これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(9)

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僕の右胸には5センチほどの手術の痕がある。それと2センチの痕が2つ。肋骨の間にメスを入れ、胸腔鏡という小型カメラと肺を切り取る電気メスを挿しこんだから。肋骨に沿うように切ったその痕は、今では普通に立って腕の下に隠れるくらい小さい。かつては30センチも開胸し、肋骨を2、3本切断していたというのだから医療の最前線は日進月歩だ。

胸腔鏡下手術。

がんに蝕まれた肺の一部を切除し、リンパ節も郭清する。手術の傷は小さく、患者のQOL(quality of life)の低下を最小限にとどめる。

2年前、僕は、その手術の前々日に入院した。

全身麻酔、分離換気、技術的に可能であれば胸腔鏡下手術。術中に迅速に病理診断を行い、良性である場合には手術を終わる。また逆に悪性であり、かつ転移が認められ進行している場合にも、一旦、手術を終わる。そうでなければ、そのまま引き続き手術をし、右上葉を切除すると共に、転移に対する処置としてリンパ節を郭清する。

病室には点滴を吊るすスタンド、リクライニングベッド、カード式の壁掛けテレビ。

真っ白いシーツに横になっていると看護師がやってきて、

「ICUに持っていくもの、お預かりしますね。」

集中治療室、ICU(Intensive Care Unit)。

あらかじめ準備してきたものは、バスタオル2枚、タオル3枚、ティッシュペーパー 1箱、吸い飲み、ペットボトルの水500mlのほか、箸、スプーン、歯磨きセット。それに、大人用紙おむつ2つ。僕は望まなかったが、もし希望があれば腕時計も。24時間体制で治療が行われるICUには時計がなく、昼夜の区別がつくにくいので何時かがわからないから。

「痛みに慣れてきて、少し余裕が出てくるとね、どれくらい時間が経ったのかがわからないことを苦痛に感じる患者さんもいるんですよ。」

このとき、そんなことあるものかと思って聞いていたが、術後、ICUでの一夜には、どれくらい時間が経ったのか、夜が明けるまで、あとどれくらい時間がかかるのかがわからないという苦痛を僕は切実に感じることになった。

手術の前日は、思いのほか慌ただしかった。

朝早く看護師がバイタルデータをとりにやってきた。手際よく体温を測り、血圧を測った。

「よく眠れましたか?どうですか?」

看護師に問われて、

「何もありませんね。」

無頓着に答えた。

このときにも、眠れないことなどあるのだろうかと聞き流した。ここから徐々に経験したことのない強烈な不安を感じることになっていくとは思っていなかったから。

看護師はニコリと笑って、

「もし眠れないようなときには、睡眠剤を出しますからね。」

朝食後、麻酔科医が来た。

「明日、麻酔を担当します。」

細身の男性の麻酔科医だった。最善を尽くすから大丈夫だというようなことを言ったのだと思うが、あまり記憶にない。

しばらくすると、歯科医がマウスピースを確かめにきた。

全身麻酔は酸素の通り道として気管の中に管を入れる。そのために歯がぐらついたり、抜けたりする可能性があるので、入院前に口腔歯科に行きマウスピースをつくっていた。

「手術後にまた歯を見にきますね。」

明日の手術を担当するという看護師があいさつに​来た。

いかにも手術室の修羅場を潜り抜けてきたという、しっかりとした感じの女性だった。

昼食後、今度は、床ずれの防止について説明にきた。

いろいろと説明を聞いたが、このときには、僕はもう耳に何も入らず、何も残らなかった。あれこれと考えたり、思ったり、反応する間もなく、どんどん話が流れていった。聞こうとしても耳に入らない。不思議な経験だった。

その後、

「シャワーしてください。右わきの毛を剃っておいてくださいね。」

看護師に促され、

「夕食ですよ。」

僕とは無関係にまわりが動いていく。

もしかすると、眠れなくなるのではないかと思えてくる。

だから、自分でも思いがけず、反射的にナースコールを押して、睡眠剤をもらった。

僕は内心、実はとても緊張していて、強がっていても、ほんとうは泣き出しそうになっていたのだと思う。その1ヶ月前のがん告知から手術前夜までのことを消化しきれずに、吐きそうになっていたのだと思う。だから、そのときには人の話がもう入ってこなくなっていたんだ。

その日、一人娘が小学校の帰りに立ち寄って撮ってくれた写真がある。今見ると、その顔はとても厳しい。

笑っているような、泣いているような。

そして、じっと何かを思いつめているような 。

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松本 晃一

肺がんに負けるもんか!

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