2016年4月4日 滞在リミット4時間で地元警察のお世話になる

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2016年4月4日 滞在リミット4時間で地元警察のお世話になる
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この時の経験のおかげで自分の心の偏りに否が応でも気づかされました。自分自身を見直す大きなきっかけとなりました。そして、この経験のおかげで写真家長谷川美祈さんに出会える人生のチャンスに繋がったと思っております。


2016年4月3日

仙台で用事があり終わった時間からでは地元までの交通手段がないため私はその日は仙台に宿泊した。


2016年4月4日

朝一の長距離バスを利用して地元の盛駅に着いたのはお昼時間近だった。当日千葉に戻る為には16時頃の盛駅発のBRTに乗らなければならない。実質滞在4時間の中で私は元家や気になる街並みの写真を撮り、その足でばあちゃん家に行こうと考えていた。

駅からそのまま行くには荷物が重いので先にサンリアに寄ってリュックをロッカーに入れた。サンリアからばあちゃん家はすぐ近くだ。一瞬、ばあちゃん家に顔を出してから行こうかと迷ったが4時間しかないのを考えてやめた。昼食を食べる時間がもったいなかったのでおにぎりを1つ購入し食べながらサンリアから元家の方に向かった。

土砂降りで雨の勢いが強かった。写真を撮影するには悪いコンディションだが、それよりも元家が今も存在しているのかどうかの方が気がかりだった。

「まだ壊されてなければいいなぁ」何度も心の中でそう思い歩く勢いが自然と早くなった。

折り畳み傘だったので雨の勢いで傘が不安定になってしまう。スマホは防水ではないし、何よりも他の場所がびしょ濡れになったとしても補聴器だけは濡らしたくなかった。補聴器は水分や湿気に弱く故障の原因になってしまうのだ。私は補聴器が少しでも濡れないようにコートのフードを目深に被った。


津波の影響を受け甚大な損害があったとしても見慣れた街並みは様々なことを想起させる。友達の家、OO屋さん、確かここにはOOがあったはずだ。見慣れたケーキ屋さんとそこにある壁のシミ。変化するものとしないものの混在する景色の中、私は元家のある場所に近づいた。


そこには今も元家が存在していた。

私にとっては虐待の証拠現場だ。


懸念していたような感情の大きな揺さぶりはなかった。みすぼらしい粗末な家が目の前に存在していた。何度も閉じ込められた小屋は津波で流されたのか、その姿を留めてはいなかった。私は目の前の光景を証拠として何枚か写真に収めた。

近くに親に家から閉め出された夜によく隠れた家庭簡易裁判所があった。駐輪所やごみ焼却炉の影に身を潜めて「誰か助けて」と思いながら同時に「誰にも見つかりませんように」と願いながらたくさんの夜を過ごしたことがある。

散々虐待され追い出されて、時にボロボロに泣きながら家庭裁判所に逃げて、ここの外灯を見上げるとなぜか心が落ち着いた。涙に滲むと光の輪がとても綺麗に見えるのだった。そして外灯に照らされたアスファルトもまた宝石のようにキラキラと輝いていた。私にとって泣きながら外灯やアスファルトの輝きを見る瞬間は、そこはかとない孤独を感じながらも一時的に虐待を忘れることができる幸せな時間だった。

ごみ焼却炉の場所は今もあるのだが、肝心のごみ焼却炉がなくなっていた。きっと津波に流されたのだろう。


時にはそのまま大船渡警察署の近くまで歩いて行ったことも何度もあった。警察署の近くまでは行けるのだが、その中に入る勇気はどうしても持てなかった。もし警察に行っても親に迎えに来られて家に帰ったらもっと酷く虐待されるだろうと思っていた。

私は子供の時は「虐待」と言う言葉を知らなかった。父親も母親も頭がおかしくて暴力的な人だと思っていた。父親にはいつ殺されるか分からない危険性を感じ、母親には殺されるかも知れない危険と本人が自殺してしまう危険性を感じていた。しかしそれに対しどのような社会的なサポートや対処があるのかを知らなかった。誰にどうやってどのように助けを求めれば自分の身の安全を守れるのかを知らなかった。

裁判所でいくつかの場所を写真に収め、2件目に住んだ家の方向に向かった。

その場にはあまり思い出はない。なぜなら私はほとんど住まなかったからだ。その家の前に向かいの家のごみのようなものや、どかからか流れ着いたのだろうか?と思う様な金属製の大きな物体が置かれていた。家の前には植物が植えられており何となく仮設住宅に行った時のような母親の面影を感じる風情があるようにも思われた。

窓から見える部屋の障子の様子が汚く破れており乱雑な雰囲気を醸し出していた。彼らは今、大船渡町の仮設住宅に住んでいる。

どちらの家も壊されるのだろうと思っていたが、この破れた障子の隙間から見える乱雑な荷物は、一体誰のものだろうか?何かが心の中でひっかかり、この家は写真に収めなかった。


それから気になったのは市民体育館の近くにあったはずの石像だった。

記憶の中では「以前ここまで津波が来ました」という意味を持つ石像だった気がするのだが、今も同じ場所ににあるのだろうか?今回の津波はその場所を遥かに越えて来たので、もう無くなっているかも知れない。その事実を自分の目で確かめたかった。

市民体育館に行く途中に津波の高さを表示する新しい標識を見つけた。それからBRTの線路を撮って記憶にある石像を探したのだが見つけられなかった。実質滞在時間は4時間しかない。

「これか小学校の方に移動してじいちゃんのお墓参りをしよう」と考えていた時に、私は一人の警察官に呼び止められた。


「ここで何をしているのですか?」

雨が強く降っているのもあり耳が聞こえないことを話したけど上手く声を聞き取れなかった。メモ帳を鞄の奥にいれてしまったようでスマホに文字を入力してもらっていたのだが雨が強いので画面がびしょびしょになり、防水じゃないのを話してメモ帳を探そうとすると警察官の方で自分のスマホに文字を入力して会話をしてくれた。

「ちょっといいですか?近くに車を停めているので、それに乗ってもらえませんか?」

顔を上げると道路を挟んだ向かいにパトカーと乗用車が止まっていた。

乗用車の方に乗り込むと複数の私服警察官がいた。言葉が聞き取れないので隣に座った警官の方に筆談をお願いした。住民の方から不審者の通報があったらしい。

確かに私の身なりは不審者だと思われるのに十分な恰好をしていた。ロングコートを羽織り(補聴器が濡れないように)フードを目深に被っているだけで不気味だと思われて仕方ない。しかも花粉の季節でマスクと眼鏡もしている。そんな恰好の見知らぬ人が大雨の中で自分の住んでいる家の近くを写真で撮っているのだ。確かに住んでいる側からしたら不審者だ。

身分証明書を見せただけでは立証できないことも多い。ここに来た理由は、しようと思えばいくらでもごまかすことはできる。

私は本当にここの出身なのかを証明するためには、実際に家族に連絡して事実確認をしなければならなかった。

私は両親に虐待を受けたことを話した。できれば彼らに連絡を取って欲しくはないことを伝えた。

そしてばあちゃんの家に帰るつもりだったことも話した。




場所を警察署に移すことになった。

子供の頃に何度も「警察に助けて欲しい」と思っていたが、今こうして自分が犯罪の疑いを持たれる側として警察署の中にいるとは、とても情けない限りだった。

先に断っておくが警察の方から理不尽なことは一切されていない。テレビドラマの脚色で見るような威圧的な態度や机を叩いたりする脅しは全くされていない。むしろずっと筆談をして下さったりとちゃんとコミュニケーションを取って頂いた。

警察側として通報を受けた以上、市民の安全を守るために私が本当に不審者ではないのか?犯罪目的で帰省したのではないのか?を立証しなければならない。

このSTORYS.JPに書いている文章に信憑性を持たせようとして写真を撮ろうとしていたことも話した。一人の警察官の方に

「写真を撮ることは悪くありません。これからは住んでいる方の気持ちをもう少し考えてください。」と言われた。

それから身元確認として父親が来ることになった。一緒に帰りたくないことを伝えると理解を示してくれた。サンリアに荷物を置いているのでそのままばあちゃんの家に帰った方が近いし16時頃の盛駅発のBRTに乗るにはその方が良いことを理解してもらった。

父親が身元確認にきた時、父親の隣には男性警官が、私の隣には女性警官が立ってくれていたので安心感があった。後にばあちゃん家に来た母親に聞いたのだが電話で警察の方が

「怒らないでください」と何度も何度も繰り返して父親に言ったらしい。

父親は室内に入ろうとせずに戸口の所で「お久しぶりです」そう言葉を発した。



色々と手続きをしている間に同室してくれた女性警官の方に19歳で自殺したMちゃんと20歳で自殺したAちゃんのことを話した。

「せっかく親元を離れられたのに、その後自ら命を絶ってしまう子たちも多いんです。私は2人も友達を助けられませんでした。」

話している間中、後悔の念が頬を伝っていた。何度悔やんでも悔やみきれない思いが止めどなく溢れて来るのだった。

顔を上げて見ると彼女の目からも、私と同じように涙が流れていた。



サンリアにリュックを取りに行ってばあちゃんの家まで警察の方に送ってもらった。その道中で子供の頃に何度も警察に行こうとしたのに行けなかったことを話した。

ばあちゃんの家に着いた時点でバスの時間まで30分程しかなかった。

「とりあえず何でもいいがら何が食べでげ」とカップラーメンと食パンを焼いて出してくれた。

「今回は本当の警察からの電話だったからいいけど、電話の詐欺もたくさんあるから気をつけてね。ごめんなさい」

「大丈夫だがら。けいさづのお世話になるごとなんで、ながながけいげんでぎねぇんだから、今回のけいげんも良がっだなぁっで思えばいいんだがらな」

そう言いながらばあちゃんの目じりには薄っすらと涙が滲んでいた。


※あの日ばあちゃんに帰りに持たされたりんごたちです。靴下が濡れたと言ったら靴下も2足くれました。


地元の警察のお世話になったことで見えたのは、私の心の大きな偏りでした。

思考では両親を受け容れようと努力しているつもりでしたが、心の中では彼らを排除し続けていました。警察のお世話になることで否が応でも彼らが自分の親であることを現実的に突き付けられました。

そしてこれまで心の奥でずっと思い続けて来たことが現実と化したことにも気がつきました。

私は「ずっと警察に助けて欲しかった」のです。

両親のことを精神異常の犯罪者だと思っていましたし、そんな両親のどちらに似ても

「私の中には犯罪者の血が流れている。」と長い間怖れ続けてきました。

それら積年の思いが表に出た経験でした。


そして自分の中にある正義感についても考え直すきっかけとなりました。

「自分では正しいと言う思い込みが時に予期せずに人を傷つけてしまうことがある」と実感しました。

この場お借りして恐縮ですが、不快な思いをさせてしまった住民の方には

「大変ご迷惑をおかけし誠に申し訳ございませんでした。自分の行動に対し深く反省しております。」と伝えさせてください。


もちろんどなたにもご迷惑をおかけしないに越したことはないのですが、地元の警察の方で良かったとも思っております。色々と事情を汲んで下さったり配慮して頂いたことに感謝しております。

また一緒に泣いてくれた女性警官の方にも「ありがとうございました。」と伝えたいです。

皆様にご協力頂いたおかげで、私は自分自身を見直すことができました。


地元警察の皆様にお世話になったのが4月

MちゃんとAちゃんと3人で夢を実現しようと記事を書いたのが6月

写真家長谷川美祈さんの取材撮影の依頼を受けたのが7月

これらは必然的な流れの中で起きたことだと思っております。




地元からだと開催会場の東京は遠いですし交通費を出してお招きすることもできませんが、

もし地元警察の方がこの文章を読んで下さっていたら

是非今年11月の児童虐待可視化プロジェクトの写真展にお越し頂きたいと思っております。

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小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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