海外おひとりさま駐在食べ物記 その1
60年近い人生の中で2回ほど海外に駐在したことがある。1回目は未だ新卒で入社した会社で5年過ぎた頃。もう一回は、もう40歳に手が届こうと言う時。どちらにも共通すること、それは"単身赴任"。
新卒で入った会社は海運会社。
日本には殆ど資源が無いので外国から輸入してくる必要がある。
そして国内で製造した製品を海外で売りさばいて、輸入する原料の代金や国内で暮らす人々の生活費を得ている。
入社した船会社は主に石炭や鉄鉱石、材木や穀物などの原料の輸送と、鋼材の輸出をしていた。
今は新日鉄住金となってしまった住金、住友金属工業の原料の半分を運んでいた。
但し、住金の荷物だけでは日本向きの物しかなかったり、あっても日本から鋼材を輸出した帰りの荷物がなかったりで、結局、住金以外の荷主の荷物も引き受けて世界中で船を動かしていた。
そんな中、北米のアラスカ州やワシントン州からの材木が効率の良い貨物として位置付けを増していった。燃料向けに木を燃やして不足気味になっていた中国向けもかなりの量を輸入するようになっていた。
そのような船の船長や積み地や揚げ地の代理店に指示を出して、効率的かつ安全な航海をするのが「運航」という仕事。航空機の管制官に似通ったところもある仕事だ。
この運航のついたのは入社して5年目。
それまで「管理」という経営企画をする部署にいて中期経営計画や予算の作成をしていて、営業を始めとする各部の部長相手に数字をグリグリと押し付けて、役員に報告するような仕事をして来た。
流石に新入社員の時からこれをやっていたわけだから、自分でも「このままでは現場を知らない頭でっかちになってしまう。」との危機感が芽生えて来て、自ら手を上げての異動だった。
運航に配属された社員は直ぐに担当船を数隻任せられる。
先輩に指導してもらうのだが、当時あったテレックス、今で言えばEメールであろうが、の文面は、課長に添削してもらった後でないと配信できない決まりだった。
恐る恐る、文面を見せると真っ赤に直されて帰ってくる日々。
時には、「これでXX大学出てんのか?」と罵声も。
因みに、この課長もXX大学卒業と後で知ったが。
そんな課長がある日の夕方、ボソッと尋ねてきた。
「今、お前がいなくなって困る奴はいないよな?」
(なんて失礼な事を言うのだろう?)
更に、「自分の飯くらい作れるんだよな?」
ここまで来ると流石に唯の皮肉ではない事が分かる。
そう、アメリカはワシントン州、と言っても東岸のワシントンDCではなく、西岸のかつてイチローがプレーしていたシアトル・マリナーズの本拠地、への長期出張の打診だった。
収益性の観点から重要度が増している北米からの材木輸送。
ところがこれが荷主のクレームの山。
荷主が用意する材木の品質で積むことのできる材木の量が変わるので運賃は一隻幾ら。
例えば沈木と言って水に沈むような材木は重量制限に引っ掛かり、嵩ばかり大きい材木はスペースを取ってしまう。
ところが荷主にしてみれば沢山積めなかったは船の責任との主張。
荷主も総合商社から街の大きな材木商まで様々。
滞船料で揉めていた荷主は現金数百万円を風呂敷に包んで持って来て、
「領収書切ってくれ」と雄叫び。その名もタイガーXX。嘘のようだが名刺にそう書いてあった。
この様な荷主のクレームの対応をするもの大きな目的の一つ。
困ったことに任期は3ヶ月から1年くらい。
当時は国際宅急便もなかったので急遽購入した人間一人入れる様なスーツケースに当座の着替えなどを詰め込んで旅立った。
ニューヨーク経由でシアトルへ乗り入れ。
空港には寄港する船を訪問して荷物の積み揚げを監督する船長資格のある社員が迎えに来てくれていた。空港近くにある代理店の一角を間借りして駐在員事務所としており、自分もそこに机を置かせてもらった。
住居は最初の数日間はホテルともモーテルとも判断が付かない宿に宿泊し、その後はキャプテン(船長の意味)が契約してくれていた丘の上に位置する大きなアパート群の一室に移った。
1ベットルームでキッチンとリビングルームがあり、バスタブ付きのシャワーも有る。
冷蔵庫、電子レンジはあるが、TV、洗濯機は無い。
長期出張でいつ帰るか分からないからとキャプテンは言う。
キャプテンと一緒にレンタカー屋に行き、まだ動くのが不思議なフォードの車を借りる。
メーターを見ると月まで到達していた。
そしてショッピングモールへ行って、フライパンに鍋、食器や、洗剤、トイレットペーパーと言った日用品を買い漁った。
さて、ここで問題になったのが食事。
朝食は無しでも大丈夫。オフィスに行けばコーヒーとミルクが有る。
昼食はキャプテンがオフィスにいる時には一緒に近くのモールまで車で。
アメリカらしくハンバーガーから中華料理、メキシカンと様々。
時々、昼前にキャプテンのところに電話が掛かって来ると、それは大抵同業他社の駐在員からの昼食へのお誘い。もちろん私も便乗。
こうなるとどちらが持つかは別として交際費。
行く場所は自然と日本料理屋となります。
うちのオフィスの近くにも一件、寿司屋が有りますが、時間がある時はダウンタウン迄車を飛ばして行きます。所要時間は20分ぐらいでしょうか。
ジャパン・タウン。初めて行った時は驚きました。
宇和島屋という日本食のスーパーが中心にあり、周りに数件の日本食レストラン。
もう30年前になりますが既にくすんで廃れていました。
その中で一番立派に見える店に入ります。
入った所にカウンターバー。ここで待ち合わせをするのですね。
暫くして店内に案内されると琴の音が鳴り響くこと以外は日本の居酒屋の様な作り。
メニューを見て見ると、寿司、刺身から始まって、スキヤキ、鍋焼きうどんと魅力的な品々が並ぶ。
ワシントン州は漁業の中心地でもあるので寿司、刺身は問題ない。
スキヤキもアメリカ牛なので脂が少ないが吉野家の牛鍋の様に健康的。
頼んだ鍋焼きうどんは、はっきり言って外れ。
まず入れ物が銀色の金属製のお皿。このままコンロにかけたのだろう。
汁は明らかに既製品のもの。やたらと甘く、色は真っ黒。
麺も平たく腰がなく、汁を吸って伸びている。
(日本だったらお金は取れないな。)
でも、ここはシアトル十分に通用していて結構注文が入っている。
普段の夜ごはん。最初は自炊も考えたが、仕事が終わってから買い物、料理、食事、片付けと言うのはちょっとしんどい。特に一人だと一回食材を買うと暫く同じものとなってしまう。
どうしても初日に買い込んだインスタント・ラーメンに冷凍のミックス・ベジタブルと卵を入れたものになりがちだった。
それでなくとも冬のシアトルはほぼ毎日雨。
朝起きると朝が降っていて、夕方早い時間から暗くなりまた雨。
そこで思い切って毎日外食とした。
テイクアウトできる店もいくつか、といってもケンタッキー・フライドチキンや日本食のベントウ・ボックスくらい。
ケンタでは、店員の黒人の少年に何度も「xxxx?」と質問されるも分からず、顎でバーベキューソースと普通のとを指されて、どちらかとイライラされたこともある。
ベントウ・ボックスは、巻き寿司やカレー、ラーメン類があったが、味はどれもどうしたらこんなに不味くできるのと言う味。少なくとも日本食ではない。それでも、その味の中に少しでも日本を見出して涙して食べていた。
普通の日はオフィスから自宅のアパートへ帰る途中にある小さなモールに一軒だけあったレストランを我が家 おキッチンにした。アメリカン・レストランとでも言うのだろうか。
スープ、パン に野菜が付いたメインのコースが主で、別途サラダバーがあるのが嬉しかった。
トウデイズ・スペシャル、今日のお勧めが選ぶ面倒がなくて好きだったが、時にはメニューを見てもなんだか分からないことも。聞いて見ると「魚」だと言うと、貝料理。「シェル・フィッシュ」。
ここでビールを一本、バーボンのソーダ割り2杯ぐらい飲んでお終い。
30-40ドルくらいだったから良い客ではあったろう。
チップもそれまで払う習慣がなかったので戸惑い、ケチと思われたくないな、と20-30%。
小銭が貯まると細かいのを全部出してスッキリということも良くやっていた。
困ったというか、寂しかったのは休日。
クリスマスや新年は家族連れで一杯。
それに対してこちらは寂しく一人。
金曜日の夜は近くのモールにある寿司屋にもよく行った。
日本から来た夫婦がやっている店で小さなお嬢さんもいた。
カウンターに座って升酒を飲みながら名物のみる貝、サーモンなどの刺身をつまんで気分だけは日本の様。
たまに来る老夫婦と知り合い人り色々伺うと日本からの移民。
所謂、ガーデナー、庭職人として働いて子供を育てて既に引退したとのこと。
来た当時は本当に働くばかりで大変だったとのこと。兎に角、一生懸命働いたと。
それに比べて息子さんたちは、もうアメリカ人。何か寂しそうでしたが、お二人でしみじみ昔を振り返っているのは微笑ましくも、我々日本人が失ってしまった何かを持っている様に感じた。
ここに通う様になって2ヶ月もすると閉店するまで店にいて、その後、寿司屋夫妻の家に招待されて、束の間の家庭の暖かさを味わうことが多々あった。
ここで一番美味しいと感じたのはなんと言ってもオイスター。生牡蠣だ。
黒人のお兄さんに「ダズン」、これは1ダース、12個と頼むと、手にしたナイフで殻を開けて中身の身をその上に載せてくれる。多いのではと思うかもしれないが、口当たりも良くどんどん行けてしまう。
牡蠣の種類も様々で、一つのプレートには「Matoya」。
これは的矢牡蠣という三重県の志摩の的矢湾で採れる小ぶりの牡蠣。
他にも7ヶ月の任期を終えて日本に帰る帰途に寄ったニューオリンズで食べた生牡蠣も素晴らしい味だった。
しかしながら、帰国して自宅に帰って食べた母の作った料理を食べた時に心から「帰って来た」と思える味だった。
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