1960年代の世田谷

高度成長期が始まったと言われる1960年。この年に私は生まれた。生まれて直ぐに移り住んだのが世田谷区大蔵。都市部に流入する新都民を受け入れる為に、雨後の筍の様に其処此処に建てられていった"団地"だった。

成城学園前から小田急線または世田谷通りからバスで渋谷まで30分ほどで着く「都会」だが、当時は団地の南側には草原や森林、湿地が拡がり、更に多摩川沿には田畑が拡がっていた。

春先にはレンゲが咲き誇る田んぼに小学校の授業で行き、赤蛙や殿様蛙を追いかけた記憶がある。

夏場にはその森林でカブトムシやクワガタが採れたが、落雷に打たれ死んだ人がいるので雷が鳴ったら直ぐに家に帰る様に母にきつく言われていた。実際に雷に打たれた人がいたのかは不明だが、ゴロゴロ、ガガーンという大地に響く落雷の音を聞くと、あっ、誰かに落ちた!と、想像する様になっていた。

団地は我々の言うところの「上の団地」と、坂を下りていく「下の団地」に別れていた。

下の団地に下りていくと崖の隙間から水が湧き出していて小さな川となっているところがあり、夏には遊びの合間にそこで涼を取った。


この様に自然に溢れていた大蔵だったが、世田谷通りの北側には東宝スタジオ、国際放映、円谷プロダクションなどがあり、映画やテレビ番組のロケーションをよく目にした。

小学校への通学途中の道端に怪獣の着ぐるみが座っていたり、人気連続ドラマの登場人物を手の届く距離で見ていたのもこの頃だ。

自分には記憶がないが両親の言うところのでは、団地の南側の湿地では三船敏郎らの時代劇映画のロケーションも行われていた様だ。

円谷プロダクションと言えばウルトラマン。

この頃の円谷プロダクションは、心が広いというか不用心というか、玄関のところに要らないフィルムの切り屑を大きな箱に入れてあり、子供達は勝手に持っていって良いことになっていた。

我々の探すのももちろんウルトラマンや怪獣。

「おーい、こっち来てみろよ。」

一緒に行った友達の一人がみんなに声をかける。

「一体どうしたって言うだよ?」

「いいからこっち来て。すっごいもの見つけたから。」

プロダクションのビルの横を抜けていくとそこには物置の様な建物があった。

扉が少し開いている。

「ここだよ。静かにしないと見つかって怒られるから。」

ここまで案内して来た友達は得意そうに鼻を膨らませながら目で中に入る様に促す。

そこには色々なものが雑多と並べられていた。

怪獣の頭だけの部分やら建物の模型やら。

先の友達が更に目で上の方を見る様に促す。

そこには大きな黄色いぬいぐるみが吊るされていた。

円谷プロダクションには愛くるしい怪獣もいた。

食いしん坊で「バラサ、バラサ」、「シオシオのパー」などの言葉が子供達の間で流行していた。

「ブースカだ。」

今世紀になってからケーブルテレビで再放送されて、グッズを中心に再ブレークしたと聞いた。

その人気者が目の前にいる。

いや正確には吊るされている。

興奮して声が大きすぎたのだろうか、

「こらー。誰かいるのか。こっちは入っちゃダメだ。」

と大きな声が響いてくる。

「いけない、見つかった。」

「逃げるぞ。」

そう声を掛け合って玄関の脇を抜けて、乗って来た自転車にまたがって我々は団地を目指して逃走を開始した。

世田谷通りにたどり着くと目の前には見慣れた団地の建物が重なる様に立っている。

コンクリート製のその建物は堅く四角張っているが、間違いなく我々の家だった。

「おーい。雷が鳴っているぞ。」

「急げ。帰るぞ。」

みんな団地に向かって力強くペダルを踏み出した。

遠くの方からゴロゴロと何かを引きずるかの様な音が響いてくる。


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