毒親両親に育成された私の本当の志命 1

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私の生家は、両親が日々忙しく営む当時から珍しい、貝の卸店であった。

自営業の父と母は、毎日早朝から忙しく市場に貝を仕入れ、家に戻ってすぐに、

活きた貝を大きな板で揉み洗いし、手揉み洗いをし、いくつかの工程をすべて手作業で行う。

一つ一つの貝を丁寧に分け、完全に綺麗に砂出しをした貝に辿りつくには、物凄い手間と時間を

要する。機械ではなく手作業だからだ。

赤貝,とり貝、ホッケ貝、鮑に伊勢海老も取り扱っていた。

海藻や大葉を使って彩よく大皿にお刺身盛りにしたりもしていた。

小売り用に枡で目方を図り、業務用じょうごで小網に詰め替え、塩度調整した水槽に

戻し保管、その他に浅利、蜆の佃煮を作ったりしていた。

屋号を忠誠した『貝作』であった。

だから私は幼少時から、貝は潮干狩りに行って食べるものというよりも、

日常毎日、当たり前に朝晩の食卓で、浅利や蜆のお味噌汁に始まり、

おかずでは貝のお刺身盛り合わせ、貝の佃煮で何倍も白飯をお代わりするのが

至極当然として育った。

貝が大好きな私は、ちょっと珍しい商売の家に生まれたのが嬉しくもあり、

誇りにも感じていた。


貝を扱う店が当時から大変珍しく貴重で、砂出しが面倒でありながら、

舌触りにジャリっと言った不快な触感が無く、鮮度が高い活きた美味しい貝が食べれると

非常に好まれて、来客が多かったのを覚えている。


子供の頃に沢山の貝を食べて育った私は、牡蠣も沢山飽きることなく食べ続け、

二重で目が大きっくなったらしい。母はいつも周りの大人に、

どうして娘さんは目が大きいのかと聞かれては、大粒の生牡蠣を毎日

のように食べさせていたからだと、頻繁に説明していた。


今思えば、この時が人生最高絶頂期で、贅沢な日々を送っていたのだった。

二度と戻ることのない家族4人が揃った幸せの時間。




父は若い藤竜也に似たスリムでハンサムで物静かであり、非常に個性的な男性であった。

商売人というイメージからは程遠い、ニヒルで知的好奇心旺盛なとてもユニークなアイデアマンでもあった。


母と二人で海外旅行や、子煩悩で家族揃ってバーべキューや国内旅行にドライブと

時代に沿った教育や楽しみやファッションを存分に与えてくれる父だったとも思う。

母曰く、父は男の子ではなく女の子を望んでいた為、二人姉妹を授かったことを

大変喜び、子供たちにできる限りのことは与えてあげなさいと言っていたらしい。

幼少の私が父を自慢することは無かったし、これまでも無いのだか、

配達軽車の荷台に上って、父と車庫までの短いドライブデートが、

私には『ねぇ~みんな パパ恰好いいでしょ!』と自慢したい時だったのかもしれない。

私の人生では一番インパクトのある印象深い男性であり父親。

私がDNAを受け継いだ、たった一人の父親に間違いないのだ。

私が生まれて最初に会った男性、父親、私のルーツとなる男性だ。

だから私の心の中では、永遠の憧れであり、記憶から抹消したくもなる

貴重な異性なのだ。



幼少の時から、自宅のトイレはボタン1つでバブルバスのような泡がブクブクと湧き

流れるものであったり、店舗兼二階建て一軒家は、裏の家を買い取り、

母屋の後ろに姉の学習用別棟が建てられ、母屋と別棟の渡り廊下には大きな窓から

見渡せる景色には、松の木が茂る枯山水の庭園と灯篭が設えられた。

元々あった滝、池には錦鯉と鯰と夜店市で私が抄った尾が三つに分かれた金魚が

悠々と泳いでいた。

店先から暖簾を潜り小上がりを通ると、檜柱の香り高い広い廊下を抜ける。

私の体よりも大きく、かくれんぼするのに丁度よい丸い大きな鉄瓶の置物、

頭上にはダイヤモンドのように光輝くシャンデリアのあるリビングルーム、革の大きなソファーで寝ころびならがら、ベストテン等の音楽歌番組とGメン等警察物語を見るのが、私の楽しみだった。


教育熱心だった両親で、夜更かしテレビを見ることが許されなかったので、

父がお風呂に入っている間に、こっそりテレビを見て、寝るのが贅沢に思えた。





ウィスキーグラスを片手にする父の姿は2度程しか記憶にないが、クラッシシックの

レコードを時々喜々として選び、慎重に針を落としていた父の姿が懐かしい。


大きな鏡張りの洋酒カウンターには、様々な模様と人物が描かれた、容の異なる

色彩豊かなボトルが沢山並べられていた。

私はミラーに映った自分を眺めては、瓶達に囲まれた自分を幼心に日常から離れた西洋文化に触れた

大人のゴージャスな雰囲気を垣間見ていたのかもしれなかった。


母は父に従順で教育躾熱心で、よく働くパワフル元気な女性だ。

父が大人しかった分、母の存在は私の中では強烈で、太陽のように明るく元気溌剌でもあり、

怒ると鬼の形相で、絵本に出てくるお化けや鬼よりもリアルに怖かった。

おいたをすると、必ず真っ暗の押し入れにお化け本と一緒に入れられ、衝立棒で

襖を開けれないよう閉じ込められるのが、本当に怖かった。

夜中の屋台ラーメンのチャルメラの音も、土鍋で毒蛇を煮出していて、

悪い子は一緒にグツグツ煮出され二度と家には戻れないと聞かされていた為、

私は大人になるまで、ラーメン屋さんとは知らなかったのだ。

よく言えば私は無邪気で素直な大人しい子供だった。


二つ離れた姉は幼い時から勉強熱心で、英語がよくできるボーイッシュな女性だ。

幼いときは、二人で水着を着て家の滝で水遊びをしたり、お絵書きをして遊んだような

気がする。ヤンチャな姉と大人しい妹、ごく普通の姉妹でいれたのは、この時だけかも

しれない。


私は双子でもないのに、勉強のできる優等生タイプの姉と同じ型の同じ色の服を

新調し着させられることに、物凄い抵抗があった。

とはいえ、姉はお勉強ができ器用な人間であった為、私は1日100回強も

エプロン姿で店先や食事の準備で慌ただしく台所に立つ母に、『ねぇ~私は良い子?』と聞き、

『いいから大人しくあっちにいなさい!』と言われる度に、自信喪失していったのだ。

たった一度でも、同じ目線に立ち、『良い子だから安心してなさい』と言ってもらえたら、

どんなに心強かっただろうと今でも思う。


二羽のインコと池の鯉と鯰にパン屑餌を与え、嫌々小学校に通うのが、私の鬱屈した

ルーチン生活だった。


小学校に行けば、物静かな私はランドセルに悪戯書きをされ、自宅店先にもどれば

安全地帯セーフと思って走って帰っても、カッター片手に追いかけてくる男子が怖かった。

商売に忙しい両親は、どん臭い私にはお構いなく、家ではお勉強のできる姉が日に日に

ピアノにお習字、水泳、英語にそろばん、姉妹都市の交換留学生になるなど立派に成長するのが

誇りで、小学校にも自宅にも私の本当の居場所は無かった。

幼い私はこの頃から、物質に恵まれ育つことは、公園のシーソーのバランスを失った

両足がいつも地面にきちんと着いた、ジャンプができない心の重りを背負うことを覚えた。

私は姉を超えられはしないし、人前で自分の意見を言うことは許されない。

私はただ大人しく、与えられた空間に身を置き、一人ままごと遊びをしていれば

丸く収まるのだと悟ったのだった。


なんの心配もいらない、豊かな日常に黙って身をやれば、あと2年で小学校を卒業し

姉と同じく決められた私立女学校の可愛い制服を着て、私も父にアメ車で送り迎え

してもらえるのだと、ほんの僅かな期待をしていた。

うちは両親だけで従業員もいない自営でだから、私は周りの会社勤めの父親を持つ子のように

転校は私に限っては生涯無縁のことだと思っていたし、転校の『て』の字すら想像したことが

なかった。そして、想像する必要性も全く感じてはいなかった。


ある日、小学校から帰ると、父と母が神妙な面持ちで私を出迎えた。

私の虐めにようやく気付いてもらえると思ったら、来週から名古屋に転校すると

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