これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(10)

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胸腔鏡下手術ができる病状であれば、外科療法ができるステージⅠやⅡということだから、肺がん患者としては幸運だ。ステージⅢやⅣという重い状態ならば外科的な処置はできず、放射線療法や抗がん剤治療などに限られて、時には余命の宣告を受けることにもなるのだから。

「胸腔鏡下手術をして、肺の一部を切除します。転移している可能性のある周囲のリンパ節も郭清します。」

手術の一ヶ月前、幸いにもステージⅠと診断された僕は、呼吸器外科の執刀医から手術のリスクを妻と一緒に聞いた。

執刀医は理路整然と話を進めて、

「標準的な手術であり、有効な治療ですが、それでも手術にはリスクがあります。術中、術後に肺炎などの合併症により死亡したり、恒久的な障害の起こる可能性もあります。このリスクは通常、約1%です。」

1%、100人に1人。

その人数が多いのか少ないのか、確率として高いのか低いのか、わからずに困惑したし、肺の一部を切除するとか、リンパ節も郭清するとか、非日常的なことに直面して、とても息苦しかった。僕は黙り込んだ。

そのとき、妻が、

「あんたは大丈夫やわ。悪運強いし、そんな気がするもん。」

妻はいつもと変わらなかった。

泣けるくらいやさしかった。

     

             *   *   *


手術当日。

この日になっても、咳が出たり、血痰が出るような自覚症状はまったくなかった。睡眠剤を飲んだからか、前夜、寝つきはよく比較的ぐっすりと眠った。ただ、夜明け前に目が覚めてからは、胸騒ぎがして寝付くことはできなかった。

いつもと同じように看護師が来てバイタルデータをとった。

いつもとは違う手術着に着替え、弾性ストッキングを装着した。弾性ストッキングは下肢静脈の血流をよくし、長時間の手術のときに血栓の予防効果がある。

午前8時、妻が来て、

「あんたが麻酔から覚めて目開くまで、のんびり本読んで待っとくわ。」

呼吸器外科の執刀医が来て、脚に注射し、手術をする右胸にマジックでマーキングをした。

「さあ、今日はがんばっていこうな。」

午前9時に全身麻酔。

手術は早ければ3時間ほどで終わる。

全身麻酔から僕が覚醒するのは午後4時頃になる。

病室から手術室へは、看護師に先導され歩いていった。ストレッチャーに乗せられて、流れる天井を見ながら運ばれていくことを勝手に想像していたが全然違っていた。手術室が近づくにつれ、診察室や入院している病室では見ることのない医療機器が多く配置され、消毒液の匂いが少しきついように感じた。

手術を担当すると病室にあいさつに来た看護師が待っていた。

生年月日と名前、リストバンドにより本人であることを確認した。手術室に入ると手術台が目の前にあった。チームを編成している医師も、麻酔科医も担当の看護師も、そこにいたのだろうが、僕には目の前の手術台しか目に入らなかった。

青い手術着の執刀医が奥から現れて、

「はい、松本さん。今日は何の手術ですか?」

思いがけないことを聞かれたので、一瞬、とまどいながら、

「肺がん...。肺がんです。」

「右ですか?左ですか?」

「右です。」

「右のどこですか?」

「右、上葉です。」

執刀医がすべて確認できたというように「はい」と言うと、医師や看護師がいっせいに動いた。手術が始まる。一気に時間が進み始める。僕は手術台に横になって、全身麻酔に身をまかせるしかなかった。

そして、

「入ります。」

一瞬だった。その声を聞いた直後、僕はすぐに意識を失った。


             *   *   *


「6センチ、6センチやよ。」

妻の声が聞こえたとき、昏睡してから7時間が経っていたらしい。僕は混濁した意識の中で、腫瘍は悪性であったことと、その腫瘍が6センチだったということを知った。

「うまくいったって、先生が言っとるよ」

すぐ近くに妻がいることがわかった。

しかし、目を開けることはできず、何か言おうとしても口を動かすことができなかった。どうすれば返事ができるのだろうか、どう返事をすればよいのだろうかと、まとまらない思考回路を探っている内に意識が薄らいでいった。

どれくらい時間が経ったのかわからない。

「きれいに取れたで。きれいに取れたでな。」

今度は外科医の声が聞こえた。

薄く目をあくことができた。集中治療室の天井が見えた。

胸にどすんと鈍い痛みを感じる。

まったく体を動かせない。無性に痛い。身じろぎすることもできない。これまでに経験したことのないとても重い痛みだった。きれいに取れたとは、右肺の上葉を摘出しリンパ節を郭清したたということだとわかった。

「痛いのは必ず治るで。日にち薬やでな。」

外科医の声が遠くなっていく。

それからまた数時間が経ったようだった。

唇がガサガサに乾いていた。

「お水、飲みますか?」

看護師が水差しを口に入れてくれた。

「輸血用に事前にとっていた自己採血の血を、左の太ももの動脈から体の中に戻しています。もう少ししたら、その針を抜きますね。」

いくつものチューブが体のあちこちに差し込まれていて、たくさんの医療機器につながっていた。右の肋骨の間には太いチューブが胸の中に入っていた。

「今は腕や脚にいろいろなものが入っていますけど、朝までに少しずつ抜いていきますからね。」

二度目に覚醒したときよりも意識は戻っていた。

けれども、痛みがいっそう激しくなっていた。

首を動かすことはできたが、集中治療室の天井とまわりの医療機器しか見えなかった。右の肋骨のあたりが、重く、鈍く、痛い。

思わず顔を歪める。

「痛いですか。痛み止めの点滴をしていますからね。」

胸がムカムカして気持ち悪い。

痛い、痛い、痛い。

意識が戻ったり、薄らいだりした。

どれくらいの時間が経っているのか、今が何時なのか、わからないことが苦痛になった。

夢なのか、白い透き通った砂浜を走っている自分を見た。若い頃の妻の手を引いて、もう一方の手にはまだ幼い頃の一人娘を抱いて、逃げ回るように走っている。この幻のような光景を何度も何度も繰り返し見た。

ものすごい数の医療機器に囲まれていた。

ずっと電子音が聞こえていた。


             *   *   *


「ここからは、一刻も早く普通の生活に戻ることです。」

執刀医が来た。

「普通に生活することが、一番のリハビリになります。食事も普通に出ますから、しっかり食べてください。」

僕は、長い夜がようやく開けたことを知った。

「それと、もしできるならば、病室に戻る時には、車椅子を使わずに、自分の足で歩いていってください。」

このとき、僕に迷いはなかった。

体に差し込まれたチューブは、右胸の二本だけになっていた。ひとつは体内の出血を排出するためのもの、もうひとつは体内に痛み止めの薬を注入するためのもの。これらがドレーンという5キロほどの医療機器につながれている。そのドレーンを引きながら歩く。

僕は、執刀医が言ったように、病室まで歩いて戻ることを選んだ。

肺がんになって弱い自分を知った。ずっと弱い意思や情けない気持ちでいた自分を変えたかった。

そのためには絶好の機会だと思った。

廊下の手すりにすがりつきながら、自分の足で、一歩ずつ、ドレーンを引きずって歩いた。容易には体が動かなかった。昨日は普通に歩いてきた病室までの帰り道がとても長かった。踏み出す一歩はとても重かった。それでも、ゆっくりと歩みを進めた。

「お帰りなさい!」

ナースステーションまでたどり着いたとき、そこにいた看護師のひとりが僕を見つけた。いっせいにまわりの看護師が拍手をしてくれた。思いがけない歓迎だった。

嬉しかった。

だから、ごく自然に、僕は、ほんとうに久しぶりに満面の笑みを浮かべた。


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