人生の無駄遣いをしなくなった日。私の3・11をふりかえる。6年目の帰村。

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 3・11.今頃ですが、気持ちにも整理がついたので書きたいと思います。


 私は福島県飯舘村出身です。18歳まで村で過ごしました。

村に戻る回数も少なく、震災当初に至っては実家の名前を出すのも躊躇していたのは、ここが私のふるさとだと、いう資格がないんじゃないか、と不安で書けませんでした。


 だけど、先月四月に帰村が決定し、仮設ではない実家へ戻って、村のことも書いてみようと思いました。



 20歳からは都内で働いており、学生時代も友人は社交的ないとこや実の妹にくらべると数えるほどで、村に思い入れのあるニュースなどに出ている村長さんや酪農家の長谷川さんのようなものがあったわけではありませんが、それでも実家に戻れないと知った時のショックは、自分が地元を大切に思っていたのかなとも思っています。


 震災のあの日、私は二軒の歯医者で週四と週二のメインとサブの歯医者があり、よりによってサブの歯医者はその時住んでいた浦安市から遠い、駒澤大学前の歯医者でした。









 午後の診療が始まって、40代のサラリーマンの下の奥歯の虫歯を削って、型どり、といういつもの流れで、私はまさかそのままその日は歯医者の患者さんの治療椅子を倒してアウトドアが趣味の院長の寝袋を借りて一泊するはめになるとは、思っていません。





 小さな揺れが続いて、大きな揺れが襲ってきたときに

院長が外にでようっ、と私と患者さんを連れ出しました。診療室は棚が多くて、ケガをするとでも思ったのかもしれません。


 外にでると、伊藤園の立て看板が振り子のように揺れて、ゴジラが歩いてきているような振動で、このまま自分はここで死んでいくのか・・・と一瞬死も予感しました。


 一度収まって中に戻ると、院長は患者さんの削った歯に仮の詰め物をして、揺れが落ち着くまで一緒に待ちました。実家に電話をと思いましたが回線がつながらず、テレビをみて、院長が


「中村、福島、原発が爆発している。おまえの実家福島じゃなかったっけ?」



 そしてNHK

津波の映像が流れて、私は血の気のひいたまま、南相馬市、高校時代をすごした場所の信じられない光景を見てしまうのです。


  なに が 起きて い る のかわからない・・・。



「茨城に津波・・・。俺の趣味の釣り船、もう流されたかな・・・。これはやばいな。」


 院長の釣り船には申し訳ないけど、私は震えがとまらず。


 その異変に気付いて、院長は患者さんはもうキャンセルにして、家に帰るようにといいかけて

「待てよ。電車、止まっているな。中村、ここに泊まれ。俺は車があるし、家も車ですぐだから。明日までここでじっとしておけ。」


 そう言って、アウトドア用の寝袋、カップ麺などを渡して、院長も自宅へ戻りました。



歯科助手さんも自宅が近いようで、旦那さんが迎えにきて帰っていきました。


 当時私は彼氏もいない時期で、このまま都内にいても仕方ないのかなと、妹とアパートをシェアして住んで二年経過したときでした。


 そう、妹も永年務めた辻調理専門学校の講師をやめて、あこがれのディズニーでバイトを始めて二年経過した妹と暮らしていました。


・・・妹!!


ディズニーにいるなら、そっちのほうが安全か。私はメールを送って、歯医者に泊まるので、妹も職場にいるようにメールすると、わかった、気をつけて。の返信が来ていました。






そこで、私は家族は無事なのか、わからないまま、歯医者に寝泊まりすることに。



 心配した衛生士学校の同期から深夜に電話がはいって、 少し気がまぎれました。



 よりによって・・明日家に戻れないとメインの歯医者を休む羽目になるし、いくら妹と同居といえ、妹の給料はバイトで少なかったので、私の給料が減るときわどいことになると、そんなくだらないことで頭がいっぱいにもなりました。


  正社員で働いていた時期もあったのですが、働いてきた過去の歯医者は勤務時間の長い歯医者が多く、パートで二軒かけもちにすればなんとかなると思ってましたが、正社員の一軒の歯医者を勤務するより疲労が増えていて効率の悪いときの震災でした。


 ここで、私も妹も「正社員」のありがたさを認識するのです。








翌日、なんとかして浦安市に戻ると、舞浜、新浦安が震災でライフラインが整わない状況で、スーパーなどにも食料品がなく、途方にくれていると、衛生士の友人がうちに来たら?と

金町のマンションに呼んでくれて2-3日お世話になりました。


 妹は金町から職場に行くのは遠いから、と浦安市に戻りたがるので、お礼を言って3日目には浦安市に戻り、私も妹も仕事を開始。


 私がメインで働いていたのは、葛西にある歯医者だったので、湾岸に津波がこないか怖かったのですが、貧乏暇なし。正社員じゃない私たちは働かないとお給料はないので、仕事をしました。


 金町から浦安市に戻るときに、やっと実家と連絡がつき、みんな無事だとわかってほっとしました。


 高校時代の友人にも連絡すると、本人と家族たちは無事だけど、親戚が半分くらい亡くなったとのことを告げられ、絶句しました。


 誰が、こんなことになるなんて思っていたでしょうか。


 私は地元に思い入れがあったのか、自覚はないです。実家にも一年に二回しか戻らないような子でした。


 私の実家は津波の被害はなかったけど、目に見えない放射能という被害で一時的に住めなくなりました。


 幼稚園時代、家の前を小川が通り、田園風景が広がり、夏にはカエルの鳴き声と、夕方には蜩の鳴く声がして。








 山々に囲まれていて、春や夏は青々とした山、秋には紅葉でオレンジと紅に染まる。

美しい村にも選ばれている地元。専門学校時代は村人ーって笑われたこともあるけど、それでも生まれ育った村を嫌いになったり恥ずかしいと思うことはなかった。


 スーパーも車じゃないといけないし、バスは一時間に一本で不便だけど。


 イライラして過ごすことは、なかった。何もなかったけど、友人宅へ行く、いとこの家にいく、山や川で遊ぶ以外に楽しみはテレビしかないような退屈なところでもあったけど、イライラして時間に追われて過ごした記憶は、ない。


 なのに、私は、仕事を都内に決めた。

便利に憧れ、実家はたまに帰る場所でいいと思い、衛生士新人の頃はアルコールが弱いのに衛生士の先輩と飲み歩き、休日は遊び倒し、ボーナスで親孝行していたのも最初だけで、自分の家賃の更新料や年金を払うので生活に追われる日々。


 なにしてんだろう、私。


このままじゃ知らないうちに全部無くしてしまう。




 あの日、私は生きている日々の時間を無駄づかいしないことに決めた。









 失ったものは返ってこない。自分の力じゃどうしようもない。


 喧嘩していた小学校時代からの友人に謝罪した。

 私の嫉妬から意地悪して疎遠になっていたいとこにも謝罪し、態度を改めた。


 仕事に対する認識も変わった。


 もう、何も失いたくない・・・。きっと日本中のみんなが一致団結した瞬間だった。


あれから6年。震災の記憶が薄れてきている人もいる。失った人は、いまだリアルに感じていることも、私は実家があったから失ったものもあるけど、都内にいて仕事していて、自分への実害は食料調達が大変だったことくらいなので、記憶が薄れていくのも体感している。


友人作りも積極的じゃなくて、非積極的な人間だったけど、私の性格まで変えてしまうくらい衝撃的な出来事だった。


 震災から6年。


私はあの日を忘れない。






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Nakamura ichika

歯科衛生士であり、ママでもあります。育児をしながら感じたことや、自分の経験談などを簡潔に載せています。読んでもらえたら嬉しいです。読んで良かった!をもらえると喜びます。

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