⑯ 無一文で離婚した女が女流官能小説家になり、絵画モデルとなって500枚の絵を描いてもらうお話 「現在サルサ・インストラクター」
雪のクリスマスがあけ、翌年新春。
彼の妻が近くに引っ越してきてから3年目のことです。
「妻がこの家に帰って来るというんだ。仕事も定年でやめたし、別々に暮らしていると家賃が惜しいって」
アトリエに行くと、彼が話し出しました。
「それもそうね。奥様の意見に私も賛成よ。どうぞどうぞ、そうしたらいいでしょう」
その頃もう彼の妻は毎晩彼の家で料理を作って彼と一緒に食べていました。
私は近くのショッピングビルのブティックでパート勤めを始めたばかりです。
これで彼と別れられる。
そう思ったのに、彼は奥さんと一緒に住むことをOKしたよと告げたのに、
「そうか、賛成してくれるのか…だけど絵は、どうやって描いていく?」
と悩み始め、台所からウイスキーの瓶を持ってくると、ぐいぐいラッパ飲みをはじめました。
こうなると、絵は一筆も描かずに、悩み荒れるのです。
「先生、なんとかなるわよ。絵は別の場所でも描けるし」
彼をおちつかせようと一生懸命慰めながら、これからのごたごたを察知して恐れた私は、彼から逃げ出す計画を立てはじめたんですーー。
初春、窓辺にカーテンだけを残して、引越しトラックに荷物を積み込みました。
彼に引越しを知られないためです。
荷物を積み終えるまで、彼に見つからないかと、はらはらしていました。
ベランダからすぐのところに、毎年まるで私一人のためにだけ飾られたような大きなクリスマスツリーの電飾のもみの木が、向かい合うように立って、楽しませてくれていました。
その公園は美しく整備されているのに、少子化のせいか、いつも人がいなくて、緑の芝生だけがなめらかに向こうまでつらなる、静かな静かな公園だったのです。
その多摩のマンションともお別れです。
引越し先はビンボーになっていたので、また小さなアパートです。
その頃の彼は、
「まち子は昨日12時に寝たんだね。灯りが消えたから」
「昨日はお出かけしていたのかい? 遅くまで留守だったね」
まるでストーカーのようなことを呟いていたのです。
トラックが走り出し、街を抜け、助手席で窓から春の風を頬に受けた私は、
「ああ、これで本当に逃れられたんだ。自由になれたんだ…」
ほっとして安堵の涙を流しましたー。
彼とは12年間付き合ったのです。
逃げるように彼の元から去った後、私は小説の仕事はきっぱりとすべてやめ、スーパーで働いたり、マネキンとして働いたりと、懸命に働いて生計を立てました。
そして数年が過ぎた頃、ダンスと出逢ったのです。
サルサ、社交ダンス、アルゼンチンタンゴ、と踊るダンスの種類が広がりました。
ダンスは私にあっていたのでしょう。今ではなんちゃってサルサ・インストラクターとして、パーティーを開いたり生徒さんを教えたり。
社交ダンスの競技会に出場も。
(現在の私)
岡村と別れてから7年後、彼が痴呆症状になり、入院していると聞きました。
もう誰の顔もわからないそうです。
心残りなのは、アトリエに残してきた500枚以上の私を描いた絵です。
それらの絵は、どうなっているのでしょう?
後ろ座りポーズを描いた50号の裸婦の油絵大作。
チャイナドレスでポーズをとる油絵、ハーレムパンツのエキゾチックな油絵、数え切れないほどの幾多のポーズで描いてもらった水彩デッサン画…。
実際にポーズをとった挿絵の数々。
どの絵も生デッサンし、水彩画と油絵は、気が遠くなるくらい絵具を塗り重ね、時間をかけて描いた絵ですから、一枚一枚に愛着があります。
特にチャイナ服の油絵は思い出深く好きな絵で、もう一回でいいから見たい。
対面したい、と強く願います。
でもしょうがない。
それより大切なものを、私は選んだのですからーー。
そして作家活動も再開しました。
彼と付き合っていた頃、私たちは互いに約束したことがあります。
「先生は私を絵に描いてくれる。私は先生がいかに絵に情熱をかたむけていたか、女の肌を書き現したいと心血を注いだか、それを小説に書いて上げるね」
と。
今、ようやくその時が来たのかも、知れません。
女性の肌に憧れ、女の肌を描くことに生涯をささげた彼の執念とも言うべき情熱。
その思いだけは、本物でした。
彼ほど女性の肌そのものにこだわって描いた画家はいないと思います。
その哀しいほどの思いを、今私は、伝えたいと思うのです。
ユーチューブに描いてもらった絵をアップしています。
絵画モデルM子
https://www.youtube.com/watch?v=K2LlW0h-huA
ぜひ見てください
透明水彩画20号「座る裸婦」
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