これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(3)

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肺がんになったのだから、ある日突然この世からいなくなる​可能性は普通の人よりは高い。

悲しいことだけれども、このことは自覚はし​ておいた方いいだろうといつも思う。だからといって不安だらけになって落ち込んでもいても、時は同じように流れるのだから、たとえ一年後や二年後に転移があったとしても、早期発見ができて治療をしている今を大切にするべきだ。

僕の父も、肺がんだった。

父は小細胞癌という手術ができない肺がんだった。そして、がん告知はただちに死の宣告という時代だった。死を覚悟した父が残していった言葉は、「モルヒネか?」だった。


             *   *   *


長らく肝臓を患っていた亡父は、晩年、五種類の薬を服用していた。

毎月の定期検診から帰ると、それぞれの薬を几帳面にハサミで切り離し、食前・食後の区別をして、飲みやすいように間仕切りのある専用のボックスに保管していた。

酒は飲めない。相当な下戸。

禁断症状に苦しみながら、タバコもきっぱりとやめた。

肝臓には人一倍神経をつかった。

「あんまり背伸びせんとな。身の丈に合った生き方せいよ。」

父は口癖のように言っていた。

役所勤めの無趣味な男だった。

七時半に出勤し、五時に仕事を終え、まっすぐに帰宅する。

プロ野球が何よりも好きであり、大の巨人ファンだった。地方局のテレビ中継がないときには、遠い基地局のラジオに周波数を合わせ雑音の多い実況を聞いていた。

サイフォンで淹れるコーヒーを好み、アルコールランプでお湯を沸かし、豆を挽き、じっくりとコーヒーを落とす。

砂糖少々、ミルク少々。

巨人が勝てば大きめのコーヒーカップをうまそうにすする。

日曜日には洗車をし、ガソリンスタンドの店員が感心するほど軽自動車をワックスで磨き上げた。

父の死因は肺ガンだった。

手術をしても助かる見込みはなかった。小さなガン細胞が両肺に無数に点在していた。

レントゲンを撮ると肺に痰が堆積し影になっていた。痛々しい父の胸の写真を僕は母と一緒に見た。

「小細胞性肺ガンのほとんどの患者さんに対し、現在では治癒を望むことは困難です。」

悔しいくらい若い主治医から遠回しに死の宣告を受けた。

「あの人は、ガンと聞くと弱まるで、言わんといてください。」

母が、気丈に言った。

「結核や言うて、嘘ついてもらえませんやろか。」

当時、ガンは死に至る病だった。

ガンの告知は死の宣告だった。

母も僕も、互いに結核だという嘘が事実であってほしいと強く願った。

父は、ずっと市民病院に通っていた。

肝臓の持病を毎月検査した。食前食後に五種類の薬を飲んだ。

肝臓によいからとシジミの味噌汁を毎日母につくらせた。

小柴胡湯(しょうさいこと)という漢方がよいと聞けば、その日から大好きなコーヒーの代わりに煎じて飲んだ。

体には家族の誰よりも神経をつかった。

心の平静も大切だと、厄年を過ぎてからは隣町の禅寺に通い毎週末に座禅を組んだ。

しかし、死因は肺ガンだった。

病魔は瞬くうちに父の体を蝕んだ。

歩くことが覚束なくなった。床から起き上がれなくなった。

咳き込んでも痰が吐けず、看護師がバキュームで強引に吸引した。

一ヶ月後、母は最後の処方を医師に頼んだ。


「モルヒネか?」

父が問いかけたとき、母はいなかった。

枕元にいた僕は聞きとれなかったふりをしたが、

「その点滴、モルヒネか?急に楽になったで、モルヒネなんやろうな。」

父は繰り返し、さらに尋ねた。

「ガンか?」

僕は何も言わなかった。何も言えなかった。

「そうか。ガンか。そうやったか。」

父は目を閉じて身じろぎもしなかった。

そして、

「ようだましてくれたのう。」

思いがけずニコリと笑った。

「よう、だましたのう。何にも気づかんかったで。そうか、そうか。見事にだましてくれたのう。あと五年、あと五年は、生きたかったけどのう。」

僕は父の枕元でぐちゃぐちゃになって泣いた。


享年六十四歳。

父は役所に長く勤めた。

決して背伸びをせず、等身大に生き抜いた。


             *   *   *


父が亡くなったのは2000年1月のことだった。

劇的に進歩している肺がん治療の最前線においては、10年ほど前には死に直面していた病状であっても、今ならば回復が見込める治療ができることがある。

親孝行をひとつもできなかった僕は、

「今ならば、父もきっと ... 」

そう思わずにはいられない。

この頃、その父が僕に「お前も肺がんだぞ」と教えてくれたように感じる。


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