虎と馬

 僕は、昭和49年5月27日の午前5時28分にこの世界に生まれてきた。

 寅年生まれで今年43歳になった。

 人に裏切られたことや間違ったことも数多く行ってきたかもしれない。

 幼い頃の夢は、プロ野球選手 巨人の星に影響されていた。

 少年ジャンプを読むようになりキャプテン翼に影響されてサッカー選手もよかったのだが中学校にはサッカー部が存在していなかった。

 この当時にサッカー部があれば日本の遠藤として世界の選手と闘っていたことだろうと今でも時々考えてしまう。

 

 中学校一年生の時には、高田工業高等学校の建築科に入学して建築士になることを夢見ていたのだが夢というものは往々に叶わないことが多く私の周り環境が悪い方向に傾いていくことになり勉強することから逸脱してしまい学校の生成期は右肩下がりで悪い人間との交流が始まったことにより勉強そっちのけでゲームセンターやビリヤード、ボーリングに当時の流行の遊びに時間と足を引っ張られるようになってしまったことにより希望していた高校に当然ながら進むことが出来ずに学費の高い私立の高等学校を選択しなければならなくなってしまったのである。

 私の家は、経済的に裕福でなかったために学費を工面することが難しいのではないだろうかと危惧し続けていて入学した当初から退学するために何をすればいいのかを毎日毎日考え続けていたのであった。

 私は、自分の頭が悪いという認識はなかった。

 入学して数ヶ月したときに原付免許を一緒に取りにいこうと誘われて数日間勉強しただけで一発で合格することが出来たので理解力というものが長じていたことは認識することが出来ていた。

 しかし、原付免許を取得したことで運命を捻じ曲げることになってしまったというもの事実である。

 運転免許を取得したことにより母親が、原付バイクを購入してくれたのだが中古の原付バイクでバイクの前面に目玉が二つ貼られていて瞬時にこの目玉が自分に不運を齎しそうだと脳裏に浮かんでいたのであった。

 当時は、眼をつけたつけないで喧嘩やトラブルに発展している映画や漫画が流行っていたので、この目玉が相手に気付かれると喧嘩やトラブルの原因になりそうだといやな予感と共に予見することが出来ていたのである。

 そのバイクに乗り始めて数日後に案の定トラブルに巻き込まれてしまったのである。

 通学路の途中で、何人かの高校生が屯していて「古瀬学」という人間の存在が目に留まりつい声をかけてしまったのである。

 その屯している集団に近づいていくと突然一人の人間が殴りかかってきて私は左目を殴られてしまっていたのである。

 その屯している人間は、新潟県立高田農業高等学校のバスケ部の生徒だったらしく後日高田農業高等学校の体育館に金を持って来いと要求荒れたのであった。

 この際に私は、友人と共に行くことになり二人で1万円を恐喝されることになってした待ったのである。

 私は、その要求された5、000円を同級生に借りて用立てることになったのだが、この5,000円を貸してくれなければ高田農業高等学校に届けにいくこともなかったのだが、なぜかこの同級生はお金を貸してくれたのであった。

 困っているようだったから貸してくれたというのもおかしな話なもので、この行為がなければ恐喝されたという事実もなくただ通学路で殴られたという話で終わっていたのだが、そこから私の転落人生が始まってしまったのである。

 左目を殴られたことにより左目を腫らした状態で通学していたのだが担任の先生や副担任は気付く様子もなく「どうしたんだその左目」という言葉を期待していたのだが、その言葉もなかったので学校や先生への不信感を持つことになり学校という物の意味をを見失ってしまったのである。

 悪いことは続くもので、通学を続けると他のクラスの琴線に触れることがあったようで屋上に呼び出されて因縁をつけられて殴られるという事態がおきたのであった。

 私を屋上に連れて行った集団は、その時の行動をどう捉えていたのかが謎であったのである。

 私を殴った生徒は、停学が怖かったのか先生にいうなよなと口走っていたのであった。

 当時の私は、少年マガジンを読んでいてカメレオンという漫画の中で捨て身で復習するという登場人物がいることを知っていたので、自分もそれと同じように復習するべきだとある程度覚悟を決めていたのだが、剣道の授業で私を屋上に呼び出した生徒の仲間と相対しそうになりその刹那脳裏によぎったのが、竹刀で喉を突いてやろうという考えだったのである。 

 幸いなのか分からないが剣道の順番は相対する前に終わってしまったのだが、学校に通い続けて復讐することを考え続けるのは、どうなんだろうと悩むようになり弁当を持って学校に行くふりをしながら時間だけが過ぎていき学校に行っていないと言う事が表面化して、なぜ学校に行かないのだと母親に問われた時に復讐を毎日考えて学校に通学しているとは、伝えることが出来ずただ漠然と学校を辞めると伝えて学校を自主退学することになったのである。


 16歳で高校を退学した私は、すぐに働き口を探しはじめて近所のモンマート田村というところでアルバイトさせてもらえることになったのだが、一週間程でアルバイトに行く気になれなくなってしまったのである。

 原因の一つは、掃除をしている拍子にお酒の入っている酒瓶を割ってしまったことで罪悪感にさいなまれてしまったことである。

 割ってしまった時に給料から差し引くとか言ってもらえていれば罪悪感にさいなまれなかったのだが

その一言がなかったことによって失敗を引きずり続けてしまい心理的負担になってしまっていたのである。

 二つ目は、万引きしそうだから気をつけてみておいてといわれたのが中学校の同級生であったことである。

 三つ目は、一番心の傷なっていることなのだが歩いて3分の道のりの途中で警察官に不審者として職務質問を受けたことによって決定的なダメージを与えられてしまったのであった。

 そのときの警察官が、なにかしらのフォローをしてくれていれば不審者というレッテルを貼られたままの心理状態ではなかったのだが、いまでも忘れられない出来事で現時点においても自身が不審者であるという可能性を捨て切れていないのである。

 

 私の住んでいる場所は、上越市が運営している市営アパートで低所得者層が暮らしている地域で過去にスズキのウルフという原付バイクを二度盗まれている地域なのである。

 一度目は、帰ってきて整備に出して5万円以上請求されて二度目に関しては、いまだに変ええてこない状況にあるしもうスクラップにされていることだろうと考えられる。

 そのバイクは、新井のオーモリラーメンで働いている時に昔すんでいた所の自転車やで月々4万円を支払って購入した原付バイクであった。

 まさに血と汗の涙の結晶であったが、賞味2年程で盗まれてなくなってしまったのであった。

 いまだに盗まれた理由が分からないしどうゆう人間が盗みを働いたのかもわからず仕舞いである。

 

 まあ単純に住んでいる場所が、悪いという結論につきるのだろう。

 


 

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