2014年9月 帰省 そして対峙すべき者

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「病院が終わったら電話する」と夫に言った妹から連絡がこないので、私達は再び仮設住宅に戻った。


玄関の鍵は開いていたが妹の姿はなかった。

「3人でご飯でも食べようって言ったんだけど、もう約束忘れてたりして。」

「それ、あるかも。メールだってしたかと思えばすぐ音信不通になるし。『地元なんか二度と帰らない』って言ってたのに、ここで親と一緒に暮らしてるし。全然予測がつかないもん。」

とりあえず家の中で少し待ってみることにした。誰もいなくてもこの空間に存在すること自体がとても不快だった。

30分以上待って諦めかけた時に、妹が母親と帰って来た。


母親も来たと知った瞬間、自分の顔が強張り全身が硬直していくのをありありと実感した。


コンビニで4人分の同じ弁当を買って来たらしい。私の嫌いな揚げ物だった。付け合わせのサラダなどもなく

「いつもこんな不健康な生活をしてるのか?」と一瞬、彼らの健康が気になった自分に嫌気が差した。

私→妹→母親→夫という並びで大嫌いな揚げ物の弁当を食べた。




妹が「しゃべりがだ、悪ぐなっだね」と言った。

聞こえなくなって13年、発音が不明瞭になるのも当然だ。

「親もこごろのながでは、悪がっだなぁで気持ちは持っでるんだよ。んでも、おどごって言うのは謝りだぐでも謝れないんだぞ」

男?父親のこと?母親だってずっと虐待してきたのに、どっちも1度たりとも謝ったことがないだろ。

「何でうぢはほがのうぢみだいに帰っで来ねぇんだべって言うがら、うぢはおやごのこごろが通じでねぇんだがらって、せづめいしてんだぞ。」

本気でそう思ってるのか?悪かったと思う気持ちが本当にあれば、そんなの簡単に察しがつくだろ。

信じられない。悪いと思ってるなら、言えよ!伝えろよ!

(※20代の時に両親がしたことは虐待だとFAXを送ったことがある。)

「わがげのいだりっでいうがさ、親もほら、むがしはわががっだわげ。で、そういうあやまぢをおがしでしまっだんだよ。」

妹は私と親の間に立つと言うよりは、親を全面的に庇っているようだった。


その時に思い出したのは…

・大学病院の耳鼻科で無料で遺伝子検査をしてくれると言ったのに両親も妹も協力してくれなかったこと。

担当医に「どうして両親も妹も検査に協力してくれないのですか?」と聞かれたこと。当時は虐待のことを話せなくて、とても辛い思いをしたこと。


・小さい時から私だけ家に閉じ込められて、いつも3人で出かけていたこと。


・学生になってから帰省すると

「そんな金があるならその交通費を家に振り込め。お前が帰る場所なんかここにはない!」などと3人から罵声を浴びせられたこと。1泊の時はまだ何とか距離感を保てるが、2泊3泊しようとすると必ず虐待をされていた時と同じ状況に陥ること。


・1度夫が一人で実家に行った時に3人とも私の悪口ばかり言っていたこと。

帰ってきた夫が

「お前ん家、みんなずっとお前の悪口ばっかり言ってたぞ。」と驚いていて、とても腹立たしかったこと。

その少し後に妹から「ごめん。悪口、言い過ぎた」とメールが来たこと。



「今も3人だから幸せに家族やってるんじゃないの?」と過去の記憶を思い出しつつ考えていた。

「だっでぇ帰るどしだら、こごしがねぇべ。この家しがないべ。」と妹が言った。

私には帰るという発想がない。仮に今後夫と別れることがあったとしても、この県にましてやこの土地に、親の元になどという選択肢は一切存在しない。


私と妹はやっぱり違う。そう、違うのだ。


妹が席を立った時、母親が妹の鑑定結果を見に来た。片足をひきずっており明らかに生命エネルギーとして、ばあちゃんよりも劣っている。

妹やばあちゃんが言う「相変わらずダメだ」の「相変わらず」とは、

「相変わらず死にたい」のか「相変わらず生きることに対して悲観的」なのか知らないが、

どちらにしてもそんな「相変わらず」のままで人生を終えるとしたら、この人は何のためにこの世に生を受けたのだろう?

しかしその死にたがりな性格のおかげで大好きな母親と夫と下の娘が側にいてくれるのなら、それが本人にとっての幸せなのかも知れない。私の常識では全く理解できないけれど。


「心理学を勉強している報告に来た」と言ってみた。


わたしの表情にも声にも抑えきれない怒りがこもっていたかも知れない。

母親の顔には不幸そうな表情が張り付いているように見えた。自分の心の偏りに気づいていない人特有の、自分で自分を苦しめている人特有の表情だ。


もし妹がいなかったら本人が泣いて嫌がっても私は辛辣なセッションをしようと思っていた。「そうしないと本人の中に気づきは芽生えないだろう」と。しかし、それが正しいのかどうかは分からない。


迷った揚句、本人に聞いてみた。

「鑑定結果あるけど見たい?」

母親は無言でうなずいた。私は母親と父親の数秘術鑑定結果を手渡した。




手と手が、指と指が間違って触れないように細心の注意を払って…




その後、妹が戻ってきて妹と話している時、母親は鑑定結果を繰り返し読んでいるようだった。

2人に対しプラスの感情を込めておらず、どちらの結果も無機質なものになっている。

この人は昔から本を読む人だった。もしかしたら心理学の本を読ませることで考え方が変わるかも知れないと思うのだが、妹はそれについて怒るだろうか?無駄だと言って呆れるだろうか?


子供の時に撮った写真のアルバムを持って帰って欲しいと言われた。断ったが「仮設住宅は狭くて邪魔だから」と言っていた。

「見だくねがっだら捨でればいいべ。どうせ親なんでさぎに死ぬんだがらな。」と妹が言った。

アルバムが5冊もあった。

「さぎに生まれだ方は大事にされだんだぞ。俺のアルバムなんで1さづじがねぇぞ」と、また妹が言った。

夫もその冊数に驚いて「確かに多過ぎだ」と言っていた。


身軽になって帰るはずだったのに、心にどんよりとした重さを引きずったまま千葉に戻ることになった。


母親が車のところまで来て私に1万円を渡そうとした。私と夫は同時に「要らない!」と何度も言った。

「いいの。…くんは黙って!これは母親から娘へ渡すのだから」と、母親にしては強い口調ではっきりとした意思表示だった。

「お前、自分のこと母親だと思ってんのかよ?」と突っ込みたかったし、

「お前の娘だとは思ってねぇよ!」と言ってやりたかった。

(何の為の帰省なのか自分にも突っ込み所です。)


仮設住宅に住む貧乏人から1万もらうなんてテンションがガタ落ちだった。


子供の時にボロ屋敷に住んでいて家賃1万五千円。後に3万円が支払えなくて、給料日の違う知り合いと毎月のように1万を貸し借りしたり、お年玉も全部没収されたりした貧乏な記憶がすぐに甦ってきた。

貧乏にとって1万円は大金なのだ。この1万は渾身の慰謝料のつもりか?

仕方なく悲壮感の漂う1万円を受け取った。悔しすぎてその場で破り捨てたくなった。


宿泊先を決めていなかったので、父親には会わずに仮設住宅を後にした。

父親も同じ被虐待者と仮定すると、そこには受け入れることしか選択肢が残っていないような気がする。

親子関係の破綻や兄弟間の音信不通など父親とはこれらの面で生き様が酷似している。もうそう言う意味でお手上げなのだ。



この時に手渡されたアルバムが後に写真家長谷川美祈さんの取材・撮影時に役立つことになります。今年11月の児童虐待可視化プロジェクトの写真展で実際に皆様にご覧になって頂ける機会となりました。このようなチャンスに恵まれたことはとても感慨深いものがあります。


※2017年5月12(金)現在の状況です。

長谷川美祈さんのInternal Notebookが5月28日までモスクワにて作品展示されております。

今後も世界各国の主要都市で次々と作品が展示されていくことになります。







































































































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小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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