お世話になっている方に〇〇と言われたことに対する考察。やっぱり私の考えが辿り着く先には〇〇に対する〇〇がある

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宗教観念のない私が繰り広げる独断と偏見の世界


先月下旬のことだった。いつもお世話になっている大好きな方から心の内を打ち明けられた。


尊敬する方
「まるでゴルゴタの丘に向かうイエス・キリストみたい。早くあなたから重い十字架や楔を外してあげたい。」
自分
「ゴルゴタの丘?イエス・キリスト?…って神様だよね?…神様みたい?…私が???」

イエス・キリストについて無知過ぎてどう受け止めて良いのか分からなかった。

「ゴルゴタの丘って何だろう?」

「十字架は磔にされたんだよね?何となくイメージあるけど、キリストと私が似てるの???」

まずネットで調べてみた。イエス・キリスト(神)とナザレのイエス(人間だった頃)の項目が分けられていた。ゴルゴタの丘とは、ナザレのイエスが十字架にかけられるために目指した場所だった。

「その時のイエスと私が似てるの?」

文章を読んだだけでは全体を把握し切れない。


そう思いモヤモヤしていた週の土曜日、偶然つけた池上彰さんのTVでちょうど宗教について解説していた。

ユダヤ教とキリスト教とイスラム教は実は同じ神様が元になっている。ザックリ言うとユダヤ教の決まりを守らないのでキリスト教を作ったのに、キリスト教の決まりを守らないからイスラム教を作ったらしい。これら3つの宗教の聖地が同じなので争いが起こるそうだ。


クリスマスにはケーキを食べお正月には初詣に行く宗教観念のない私からすると、これら3つの宗教が一致団結したら大きな癒しが起こり世界平和に繋がるのではないかと単純に思ってしまった。

元の神様が一緒なら和解し合うことも不可能ではないと思うのだが、互いに自分の信じる宗教こそが1番だと主張する時、そこに争いが起きてしまうのだろうか。


「イエス・キリストとはどんな人物だったのか?」熱心に勉強するつもりはないので2枚のDVDを借りた。 

※以下、作品のネタバレあり。



「Passion」

2004年の作品 監督メル・ギブソン 

キリスト役 ジム・カヴィーゼル よくぞここまで演じ切った。素晴らしい。イケメン!

個人的に母親役のマヤ・モルゲンステルンさんの演技に大竹しのぶさんみたいな凄みを感じた。

Passoinとは神学用語で「受難」イエス・キリストの裁判と処刑における肉体的・精神的苦痛のための言葉である。無知だったのでパッションって情熱と言う意味かと思っていた(反省)

作品の重厚さはこちらに軍配が上がる。凄惨な拷問シーンがリアル過ぎてアメリカ人の女性がショックで亡くなったと言う説がネットにあった。


非常にリアリティを持った拷問シーンは虐待を受けた私にとって自分の記憶と重なる部分が多くあった。

キリストを鞭打ちにしている兵士の歪んだ表情や嘲笑う様子を見て…私が両親に虐待を受けている側で妹が「ざまみろ!」と笑いながら言葉を吐き捨てている様子や、

何かある度に「親に言いつけてやる!怒られればいい!」と勝ち誇った表情で私を脅してくる妹の顔を思い出した。

そして「殺さない程度に」と指示されたのにも関わらず理性で暴力を抑制できない兵士の様子は、まるで自分の両親が歯止めが効かずに私を殴ったり蹴る様子と酷似していた。

繰り返し暴行を加えられることでキリストの手や体が恐怖で震える様子も自分の記憶として身に覚えがあった。

人間の残虐さや加虐の歪みがリアルに表現されており、自分が改めて両親に虐待を受けたことが事実であったと思い起こされた作品だった。

※親に虐待を受けた方やいじめられた経験がある方が観たら、精神的にキツイ作品かと思われます。


人を殺めた罪人を釈放しキリストを十字架に磔にするように皇帝を煽る大衆の集団心理の恐ろしさも表現されていた。権力構造や宗教の在り方も学びになった。

凄惨なシーンの間に垣間見える回想で痛めつけられる前のイエスの顔を見るとホッとする程に、精神的にキツイ作品だった。

ゴルゴタの丘に向かおうとする時点で瀕死に見えるイエスは、それでも十字架に祈りを捧げその体に十字架を背負うのだった。

拷問シーンで既に血まみれで、立つのもやっとの状態にも関わらず兵士に鞭打たれながら時に倒れ、血と共に涎も垂らし、汗も涙も血も区別できな程に彼は心身共に傷つけられている。その姿に鞭を加える兵士は正気の沙汰ではないし、それでも自らを処刑するゴルゴタの丘に向かう彼の精神力は一体どこから来るのだろうか?

この情景のイエスに私の姿を重ねられた方は、どのような気持ちで今まで私を見てくれていたのだろう?

私は崇高な人間ではないし、神の子でもない。もし同じような状況に立たされたら茨の冠を被せられる前に死んでいるだろう。隙あらば言い逃れをして釈放してもらおうとするに違いない。

彼のように自分を磔の刑にしている兵士達のために祈るような器はない。


「父(神)よ彼らを赦したまえ。

彼らは何も知らないのです。」


と言える器があったのならば、自分のことを長年虐待してきた両親と妹のことをとっくの昔に許しているはずだ。


そして私は…実は…大部前から気がついている。彼らが甚大な津波の影響でも死ななかったのは、私が彼らを許すことが自分の魂の成長に繋がると言うことを…。




「隣人を愛し敵を憎めと言う。だが私は言おう。



敵を愛し迫害する者のために祈れ」


この言葉を本当に実現できたら、世界中の争いが無くなるのではなかろうか?








「SON OF GOD」

2013年のアメリカのテレビドラマを映画化。

Passionの作品が重いイメージで黒を基調としているのに対し、この作品は全体的に白を基調としており爽やかな印象を受ける。

キリストがどんなことをしたのかが、ザックリだが分かるようになっている。

歴代のキリスト役で1番イケメンだと言われている俳優さんが若いころのブラッド・ピットのように見えた。時々その顔に見入ってしまう邪念あり。


色々と「なるほどなぁ」と思った。

例えば姦淫罪に問われた女性に対し、当時の法律では石打ちの刑に処すと定められていた。これに対しイエスは


「あなた方の中で罪を犯したことのない者が石を投げなさい」


と周りを諭したのだった。


この世に生を受けてから今日まで1度も過ちを犯したことのない人間などいるのだろうか?


もし仮に「自分は今までの人生で正しいことしかしたことがないし、人に迷惑をかけたことなど1度もない」と思う人がいたとしても、無自覚に誰かを傷つけているかも知れない。

「あなたの持つ正しさとは、常にいかなる時も絶対に正しいのだろうか?」


人が自分の正しさを強く握り締める時、その正義感から誰かや何かを裁いてしまうことがある。


前述した3つの宗教が互いの違いを認め合えば和解に繋がると思うのは、考え方が甘いのだろうか?


姦淫罪の女性は、神が楽園にいた頃にアダムとイヴが禁断の果実を食べた罪が由来のようだ。



キリストの時代にも姦淫罪の女性が存在し、イエスが全ての人間の罪を背負い十字架に架けられたのにも関わらず…現在においても姦淫罪…現代風に言えば不倫をしている女性は多く存在する。

(私は占い師をしている。アプリ鑑定では顔が見えないことの安心からか同様のお悩みを受けることが多い。比率的には女性からの不倫に関するご相談が多い。時折、男性からのご相談もある。)

時代がこんなにも移り変わっているのに同じことが繰り返されているのは、


これが人間の原罪なのだろうか?


何のためにイエスは、あれ程の苦しみに1人で耐えなければならなかったのか?



神とは一体何なのだろうか?





正義の石を人に投げつけるのは実は非常に簡単なのだ。

例えば虐待事件のニュースに対しネットで

「そんな親は死んでしまえ」

「そいつを死刑にしろ」

などと書き込まれているのを目の当たりにすると、非常に複雑な心境になる。もちろん虐待は犯罪であり許し難い行為である。私も長年両親に受けて来た当事者なので尚更その気持ちをよく理解できる。

しかしその犯罪の背景にどのような事情があったのか、その親の成育歴はどうだったのか?など様々な方向性から掘り下げてみなければ真実は掴めない。

仮にその親を死刑にしたところで、この世の中から全ての虐待を排除できる訳ではない。

もう少し言えば「何かを排除しようとすることでは平和的な解決には繋がらないだろう」


今後二度と同じことが起こらないように「今、私たちにどのようなことができるのか」を建設的に考えることの方が大切なのである。


日本では「儒教」の家父長制から家族間で児童虐待が起こるようになったと厚生労働省が明記しているのを以前も記述したが


2016年に日本で公開された映画スポットライト世紀のスクープでは

2001年にマサチューセッツ州ボストンの日刊紙「ボストン・グローブ」紙の報道に基づき

アメリカの新聞社の調査報道班「スポットライト」チームが追ったボストン周辺地域で蔓延していた「カトリック教」神父の子供への性的虐待を暴いた作品となっている。

この映画は映画館に足を運んで観たのだが、教会組織の不正は隠蔽され、それを暴くために様々な苦労を重ねる。結果的にアメリカだけではなく世界中の聖職者による性的虐待のスキャンダルが明るみになったそうだ。


スペインの鬼才と呼ばれる映画監督ペドロ・アルモドバルは自身の半自伝作品「バッド・エデュケーション」の中に抑圧的な「神学校」で神父による性的虐待を盛り込んでいる。彼の生まれた年は1951年だ。彼が少年期には既に神父による性的虐待が存在していたことになる。


日本は「儒教」の影響を受けて家庭内での児童虐待が行われるようになり

アメリカのボストン周辺では「カトリック教」の影響で神父の子供への性的虐待があり

スペインの「神学校」でも神父の子供への性的虐待があった。

他にも様々な国で例えば「儒教 児童虐待」と検索すれば中国や韓国での児童虐待の記事はすぐに見つかる。



「信教の自由はあるが宗教は決して万能ではない」






人間は人間であるがゆえに神や経典のように万能ではなく戒律などが厳し過ぎると無理が生じる。

その歪みのはけ口が立場の弱い存在へと向かってしまうのではないか?


真面目さも正しさも厳しさも度が越えることで、人間としてのバランスを崩してしまうのではないだろうか?



そうだとすれば、ここに打開策を見つけることができれば

世界的に児童虐待を無くすための突破口が見つかるのではなかろうか?



何しろWHOの調査で

全ての大人の4人に1人が子供の頃に体への虐待を受けた経験を持つことが分かっている。


つまりこの発想をひっくり返せば

「多くの人々の経験を活かすことで時代は必ず変化していく」と、大きな可能性を皆が信じてくれるならば


「とてもありがたい」そう願わずにはいられない。








やっぱり私の考えが辿り着く先には「児童虐待」に対する「答え」がある。

これを変態の領域と言わずに何と言おうか最近、ちょっと悩みそうです…

















































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小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

小川 詩織

1976年岩手県生まれ ・3歳~18歳まで両親に虐待を受ける ・2000年 虐待の記憶を取り戻す ・01年 虐待の後遺症で失聴 ・03年 挙式がきっかけでPTSDになる 品川手話サークルに連載した失聴経験が注目され「耳のことで悩まないで」~中途失聴・難聴者のガイドブック~に寄稿

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