自分を知る

 今日は、ハローワークに行って公共職業訓練を受講できるか相談してきた。

 私は一年前に、精神障がい者のパソコン実務化講習を受講したのである。

 受講したのはマイクロソフト オフィス 2010のワードとエクセルとJW-CADとビジネスマナーだったのだが、家族との行き違いと手足の自由が利きづらいという理由で資格検定を受検することを諦めたのである。

 

 その講習を終了した後、登録していた派遣会社から石油ファンヒーターを作る会社を紹介され働き始めたのだが、手足の違和感がありラインの一端を担えるほど機敏に動けないこと自覚して電動ドライバーの作業からフックに部品を仕掛ける仕事に変えてもらったのだが、繁忙期が終わるころにはその仕事の需要はなくなり契約を打ち切られることになった。

 私は、上絵牛役所の福祉課の担当者に事情を説明して生活保護を再度受給する事になったのだが、ただ生活保護を受給するということでは、市ね税金を納めている人達に忍びないので少しでも市の財政の負担を減らすことを考えて当時所持していた精神保健福祉手帳を変換することにしたのである。

 

 精神保健福祉手帳を乗っている状態で生活保護を受給する事になると障がい者加算という仕組みで2万円程多く支給されるのでまずその部分から減らして行く事にしたのであった。

 

 私は生活保護か脱却するために色々な事をしてきたと思っている。

 受給し始めたと憂い書は、ただ漠然と精神病患者になってしまい通所授産施設に関わってしまい働いていない期間が出来てしまったことや精神病への偏見などを気にしてしまったことでsyくぁかイ復帰することに対して臆病になり精神病という現実を隠さなければならないというストレスが加わり健常者としての就職活動は出来なかったのである。

 

 しかし、私はある時期に精神科病院に通院していても病気は治らないし通院するストレスが加わりまともな生活が出来ないと認識したことで通院をやめて自らアルバイト先を見つけて働き始めて生活保護から脱出できたのだが、アルバイト先での対人関係や将来への不安から転職をしてしまった。

 その転職先は、昔働いていた会社の上司が起業したコンサルティング会社で自分はラーメン居酒屋の出前要員と焼酎バーの店員兼スタッフの送迎ドライバーをやることになったのだが、昼間のラーメン居酒屋の店主が、店のアルバイトのこと懇ろになってしまい店主の扱い方に困惑させられてしまっていたのである。

 店主と懇ろになったアルバイトの女の子は、どこかの組の若頭の娘さんだったために彼女のお父さんは毎日のように来店していて常連さんという立場にいたようだった。

 自分もカウンターの中にいたので店主のことや娘さんのこと組みの人間のことで色々考えるところがあるだろうことは予見していて数日もしないうちに自分は目をかけられるようになっていた気がする。

 暴力団にスカウトされていたわけではないのだが、貧乏して位相なのは見て取れていた王で気にしてくれていたようであった。








著者のEndo Osamuさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。