2014年9月 帰省 果たして許すとは何か?

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千葉に戻って来てからもずば抜けて気分が優れるとか、明らかに自分が変容したと感じることはなかった。一部の知人からは「よく頑張ったね」とか「今までとは別人になってるよね」と言われても自分の中では全く腑に落ちていなかった。むしろ過去の記憶を回想しているようだった。そしてこんな中途半端さがとても情けなかった。

「今回、私は何を得たのか?」不完全燃焼感が拭いきれない。

補聴器ファッションショーの時に着たワンピースを妹が欲しいと言っていたので、帰宅翌日に他にも妹が好きそうな物や少し買い足した物を詰めて荷物を送ったのだが…

荷物送付日に、届く日と指定した時間をメールをしても妹から返信は無かった。

〇〇被害のことがやはり気がかりで「頼りないかも知れないけど何かあったら教えて」とメールしても返信無し。

荷物が無事に届いたと言う連絡は、郵便局からしか来なかった。全ていつも通りだ。

荷物の中に本を詰めようとも思ったのだが、「それを見て妹はどう思うのだろう?」と考えると、とても怖くてできなかった。


アルバムも車に積みっ放しだった。そのままゴミに捨てようと思っていたが、

夫が「見てからにしろ」と言っていた。結局、気持ちは晴れたり楽になったとは言い難いのが現実だった。

「本当は自分を許して自分にGOサインを出せば良いだけで、例え親や妹であろうと、そのままの状態を認めれば良い」と言うことは、頭では分かっているつもりなのだが気分的にどんよりとしていた。

「許す」とは、人それぞれの選択であり形である。許す形も本人の成長段階において変化して行くのではなかろうか?

選択肢は多くあった方がいい。慰謝料を請求することで解決を図りたい人にはその制度が向いているだろうし、除籍や接近拒否をして自分の身の安全を確保してから見えてくる景色もあると思う。


私は本当に空を飛べたのか?ミッツさんのように華麗なる成長を遂げたのか?非常に疑問が残るところだが、これも全部ネタとしてこれからも生きて行こう。

(※この時「親を受け容れるために地元に帰省しよう」と決めたきっかけは、テレビでミッツ・マングローブさんのアナザースカイを見たからでした。)


9月下旬になっても仮設住宅から持ち帰ったアルバムをそのまま車に積んでいた。

とある土曜日、購入5か月の車がエンストして部品交換のため1週間業者に預けることになった。

「車に積んだまま放置しているアルバムの負のエネルギーのせいかも知れない」と二人で話し合った。

車が戻って来た日に自宅へアルバムを搬入したのだが…私が右手の人差し指を深く火傷した。

「これも負のエネルギーの仕業かも知れない」(笑)


夫は「1冊2000円位で業者がDVDにまとめてくれるサービスがある」と前々から言っていた。

「でも5冊だと1万になるじゃん。そんなことに1万円も使いたくないし。そもそもそんなの作っても見ない。だって虐待ギャラリーじゃん!」


「虐待ギャラリー!」



後日「ただ捨てるのは逃げだ」と思っていたので同じ袋に入っていた1冊目と5冊目のアルバムを見た。1冊目には命名した時の用紙やら成長記録が記載されているものも挟まれていた。開いた瞬間に怒りや悲しみや苦しみの入り混じった感情が沸き起こり、涙が止めどなく溢れてきて頭痛がした。

「写真って狡いな。日常のほんの一瞬だけを切り取って。しかもレンズに向かって笑わせたりして、その瞬間さえも差異的。


「1枚くらい虐待の証拠写真があったらいいのに。まるで普通の家庭の子供みたいだ。」


ばあちゃんも母親も父親もみんな若かった。両親は20代で今の私よりもずっと若い。

母親は後に全ての定義の虐待と恐ろしい精神的支配を仕向けてくる。今、客観的に振り返ってもよく耐え生き抜いて来たと自分でも思う。

20代から50代を過ぎてもずっと「死にたい」と言い続け60歳を超えても生きているの現実を見ると、今後も彼女は死なないだろう。

そしてその「死にたい」の裏側にある「生に対する執着心」の強さは悍ましいものがある。



この「ねぶた」の暖簾の前で父親に包丁を突き付けられ

「お前は殺す価値もない。自分で死ね!早く死ね!」と言われたことがあった。一瞬でも気を抜いたら間違いなく明らかに刺されていたはずだ。殺傷事件すれすれの出来事だった。

妹が生まれる前から虐待を受けいていたと言うことは、妹が存在する写真では既に虐待を受けてることになる。「写真からその真実が伝わるだろうか?」

私は何度も何度も写真を見て検証し、自問自答を繰り返した。



とても信じられないと思うが私が高校生の時、近所の方がうちの親にベビーシッターを頼んで3年程預かった赤ちゃんがいた。その子が来てくれる日だけはとても穏やかで幸せな気分だったの覚えている。

預けた方がなぜ家を選んだのか?「お宅なら安心して預けられる」と判断されたからなのだ。

うちの親は外面がとても良かった。いかに虐待が表面化するのが難しいのか、このエピソードが物語っていると思う。

参考までに家の距離は道路を挟んで4・5軒程離れていた(実際には施設のような建物もある)


うちの場合は現代的な密室ではなく、基本的に玄関に鍵をかけない家だった。人の出入りもあり学校から帰宅すると親がいなくても近所のおばちゃんが勝手に家に上がってお茶を飲んでいたりなどが普通にある環境だった。世間一般論的な閉塞的な虐待のイメージや条件とかけ離れている面がある。

しかし貧乏=経済的困窮と言う点においては、まさにその通りだった。

大人になってから妹に聞いた話では隣の家には虐待されている時の悲鳴や叫び声や罵声は聞こえていたらしい。しかし「躾が厳しい家」程度の認識だったようなのだ。


私にとって愛情とはなにか?アルバムを見終えた直後の感想を述べておこう。

「愛情=愛憎」「愛は憎しみと表裏一体として存在するものである。」少なくとも両親に関してはそうである。

ばあちゃんに対しては「愛情=感謝」私はばあちゃんがいてくれなかったら、今こうしてこの世に存在していないと思う。


私の人生経験が少しでも児童虐待に対する問題提起や社会的関心の高まりの1つのきっかけとなれば幸いに思っている。当事者としてこんな風にしか自分の人生を社会還元できないのだが。




自ら命を絶ったMちゃんが愛した彼岸花の美しい季節に。

世界の全ての生命と自分自身に愛を込めて。








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小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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