2015年12月 ばあちゃんの入院

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2015年は10月に帰省した


今回初めてばあちゃんの死のイメージが自分の中に入って来た。

今までは「絶対先に死んで、ばあちゃんのことをじいちゃんと一緒に迎えに来る!」とずっと思っていた。

私が小さい時から狭心症のばあちゃんに

「10年でもの20年でもいいから私の寿命を分けて下さい」とお願いしてきたから大丈夫だと思っていた。

「ばあちゃんとはずっと永遠に一緒にいられる」と思っていたので、初めてイメージが入って来た時は、とても苦しくて混乱した。

じいちゃんのお墓詣りをしてからばあちゃんの家に行ったら、病気で10キロも痩せたそうだ。

ショックで抱きしめられなかった自分がとても情けない。自分の器の小ささを実感した。今は元気になって毎日どこかしらに遊びに出かけているらしい。

健康長寿の意味を持つブレスレットを購入して行ったのだが、ばあちゃんの腕にはキツくて、自分のブレスをその場で壊してビーズを置いて来た。

ちょうどばあちゃん家に行く前に天神山の神社で私のブレスを清めてから行ったのだ。それにこのブレスは普段から神田明神で清めている。きっとこの水晶なら、ばあちゃんのことをこれからも守ってくれるに違いない。



妹がブレスレットを作れるそうなので、妹にばあちゃんのブレスをお願いした。テグスはそんなにお金はかからないが

「お金が必要なら払うし、やりたくなかったら持ち帰ってお店の人にお願いするけどどうする?」と確認した。

「直す」と言った妹の言葉を信じてお願いした。


母親とも状況的に話をした「今は大分楽に生きれるようになった」と言っていた。

少なくとも自殺願望を抱えているようには見えなかった。

妹がボソッと両親に対する本音をぼやいた。

「こんなこど(震災)でもながったら、ずっとまどもな家さ住めながったべな。」

つまり「貧乏でボロい家から復興住宅と言うまともな家に住めるようになるよね」と言う意味だ。

(※来年、復興住宅に住む予定らしい。)

それを分かっている上で妹は親と一緒に住むようだ。言い方を変えれば断ち切ることのできない共依存の関係に抗えないでいる。これに関しては何度も考察したことだった。


私があの家を出た後で父親の暴力の矛先が妹に向いたのに妹も母親も「警察に電話をする」と言いつつも実行に移さなかった。妹は高校を出た後で自分の意志であの家を出ることができたはずだ。

(※一時期は他の県に住んでいたこともある)それをせずに親と同居していることについて、PTSD時の担当セラピストに話したことがある。

「妹さんはまだ親から愛情と言う名のミルクをもらえると無意識に思っているのですね。」と言われた。無意識の支配と服従。目には見えない強固な鎖。両親と妹は今も互いを不自由にし合っている。


一時期はそれに危機感を抱き、何とか両親から妹を救うことはできないかと色々思案した。

本家の叔母さんに「妹がまた虐待されるかも知れないので妹のことを守ってください」とお願いしたこともあった。

しかし私の懸念は届かなかった。

私よりも先に自分たちが両親に虐待を受けたと気づいた時の妹は、一体どこに消えてしまったのだろうか?


私は親と同居なんてできない。肉体的にも精神的にも死と直面するような環境に再び身を置くなんて、考えられない。きっとできないと思う方が健全なのだ。




2015年11月 2週間、毎晩同じ夢を見る



ばあちゃん家の茶の間に集まって、ばあちゃんと母親と妹と4人で話をしている夢を毎晩見るようになった。争うことなく普通に会話をしているので気にしないようにしていた。

しかし2週間も同じ夢を見るのは初めてだった。

そしてこの夢を見ている時期にどうしても「ばあちゃん家に帰りたい!帰らなければ!」と言う理屈を越えた焦燥感をずっと感じていた。そしてこの想いは日に日に大きくなって行った。

毎日ふとした瞬間に「大船渡に帰りたい」「もう千葉県には居られない」そんな思いに駆られるのだった。自分では全く意味が分からず理解できなかった。



ある日近所のスーパー前の横断歩道を渡ろうとした時、1台の車が青信号なのに横断歩道に突っ込みそうになった。私を含めた歩行者数人と、もう少しで接触しそうになった。

その瞬間「死ぬかもしれない」と心の底から恐怖を抱いた。


「2週間ばあちゃん家に居る夢を見続けたこと」

「大船渡に帰りたくて仕方ないこと」

「死にそうになる経験」…


理屈では説明できないのだが、「ばあちゃん家に帰りたい!」と切実に思った。










2015年12月12日 ばあちゃん入院7日目に帰省



12月にわざわざ寒い地元に帰るなんてどうかしている。それも夢とか感覚とか曖昧な理由で帰るのだ。本当にこれで良いだろうか?考えていることに自信がない。

「何もなかったら夕方に千葉に帰って来ればいいや」そう自分に言い聞かせた。それでもまだこの選択が正しいのか分からない。

「明日、朝4時に起きれたら帰省しよう」と自分に賭けをした。

ほとんど眠れず0時…1時…2時…3時…何度も何度も目覚ましを確認した。3時半には起きて始発に乗る準備をした。

12月の早朝を最寄り駅まで自転車を走らせた。

寒さよりも「やっと帰れる!」そんな気分の高揚感で夢中になり、暗がりの中ペダルを漕いだ。

盛駅に着いたのはお昼近くだった。寒過ぎてサンリアでラーメンを食べて温まってから行こうとしたらラーメンコーナーがなくなっていて、近くのガス屋さんで大判焼きを買って食べながらばあちゃん家に歩いて行った。

お姉さんが昼食を食べていた。(※母親の弟の奥さん。正しくは叔母になる)


「あれ?どうしたの?誰か何か言った?」

「いえ。何かあったんですか?誰にも何も聞いていませんが…」

「ばあちゃんが倒れて入院したんだよ」

「倒れたんですか?入院?!そうなんですか?」

私は今回の夢のことを話してみた。

「私もお兄さん(※母親の弟。正しくは叔父)が入院するちょっと前に不思議な夢を見だことがあったんだよ」と言っていた。

お姉さんは夢の話を疑うことなく聞いてくれた。そしてばあちゃんが入院して今日が7日目になると教えてくれた。サンリアでラーメンを食べそ損なったことを話すとその場でラーメンを作ってくれた。


お姉さんにばあちゃんの入院先に連れて行ってもらった。道すがら昔住んでいた家の場所を通ることになる。

「実は津波の後、元家を見たことがないんですよね。」

「多分その内、前に住んでだ家は壊されるこどになるよ。寄って行こうか?車を停めて降りでみようか?」

と提案してくれたのだが私はさほど興味がないように振る舞い、それを断った。


もしばあちゃんの家に行って何もなかった時は、帰りの時間まで一人で元家の場所に行ってみようと思っていた。

その光景を写真に収めたかった。両親が認める・認めないに関わらず虐待された家を撮影したかった。

自分が虐待を受けたことを裏付ける証拠を撮り、ここに書いている文書に信憑性を持たかった。

しかし、そんなことをお姉さんには伝えられないと思った。


なぜなら実際に現場を見ることで負の感情に襲われるかも知れないし、怒りが込み上げてくるかも知れないし、涙が込み上げてくるかも知れない。

その状況にお姉さんをつき合わせることはできない。

「大丈夫です。寄らなくていいです。気を遣ってくれてありがとうございます。」そう言うことが一番良いと思えた。



病室はマスクをつける必要があった。

私が行った時、ばあちゃんは途中まで私を母親だと思い込んで話していたと、お姉さんが教えてくれた。マスクを外して顔を見せると「居るはずがない」とビックリした様子で、咄嗟に上半身を起こして驚いていた!

「なんで、こごさいるんだべ?」

「夢を見て来たんだよ」

「夢?夢が?」

「ばあちゃん家に帰ってる夢を何回も何回も見たから来たんだよ」

倒れた時は自分の名前も分からなかったらしいのだが、ブレスレットの置き場所を聞くと

「テレビの下か、電話の下か、仏壇の隣の棚の中にそのまま(プレゼントした状態の紙袋のまま)入れている」とちゃんと答えていた。



お姉さんとちゃんと話したのは今年が初めてだった。ばあちゃんの旧姓も生年月日も知っていたので、ばあちゃんの数字を分析して、二人で見てたくさん笑い合った。

泊まるつもりはなかったのだが、ばあちゃんの家に泊まり、ばあちゃんのベッドで寝ることにした。夜も偶然あったらしいカキでカキフライを作ってくれた。私は毎冬必ずカキフライを食べる。カキはとても大好きだ。

「どうしていづも帰って来ないの?」とお姉さんに聞かれた。

言うかどうか迷ったけれど、お姉さんに嘘をつくのは失礼だと思った。

「昔、虐待を受けたりその後も色々ありまして…」と伝えた。

「本当?そんな風には見えないよ。お姉さん(母親)も気が利くしお兄さん(父親)だって。二人とも虐待をするようには全然見えないよ」と言っていた。それと同時に私の言うことを否定はしなかった。


私にとってここは生活圏ではない。これからもそうだろう。

両親がここでばあちゃん達と上手くやっているのなら、それはそれでいいのかも知れない。

私は部外者だ。時々しか帰ってこない立場で、ばあちゃん達を傷つける気はない。

そして今までずっと黙って来たのにばあちゃんの家の中で話してしまったことを、とても後悔した。

「今までずっと黙って来たんです。兄ちゃんも知りません。どうしよう…じいちゃんにも叔父さんにも(母親の兄。震災がきっかけで地元に戻って来たが病死した)バレてしまった。聞かせてしまった。」

「んだねぇ…」

お姉さんは静かにそう頷いた。


ばあちゃんのベッドで寝る時、私はこうお願いをした。

「今までばあちゃんを長生きさせてくれて、ありがとうございます。

もし私のエゴではなく皆にとっても必要ならば、これからもばあちゃんのことを生かしてください。どうか、ばあちゃんのことを苦しめないでください。それだけはお願いします。よろしくお願いします。」

ばあちゃんが自分よりも先に死ぬ可能性をずっと否定してきた私にとって、とても辛い現実だった。

ばあちゃんは本当に長生きしてくれてありがたかった。本当はこれからもずっと一緒にいたい。

自分が先に死んでじいちゃんと叔父さんと一緒にばあちゃんを迎えに来たい気持ちは今も変わらない。でも自分の勝手なエゴでばあちゃんを苦しめるのだけは嫌だった。


ばあちゃんのベッドに横たわり、このベッドがばあちゃんの身体を癒し元気にしてくれることをイメージした。ばあちゃんの病気が早く治るように浄化のイメージをして目を閉じた。




ばあちゃんに言われた場所を探してみるとブレスレットはサイズ直しをしていなかった。

「ほとんど帰省しない自分が妹に頼んだのが馬鹿だった」そう自分に言い聞かせようと思っていた時、母親がばあちゃんの家に来てこう言った。

「前から聞きたいことがあるんだけど、どうしてお父さんを避けるの?」

「避ける?何が?」

「いつも会わないで帰るでしょ。何でなの?」

大船渡に泊まらずに宿泊先は盛岡や北上にしていた。そのために移動時間が必要なのだ。行く道は外灯が整備されていないところを通る時もある。視界の良い時間帯にはここを出発する方が安全だった。

「今日は北上に泊まるから」とか「これから盛岡に行ってから宿探しをする」と説明していたのに、なぜそんな勘違いをするのか?

しかもその理由を進学先の第1希望を認めなかったことだと勝手に思い込んでいる。

確かにその時も貧乏だから夜間に行こうとしたのに「お金なら何とかする」と言い、何度も具体的なことを問いただしても「大丈夫」の一点張りで、後に蓋を開けると私名義で借金を背負わされたことは腹立たしかった。私は18歳と言う年齢だったにも関わらず馬鹿な親の言葉を鵜呑みにしてしまった無知な自分に対し「どうしてあんな親の言うことを信じてしまったのだろう?」と、とても腹立たしかったのを覚えている。

そんな過去にまで遡って考えることができるなら、なぜ「あなたがたがしたことは虐待だった」と虐待の記憶を取り戻した後に伝えた時のことは考えないのだろうか?


その場に兄ちゃんがいなかったら、私はキレていた。

「自分たちが虐待したことを棚に上げてよくそんなことが言えるな!どんな思いをして今までされたことを乗り越えて来たか分かるか?父親?自分も長年ずっと虐待して来ただろう!

『死にたい。死にたい』と言って家族をずっと巻き込んで来ただろう!どれ程の苦しみと葛藤を経てあんたのことも受け入れようとしているのか、それさえも分からないのか?」

そう言ってやりたった。

立ち上がって威圧的に言うとか、テーブルに拳を叩きつけて言うとか、そう言う激しい怒りを感じた。

しかし、ここはばあちゃんの家だ。兄ちゃんは何も知らない。もし自分の姉が長年自分の子供に虐待を繰り返して来たと知ったら、兄ちゃんはどんなにショックを受けるのだろう?今後も今までと同じ関係を維持できるだろうか?そして何よりも兄ちゃんを傷つけるのは目的じゃない。もちろん、ばあちゃんのことも…。


妹とも仲が良いと勘違いしていた。私にはもう限界だった。

「だったら言わせてもらうけど、ばあちゃんのブレスレットを直してくれるようにお願いしたのに、妹はまだ直してないんだけど。」

「嘘だ!あの子はちゃんど直しだよ。」

「もうとっくに直し終わっでるって!」

母親がそう言うので直されていないままのブレスレットの現物を見せた。私があの日その場で自分のブレスを壊して渡した水晶のビーズもそのまま箱の中に入っている。

「…直してっで…ばあちゃんが…言わながったんじゃないのがな?」

その言葉を聞いて我慢の限界に達してしまった。


「私は直してくれるか確認したし、必要ならお金も払うってお願いしたのにずっと放置するなんて始めからやるつもりがなかったんでしょ。」

「それにいつもメールだって自分がアドレスを変えて一方的に連絡してきて、その後音信不通だし何を勘違いしてるの?私たちの仲がいい?何を言っているの?」

「今も時々メールが来ると『死にたい』とか『人間関係を全部捨てたい』って言ってるのに、手元に居る娘の心すらも何も分かっていないじゃないの!」

「私が父親を避けていると言っているけど、その理由は?自分たちのしたことに対しては、どう思っているのですか?」


今回改めて思ったことは、私はばあちゃんのことを育ての親だと言うよりは、「実の親」だと思っていることだ。「ばあちゃん」と言葉では認識しつつも頭の中では自分の親だと思っている。

ばあちゃんがいなくなったら、こんな所に帰ってくる意味は全く持てないし、ばあちゃんにだけは恥じない生き方をしたいし、私の帰る場所は、ばあちゃん家だけだ。

ずっとばあちゃんより先に死んでじいちゃんと迎えに来るのが子供の頃からの夢だったし

今回2週間同じ夢を見ていた時に「ばあちゃんと添い寝するイメージ」があった。

(※これはばあちゃんのベッドで寝たので、ある意味叶っている。)

いかに私にとってばあちゃんの存在が大切か。

あの人たちは生物学的な意味での物理的な存在でしかないと理解した。


心理学とか魂の学びの観点から虐待を長期的にして、私に人生の学びをさせてくれている両親と妹には本来心から感謝する必要があるのだろう。

または類魂の課題を達成する為の転生であれば自分の使命は虐待を受けて生き残った人間として社会への問題提起など働きかけとなると思う。その際に元家族とは距離があった方が互いに良いとも言える。なぜなら私が自分の人生経験を公表していくことは、本人たちにとって誰にも知られたくない過去の汚点だからだ。(※彼らは未だに自覚していないかも知れないが)

もしかするとプライバシーの侵害と訴えられるかも知れないと以前は考えていた。親が死ぬまでは虐待されたことを伏せようと思っている時期があった。しかし親がこの世を去るまで待っているうちに、私の方が先に死んでしまうことも可能性として否めない。

そう考えた時に、自分の中に覚悟ができた。「もし訴えられたらその時に考えればいい」

ここまでリスクを取ってでも、私は自分の人生を生きることを決めたのだ。



サイズ直しをしたブレスレットが届いた日も、ばあちゃんが無事に退院した日もお姉さんがメールをくれた。「本来、家族ってこんな感じだよね…」そう、つくづく思う。


お姉さんから退院報告のメールが来る前に少し寝落ちしていた私は、じいちゃんのお墓のあるお寺にばあちゃんの友達数人と一緒にお礼参りをしに行っていた。

「震災があっだがら、おはがもお地蔵さんもいっぱい増えだね」と言いながら

白い壁の建物と同じ素材でできたお墓か神様があり、そこを通る時に私が転びそうになった。りん棒の大きい感じのものにとっさに掴まった時、顔を上げるとじいちゃんの写真そっくりな女性で「只野」と漢字が書かれていた。

そこにふられたひらがながとっても長くて「只野なのに何て読むんだろう?」と思ってたら、ばあちゃんの友達の一人が

「助けでもらっだんだがら、お賽銭あげどげ」と言った。私は手に何も持っていなくて

「今お金持ってないからどうしよう?」と言うと

「ほら、ひゃぐえんあるがらあげどげ」と言われて、

そのおばちゃんに「帰ったら返すね」と約束しながら百円をお賽銭を入れるポストのような茶色の所に入れた。そこに蓮の華が彫ってあったのをはっきりと覚えている。

私は相変わらずじいちゃんにそっくりな女性の写真を見ながら「只野」の漢字の隣に書かれた長いひらがなを読もうとしている所で目が覚めてしまった。

※因みにばあちゃんの旧姓は佐藤です。












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小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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