゃん
金持ちとか貧乏とか
じゃなくて、
幸せを決めるのは
〇〇だよ。



初めまして!

『常に心のワクワクを信じて行動し、人生最後の日に心から笑えるように生きること』を人生のテーマに生活している田中秀憲といいます。


いまから10年前、わたしは0歳〜15歳まで、大好きだったおばあちゃんと暮らしていました。


その時、おばあちゃんから教わったことがわたしの人生の指針となっています。今日はそんなおばあちゃんのお話をシェアさせていただきます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


朝起きるとおばあちゃんの白目が黄色になっていた。


10月9日の朝、当時中学3年生のわたしはいつものように学校へ行く準備をしていた。朝起きてまず朝食を食べ、歯磨き・洗顔、制服に着替えて家を出る。


これがいつもの流れ。でも、この日はいつもと違うことがあった。


わたし
おはよう!
わたし
んっ?
ばあちゃん、
目が黄色いよ!
おばあちゃん
うそ?
ほんとだ!
わたし
体も黄色くなってる!
病院に行った方がいいよ!
そうだね。
仕事行く前に病院につれていくよ。

その日、わたしはいつものように学校へ行き母はおばあちゃんを連れて行きつけの病院へ。この時は、「目と体が黄色くなってなんかいつもと違うな」としか思っていなかった。


実は、この数ヶ月前に異変があったのだ。


おばあちゃん
小便したらあわ立つか?
わたし
たたないよ。
おばあちゃん
そっかぁ。


何も考えずに答えた。いまになって考えるとこの時、もっとおばあちゃんのことを考えられたらと後悔している。

おばあちゃんは、この3年ほど前に腰痛狭窄症の手術・入院も経験していて、当時は血圧の薬を飲んでいた。

だから、病院に行けば治ると思っていた。


そして、4時間目が終わる頃に母が学校に。


わたし
どうだった?
総合病院で即入院になったから
鍵渡しとくね。
これから検査するって。
わたし
うん。


この日からわたしは、鍵っ子になった。学校から家に帰るといつも空いている玄関の鍵がしまっていて、いつも電気がついているリビングが暗い。

そして、いつもいたおばあちゃんが家にいない生活が始まる。


当たり前のように「おかえり」と言ってくれる人がいることがどれだけ恵まれていることか思い知った。


検査結果はガン


医者からの説明を母から簡単に聞いた。

あの日の朝、体と目が黄色くなっていたのは「黄疸(おうだん)」という症状らしい。胆管にガンができたことが原因。

だから、手術でガンを取らなければいけないと。


初めてお見舞いに行った時、落ち込んでいるかな。なんて声かけようかな。なんてことを考えているとおばあちゃんが口を開いた。


おばあちゃん
見て。
おばあちゃん
体にホースが繋がれて
サイボーグみたい。
わたし
すぐとれるよ!


とっさに答えた。こんな励ましの言葉しか出てこない。医者から「ガン」と聞いて泣いてた。ということを最近、母から聞いた。 

わたしは、おばあちゃんの涙を見た記憶がない。相当ショックだったはず。なぜなら周りのひとの多くがガンで亡くなっているのを見てきたから。


おばあちゃんにとって、ガン=死という恐怖があったと思う。そんな、気持ちだったのにも関わらず人の心配ばかりしていた。

 

全ての検査が終わり、手術日が決まった。


1度目の手術


手術の朝、病室へ行くとおばあちゃんは少し緊張していた。病室でストレッチャーに乗せられて、エレベーターに乗ってそのまま手術室へ。

手術室に入る直前におばあちゃんの手を握り声をかける。


わたし
頑張ってね!
頑張って!
おばあちゃん
うん。


ストレッチャーが動き出し、おばあちゃんは右手を上に上げピースサインで手術室に入っていった。


本当は、不安でしょうがなかったはずなのに少しでも心配をかけないように明るく振る舞った反面、自分を奮い立たせていたのかもしれない。

8時間に及ぶ大手術。

待っている間に売店でご飯を食べたり、テレビを見たり時間がもの凄く長く感じる。手術が終わると、酸素マスクをつけ麻酔でまだ眠っている状態。 

体の周りには、とにかくいろんな機械があった。そのまま、1人部屋の病室へ移動。

 そこから、順調に回復して邪魔だからと酸素マスクをおでこにのせて元気になった姿を見て安心した。 


お見舞いに来てくれるひとも「すごい元気になったね」「あと1ヶ月くらいで退院できるんじゃない」と手術後の回復ぶりをみて退院の話で盛り上がる。


このとき辛かったのは食事。消化器系のガンだったので食べ物も飲み物も口にすることができない。看護婦からは「歯磨きのときは水を絶対に飲まないようにしてください」と。

元気になってきてそんな状況が続くとまさに生き地獄。


おばあちゃん
腹減った〜!
おばあちゃん
喉乾いた〜!


ひとは食べたらダメと言われると余計に食べたくなる。わたしは大腸検査を経験していて、数日間の食事を我慢するのもやっとなのに何ヶ月も食べ物を食べれないほどキツイことはない。


だから、病院へ行く時は匂いのキツイ食べ物は避けて入念に歯磨きをする。

ご飯の話になるとどう答えていいのか少し戸惑った。


おばあちゃん
ご飯食べたか?
わたし
まだだよ!
おばあちゃん
夜ごはんはなに?
わたし
わからない。
おばあちゃん
食べられないぶんまで食べてくれ!
わたし
うん。


やっとジュースを飲めるまでに回復したのもつかの間、病院から電話が入った。


医者
腸に穴が空いたので、
緊急手術します。

あんなに元気になって、目の前で久しぶりに口にしたジュースを美味しそうに飲んでいたのにいきなりに穴が空いたと。

全く意味がわからなかった。わたしと母は、とにかく病院へ急いだ。



2度目の手術


無事に手術が終わり病室へ戻ると徐々にすくなくなっていった体に繋がれていた管がかなり増えていた。

ベットの周りに置かれている機械も増えて、常に機械の音が聞こえてくる。

それでも、徐々に回復して今度こそおばあちゃんは元気になって家に帰れると信じていた。おばあちゃんもそれを願っていた。


おばあちゃん
家に帰りたい。
わたし
すぐ帰れるよ!


容体急変


母がお見舞いに行った時、明らかにおばあちゃんの様子がおかしいことに気づいた。すぐにナースコールを鳴らし、看護婦を呼ぶとそのまICU(集中治療室)へ。

ICUとは、術後間もない患者さんや容体が危ない患者さんが入る特別な病室のこと。

原因は、出血性ショック。


以前のように病室へ行けずおばあちゃんの顔を見れなくなった。ICUには、入れる人数が決められていて母と母の妹がお見舞いに行く。

わたしは、母の携帯に音声を録音しておばあちゃんの耳元で聞かせてもらっていた。


わたし
どうだった?
声聞かせたら、目開けたよ!

それから、何度か録音して持って行ってもらってを繰り返えした。


夕方4時頃、家の電話が鳴った。


わたし
もしもし、
もしもし、お母さんだけど
病院から
『すぐに病院に来てください』
って連絡きたからまっすぐ病院向かうね!
これから、家におばさん迎えに
来るからすぐ出る準備して!
わたし
わかった。
じゃあ、病院でね!

電話の声で詳しく聞かなくても時間がないことが伝わってきた。母は仕事からまっすぐ、わたしは母の妹の車に乗せてもらって病院へ向かった。 


その日、久しぶりにおばあちゃんの顔を見ることができた。

ICUに入るには、3つの扉を通らないといけない。まず、エプロンをして消毒をして靴にカバーをかけて風で消毒をして次の扉へ。足でセンサーに触れ、扉を開けてさらに消毒。

最後の扉の前でまた消毒をしてやっと病室へ入れる。


扉が開いた瞬間、普通の病室とは違うということを一瞬でわかった。人の声は聞こえず、機械の音だけが聞こえる異質な空間。

久しぶりにおばあちゃんに会うと、今まで見たことのない数の機械がベットの周りにあった。


顔は土色になっていて、口には人工呼吸器がついていて喋りたくても、食べたくても、動きたくても何もできない状態。


今まで、わたしはガンで亡くなったひとの直前にお見舞いに行ったことがある。その時はもの凄い恐怖を感じたが、なぜか土色になったおばあちゃんの顔を見ても全く恐怖を感じなかった。

むしろ、久しぶりに顔を見て声をかけて不思議と嬉しさすら感じた。


しばらくその場に居たかったけど面会の時間は決まっていて、あっという間に外に出る時間。 その日は、緊急時に備えて病院の宿泊施設に泊まった。


医者からは伝えられていた。


医者
今日、明日が山場です。

こんな状況でも、まだ死について考えていない自分がいた。いや、受け入れることができなかったのかもしれない。


朝6時頃、病院からの電話


医者
すぐに、
病院に来てください。

まだ、2月上旬の朝で道路には雪があり足元が滑るなか母の荷物を持って走って病院へ向かった。


昨日の手順でICUに入り、ばあちゃんの病室へ。おばあちゃんの顔は昨日より、さらに顔が土色になっていた。

病室に入って顔を見たとき、目を開けるのがやっとの状態のおばあちゃんが明らかにこっちを見て笑った。

この時のことは今でも鮮明に覚えている。


間違いなく笑った。


久しぶりのおばあちゃんの笑顔に嬉しくなった。それから、1人ずつおばあちゃんの耳元で声をかける。


病室へ着いて2時間ほどたった時、今まで200近くあった心拍数が一気に100まで下がる。

68歳の体で心拍数200は、異常な数値。おばあちゃんの体は脈打つたびに動き、ものすごい熱を持っていた。10代や20代でも、どんなに追い込んで走り込んでも心拍数200はいかない。

そこからは早かった。


100から80、60やっと普通の心拍数に戻った。でも、それは死が近づいて来ているということ。


40、30、20、、、








ピーーー


心拍数を示す機械が0を示すと同時に、ピーという音が病室に響き渡る。


しかし、機械音が止まり0から30。おばあちゃんは、もう1度呼吸を始めた。

最後に大きく息をすって、おばあちゃんは亡くなった。68歳、当時の日本の平均寿命より18年も短く生涯を終えた。


病気のおばあちゃんを救えない医者。それよりも、何もできなかった自分に腹が立たった。情けなかった。悔しかった。泣くしかできなかった。


生涯雇われず生き抜いたおばあちゃん


おばあちゃんは、1度も会社勤めをしなかった。お金をたくさん稼ぐことはできなかったが、生き抜くための最低限はなんとかしていた。

幼少時代に戦争を経験して高度経済成長の時代に雇われず生き抜いたおばあちゃんの人生は物凄くかっこいい。


カレンダーの横に書いていた日記はカタカタ。

固定電話を使うのがやっと。

嘘が嫌いで、勝負ごとは全力。

よく笑う、1本筋の通った優しい人。


そんなおばあちゃんがよく言っていたこと。

おばあちゃん
お金がたくさんあっても
幸せではないんだよ。
わたし
どういうこと?
わたし
お金があれば、美味しい
ご飯も旅行も行けるよ。
欲しいものも買えるよ。
おばあちゃん
そうだね。
おばあちゃん
でも、お金があっても
1人だと
楽しくないんだよ。
おばあちゃん
お金があっても幸せではない人
お金がないから幸せではない人
お金があるから幸せな人
お金がなくても幸せな人
おばあちゃん
金持ちとか貧乏とか
じゃなくて、
幸せを決めるのは
自分の心だよ。

幸せを決めるのは常に自分の心であって、お金やものではないよ。


おばあちゃんを思い出すと笑っている姿が最初に思い浮かぶ。決して裕福ではなかったけれど、よく笑っていた。

わたしは、おばあちゃんを旅行に連れて行くことも、ご飯をおごってあげることも、一緒にドライブに行くこともできなかった。


もし、おじいちゃんやおばあちゃん、両親が元気なひとはいますぐに、いま出来ることをしたらいいと思う。


人生は、平均して30,000日ほどしかない。


そのうち元気でいられるのはもっと少ないかもしれない。

さらに、18〜65歳までの47年間。1日8時間働動。これだけで、単純に計算して10年以上の時間を仕事に費やしている。ひとによってはもっと多くの時間になるはず。


この10年以上の時間が我慢の時間だとしたら辛すぎる時間を犠牲にして生活するのはもったいない。

仕事も休日もあなたの好きなことで埋め尽くせば、人生がより楽しくなるはず。



だからこそ、人生はあなたの好きなこと、やりたいことのみを選択するべき。


やりたいことを選択した結果



わたしはいま、時間がゆっくり流れているタイのカフェでこの記事を書いている。

会社員を辞めMac bookとiphoneを持ち歩き。まだまだ、理想としている状態は遠いけど1歩1歩積み重ねていくつもりだ。


『常に心のワクワクを信じて行動し、人生最後の日に心から笑えるように生きること』これができれば、大満足。


1日の始まりに思うこと



おばあちゃんが病気になる前にこんな会話をしたことが印象に残っている。


わたし
朝起きて最初に
なんて思う?
おばあちゃん
今日も生きてるって思うよ。
おばあちゃん
寝たまま死んじゃうかも
しれないじゃん。

おばあちゃんは、1日始まりに生きてることに感謝していた。だからこそ、人生最後の日でも笑えたのだと思う。


*       *        *

幸福は人の地位とか財産には関係がない。 

まったく自分の考え方一つで、人は幸福にも不幸にもなる。だから毎朝自分にとってありがたいもののことを考えて、一日を始めることだ。

人の未来は自分が今日考えていることに非常に大きく左右される。だから希望と自信、愛と成功のことばかり考えるのだ。

引用 デール・カーネギー名言集

*   *     *


おばあちゃんのように人生最後の日に心から笑えるように人生を歩んでいきたい。


おばあちゃんが亡くなってから、存在の大きさを痛感した。人は必ず誰かに支えられて生きている。

おばあちゃんのような優しい大人になれるように日々、努力をして歳を重ねていきたいと思う。



わたしの人生の指針となっているおばあちゃんの話でした。このストーリーがきっかけであなたも幸せになれますように。


おばあちゃん
金持ちとか貧乏とか
じゃなくて、
幸せを決めるのは
自分の心だよ。

もし、明日が人生最後の日でもあなたは心から笑えますか?



最後まで読んでいただきありがとうございました!


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


田中秀憲が人生のテーマに掲げているのはこの5つです。


1、常に心のワクワクを信じて行動し、人生最後の日に心から笑えるように生きること。


2、組織や他人に磁場られず、時間=対価の概念を打ち壊すこと。


3、どんな時も感謝を忘れず、愛情を持って人と接すること。


4、自由に笑ってご飯を食べ、世界中に本気で遊べる仲間がいること。


5、家族や友人、大切な人をすぐに助けることができる時間と経済力を持つこと。


これを実現・継続できるように努力しています。


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