これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(7)

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呼吸器内科の外来の待合所では、キャリーバックのように酸素ボンベを引いて歩き、鼻に細いチューブを装着してボンベから供給される酸素を吸って歩く人がいたり、胸に直径1センチほどのチューブが差し込まれたドレーンと呼ばれる医療機器を引いて歩く人がいたり、肺に疾患のある患者特有の光景をよく見かける。

圧倒的に中高年が多い。56歳の僕は若いほうかもしれない。

それでも、時々、場違いなような若い女性が診察室に入っていくこともある。若くして発症したのだろうかと思う。高齢の父親らしい男性を囲んで一度に3、4人の人が診察室から出てくるときもある。家族が一緒に命の宣告を聞いたのだろうかと思う。看護師にCTの撮影の手順を聞いている人がいたり、アンケートを書いている人もいたりする。

二年前、看護師に促され、僕もそのアンケートを書いた。

そのときの気持ちを消化するためには、一年がかかった。一年後、僕は、中学生になった一人娘に、「父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙」を書いた。

あのとき、一気に空っぽになった気持ちを今も鮮明に覚えている。

肺がんは、さまざまな人や家族を一気に劇的なドラマに引き込んでいく。


   *    *    *


去年の夏、父さんは肺がんになったよね。

レントゲン検査をしたら影が見つかった。それでも早期発見だったから、手術をして、がんを切りとることができて、ほんとうに運がよかったと思う。そのときは生まれて初めて自分が死ぬことを考えたよ。だから、それからの一年は、それまでとは全然違っていたし、一日一日がとても大切なものになった。

そのことを今は忘れかけているように思う。それに、もしかするとこうしている間にもがんが転移して再発するかしれないから、普通の人よりはずっと、これからまた何かがある可能性が高いとも思う。まだまだ話したいことだってたくさんある。だから、父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙を、正直に書いておこうと決めたんだ。

あのとき、肺がんだと日赤の先生に言われても、自分のことのようには感じなかったな。

誰のことを言っているんだろうかというくらいに、そのときには、ものすごく静かな気持ちで聞いていたと思うよ。命が危ないかもしれないと医者から言われるなんてことは、一生の間でもそんなにないことだから、きっとそういうときには、皆、よくわからない空白の感情のまま受けとめるものなんだろうな。

「右肺上葉部の腫瘍は、肺がんの可能性が高いです。」

呼吸器内科の先生は、クールなトーンでそう言ったし、父さんも他人事のように聞いていた。

だから、診察室の中では、悲しいとも、辛いとも思わなかった。父さんには、胸が苦しいとか、咳が止まらないとかいう自覚症状がまったくなかったから尚更だった。こんなに元気なのに、普通に生活できているのに、どこが肺がんなんだろうかという感じだったよ。

それでも、あの日、それからのことは、今でもはっきりと覚えている。

診察室から出て廊下で待つように先生に言われて、これが「がん告知」というものなんだろうか、こんなにぼんやりとしたものなんだろうかと思いあぐねながら待っていると、看護師がやってきて、

「アンケートをお願いしたいのですが、たくさん質問があります。書けるところだけでもいいので書いてください。」

10ページくらいあった。ボリュームがあるアンケートだった。これからの治療方針を立てるにあたっての意思の確認のようだった。全部真剣に考えて答えるのは大変だと思いながら読み進めていくと、こんな質問があった。

「命にかかわる重大な話を聞くときには、あなたは、どうしたいですか?

①一人で聞く / ②配偶者と一緒に聞く / ③配偶者に聞いてもらう / ④家族に聞いてもらう」

ドキリとした。

「あなたは死ぬかもしれないんですよ」と書いてあるような気がした。

先生ががんだと言っても切実に感じなかったけれでも、このときようやく自分が「がん患者」なんだということを自覚したんだ。

急に肌寒くなった。鳥肌が立った。

胸がドキドキするのを感じながら、「配偶者と一緒に聞く」を選ぶと、母さんの顔が浮かんできた。

そうしたら、泣けてきた。泣けて、泣けて、どうしようもなくなった。

父さんはほんとうは怖かったんだ。すごく怖​かったんだ。だから、先生の言うことを聞かないようにしていたんだ。とても受けとめきれなかったんだ。

あの日、父さんは、ずるずると鼻をすすりながら、アンケートを書いたんだ。


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