⑮ 無一文で離婚した女が官能女流小説家になり、絵画モデルとなって500枚の絵を描いてもらうお話 「切り裂かれた絵」
だけど彼は、奥様と別れたわけではありません。
奥様はしょっちゅう彼の家にやってきて、掃除をし、ご飯を作り、一緒に食べて泊まっています。
そんな中で、絶対に彼とはもうダメなんだ、と悟る出来事がありました。
新聞社の協賛で、「大戦争画展」が新宿のビルの会場で大々的に行われました。
彼の所属する美術団体が絵を出品したのです。
その戦争画展に、彼は「帯と女」の水彩画を出すと言い出したのです。
「でも先生、おかしくない? 戦争画展に、あの裸婦の絵じゃあ…」
非毛氈の上に全裸の女性が寝そべって黒い帯が取り巻いた、美しい日本画のような絵です。
いくらなんでも裸婦はおかしいんじゃないか。
さすがに私は反対しました。
ところが彼は、
「僕はあの絵を、戦死した兄のために描いたんだ。俺と違ってハンサムで心優しい兄だった。武ちゃんはきっと女を描く画家になってくれと、俺に託して死んでいった。 俺は戦死した兄貴への鎮魂花として、あの絵をささげたいんだ…」
と熱く語るのです。
彼の熱意に負け、私もしぶしぶ承知しました。
もう一つ、あの50号の大作は、3年がかりで描いたものの、誰にも見てもらう機会がありません。
ひっそりと埋もれたままです。
この機会に人の目に触れたら…そんな思いと欲もちらっとよぎったのです。
絵画展当日。
ビルの12階の会場に岡村とともに足を踏み入れた私は、
「あっ」
と声をあげて立ちすくみました。
まわりの絵は、戦争の炎や逃げ惑う人々。
彼の美しい裸婦の絵は、あまりにも場違い。
恥ずかしさに真っ赤になり、顔も上げられませんでした。
(ど、どうしよう…)
恐怖といたたまれなさに足が震えます。
顔見知りの人々が憤怒の形相で取り囲みました。
「岡村先生、なぜあんな絵を出したんですか?」
「頭おかしいんじゃないか!」
「何考えてんだっ」
「馬鹿じゃないのかっ」
怒号が飛びかいます。
確かに私たちが非常識だったんでしょう。
「すぐに取り外してくれ!」
指示されて、会場の係りの人とともに絵を取り外し、裏の暗い倉庫に置いてもらっいました。その絵は彼があとから車で引き取りに行ったのです…。
帰りの電車の中で、岡村は涙を浮かべながら、
「僕が悪かった。あなたに恥をかかしてしまった…すまない。本当にすまない」
「僕はどう思われてもいい。まち子に悲しい思いをさせてしまったことが、つらくてしょうがない」
と謝ってくれたんです。
「しょうがない、先生。もう終わったことだもの」
私も答えたのですが…。
翌日彼のアトリエに行くと、岡村は打って変わった表情で、
「なぜ女のお前がとめなかった! 俺がどう言ってもとめるのが、女であるお前の役目だろう! 俺に恥をかかせるのが面白くて仕組だのか!」
「何を言うの。先生がどうしても出すと言ったのよ」
「なぜもっと強くとめなかった! 女のお前に分別があれば、みんなの前で恥をかかずにすんだのだ。男の顔にどろをかぶせるような事をしやがって。たくらんだろう」
と責め立てるのです。
もちろん、絵なんか一筆だってかけません。
たった一夜で、どうして彼の意見がこうも変わってしまったのか。
昨日はあんなに謝ってくれたのに…。
私にはげせません。
もしかしたら昨日彼は妻と会い、妻と話し合って妻の見解が入ったのではないのか。
そう思わないではいられませんでした。
彼と私ではうまくいかない。
絶望しました。
その後も、彼が、
「いいバックが描けた」
と喜んでいたのに、三日たって行ってみると間逆の色に塗りかえられていたり、
「すばらしい肌色に仕上がった」
「今までで一番よく描けた」
と喜んでいたデッサン水彩の肌色が、次の日行ってみると、こすり落とされて紙に危うく穴があきそうになっていたり…。
「先生どうしたの?」
驚いて聞くと、
「肌色が赤すぎる。おかしいだろう…それでスポンジで落とした」
「誰かが言ったの?」
「俺だよ、俺がそう思うんだ」
「でも…あれほどよく描けていたと喜んでいたのに。おかしいじゃない! なぜ私が来るのを待ってからにしてくれないの」
大喧嘩になってしまいます。
でもまだその頃は、油絵の寝ポーズの大作を描こうとはりきっていました。
「ベラスケスの後ろ姿と同じ寝ポーズで、80号に描こう!」
いっせい一代の傑作を!
彼の意気込みも強く、二人で家具売り場に行って、ベッドまで購入したのです。
ベラスケスの後ろ姿寝ポーズは、世界一美しい背中と言われています。
背中には、ビーナスの影が浮かび上がっています。
ビーナスの影は、女性の背中にうっすらと入る菱形の影です。
この影が背中に入る女性は美人と言い伝わり、別名ビーナスの影、と呼ばれているのです。
この絵は嫉妬のあまり切りつけられ事件になったほどです。(今は修復されています)
私にもそのビーナスの影があるのです。
ベラスケスと同じポーズの寝姿を描いてもらうのは、私の夢でもあり、悲願でもあったのです。
80号のキャンバスにデッサンがおわり、下地の白っぽい肌色とシェンナーの影まで、塗られていました。
ビーナスの影も背中に美しく入っています。
私はその日、いそいそと彼のアトリエに向かいました。
その頃、いつも彼は、自宅の近くにあるコンビニ側の橋の欄干で、水鳥を見つめながら私を待っていてくれました。
(その多摩の川には、野生の水鳥がいたのです)
欄干にもたれかかって水鳥を見る、いつもは悲しげに見える彼の背中がその時は違っていました。
「おはよう。待った?」
声をかけると振り返った彼は、
「いつもの事だから」
ぶっちょうづらをしています。
「何か不機嫌そうだね」
「最初からいちゃもんつけるなよ」
最初から喧嘩腰です。
昨日の夜奥様が来たんだわ、きっと…。
そう思いました。
彼は妻を愛しています。
いつもすまない、可哀相なことをしていると苦悩しています。
そして奥様の立場にたつと、私のことが憎くなるのでしょう。その苦悩の原因はこいつにある、とある意味私を憎むのです。
矛盾しています。
私は別れようと言っているのに…。
彼は、お菓子の入った壷に手をつっこみ、菓子をしっかり握っているので、手が抜けない! と怒っている子供のようでした。
彼のアトリエに言っても、彼はぶっちょうづらのまま。
私もつい、彼の妻が来た痕跡をさがしてしまいます。
台所の流し台に残る奥様専用のマグカップや、冷蔵庫に詰まったタッパ入りの煮物。
きちんと角が立つように畳まれた白いスーパーの手提げ袋。
「昨日奥様が来たでしょ」
「それがどうした。あいつの家だ」
威張って怒鳴った彼は、
「いつもいつもそうしてお前はあらさがしをする。だいたいお前はなんて女だ。食べたら食べっぱなし、スリッパもそろえない、だらしない」
「それが良いって先生は言ったのよ。最初は美人はだらしがないに決まってるって、言ってたじゃない。私が気に入らないなら帰るわ!」
「帰れ帰れっ」
外に飛び出した私でしたが、どうしても怒りがおさまりません。
言いたいことを言ってやろう。
ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。ご覧いただいているサイト「STORYS.JP」は、誰もが自分らしいストーリーを歩めるきっかけ作りを目指しています。もし今のあなたが人生でうまくいかないことがあれば、STORYS.JP編集部に相談してみませんか? 次のバナーから人生相談を無料でお申し込みいただけます。
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?
- 1
- 2
著者の藤 まち子さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます