⑬ 無一文で離婚した女が女流官能小説家になり、絵画モデルとなって500枚の絵を描いてもらうお話 「マンションに引越す」
誓い通りに禁酒して、私の言うことはすべて聞いてくれた岡村。
彼のところに行く日も行かない日も私の自由。
いつしか私は女王様のようにふるまい、彼の前のひどかった仕打ちを持ち出して、彼をヒステリックになじるようになっていました。
立場が逆転したんです。
私たちは本当に愛し合っていたんでしょうか?
私は父親の顔を知りません。
色んな女性と浮名を流した父は、私が幼いときに女性を作って母と離婚して家を去り、私は父と一緒に住んだことがないんです。
岡村も以前言っていたことがあります。
「先生は、私のこと本当に好きなの?」
と聞いた時です。
「まち子は悪い女だ。だけどこの僕の真実の愛情で、きっとやさしいいい女に変わると信じてる。その日を楽しみにしているんだ」
彼は答えました。
これってもしかしたら愛情じゃない。
今のお前は気に入らないと言われているのと同じ。
今のままの私を愛して! 私は変わろうとも変えられたいとも思ってない。
本当の私じゃどうしていけないの?
そう叫んでいたんです。
作家としての仕事は順調でした。
私は毎朝、アパートの近くにある喫茶店に行ってトーストとコーヒー、スクランブルエッグとミニサラダがついたお得なモーニングを注文し、昼の12時過ぎまでねばって原稿を書いていました。
その喫茶店のテーブルはちょうど高さがよく書きやすく、毎日作業をしている漫画家さんやノートを広げる常連の学生さんがいて、ねばりやすかったのです。
お昼は商店街のレストランの安くておいしいランチを食べます。
あとは夕食作りの時間まで、図書館に行ったり、ぶらぶら散歩したりしているんです。
その頃、新聞の連載小説三ヶ月の仕事が入ってきました。
作家は私。挿絵は岡村。
二人が組んだのは偶然です。
はりきって書きました。
アラビアンナイトを題材にしたその小説は、すべて作家である私が挿絵の構図を決めてポーズをとり、衣装をつけて岡村に生デッサンして一枚一枚描きあげてもらったのです。
最初の挿絵を岡村が送ると、新聞の担当編集者から私のところに電話がありました。
「今、岡村先生の挿絵と表紙絵が届いたんですけれど、これがすばらしいんですよ!」
担当編集者の山崎さんは興奮したようすで大絶賛しています。
「そうですか」
二人の仲は秘密なので、とぼけるしかありません。
「岡村先生は線で描いてくださっている。今時線で描ける挿絵画家さんはいません! その線が生きていて、傑作です!」
そうだろうなあ、生デッサンして見ながら入れてくれて線だから。
彼のアトリエに行ったとき、
「線で描いてくれているって、山崎さんが褒めてたけど、線で描くってどういうこと?」
訊ねると、
「昔は印刷技術がよくなくてね、色の濃淡で表すとうまく紙に出ないから怒られたんだよ。今でこそアクリル吹きつけとかあるけれど、昔は使えなかった。挿絵は線で描くことを求められたんだ。それを山崎さんは言ってるんじゃないかな」
なるほど、線で柔らかさや質感を表すのは、日本画の技法です。
見る人が見たら、わかるんだな…。
と感動しました。
週刊誌の連載も決まり、作家として順調に仕事が入っていた私は、今住む6畳一間の風呂なし床傾斜アパートを出て、多摩の町に引っ越すことにしました。
たびたび訪れるうちに、この美しい緑の多い街が、とても気に入っていたのです。
見つけたのはマンション4階の角部屋で、広いベランダからは、すぐ真下から続いた静かな公園の緑の美しい芝生が見渡せます。
8畳と6畳と四畳半の和室に、8畳のフローリングの明るいキッチン。
もちろん風呂付。
今までの部屋から比べると、宮殿のように感じました。
彼のアトリエからも歩いて20分の距離。
「先生、引っ越すことにしたわ。先生のアトリエにも歩いて行けるマンションよ」
でも喜んでくれるとばかり思っていた彼の表情がさえません。
「恋人の距離は、はなれているほうがロマンチックでいいのかも知れないよ」
そんなことを言うんです。
おかしいなあ、とは思いましたが、
新しい部屋が決まる直前に、ごくささいな事から私がかんしゃくを起こして彼をなじり、
「先生サイテーよ。だから奥様からも見捨てられるのよ!」
「お、俺は、妻から見捨てられてないぞっ」
「嘘ばっかり」
「もう絶対に先生のアトリエになんか行かないからっ」
と大喧嘩して2週間くらい電話もせず会わない日々がありました。
それでかな?
なんて、その時は思っていたんですーー。
先生が私を気に入らないんなら、別れればいいし。
軽く考えていました。
私があさはかでした。
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