これから肺がんを生き抜いていく人たちのために(最終回)

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「松本さん、ただひとつの命の使い方ですよ。」

夏の患者会のとき、70歳の紳士に出会った。とてもやさしそうな人だった。

総合庁舎の会議室で話をした。

手術の後、1年半の間、僕がずっと不安に思っていたことを話してみた。たとえば、毎月、定期健診に通っていれば、いつか必ず「転移が見つかった」という最悪の告知を聞く日がくるだろうということ。そのときにはまた手術をするか、化学療法や放射線治療をしなければならない。だから、定期検診の待ち時間にはいつも憂鬱になり脈拍が上がるということ。

「ただひとつの命の使い方、そのものですね。」

そのとき、その紳士が言ったことを、僕はすぐには理解できなかった。

「0でなくてもいいんですよ。」

その紳士は、肺腺がん。

僕と同じだった。

「0でなくても、1あっても、2あっても、3でもいい。体の中にいくつ『がん』があってもいいんです。」

ステージⅣ。

肺がんは骨盤、それに肩にも転移している。

僕よりずっと悪い。

それなのに、その紳士は、

「それでも、それ以上、肺がんが進行しなければ、転移があっても病状が悪化していかなければ、それでいいんです。今の時代は、肺がんと共に生きることができるのだから、肺がんと共に生きればいいんです。」

その紳士は明るい。

暗さなど微塵もない。

「だから、再発や転移を恐れる必要は、まったくありませんよ。」

「そうは言っても、それでも不安を感じますよね。」

「いいえ。最初だけです。」

「僕は、そうでもないんです。肺がんだと告知され、手術をして、それから1年半、どうすれば不安な気持ちから抜け出せるのだろうかと、ずっと思っています。僕はどうしようもなく弱い人間なんだろうかとも思います。」

「そんなことはありませんよ。」

「そうでしょうか。」

思いきって聞いてみた。

「僕は、どうすればいいのでしょうか?」

紳士は、厳として、

「肺がんになったからと、おそるおそる生きていても、何も楽しくはないのです。だから、肺がんを克服するのではなく、肺がんと共に生きればいいのです。転移が見つかったとしても、そのことを受け入れればいいんです。」

強い。

圧倒的に前向きだ。

「だから、決して再発を恐れるな。転移を恐れるな。このようなことです。そして、たったこれだけのことです。」

ふと気づいたとき、僕は食い入るようにその紳士を見つめていた。

紳士は、涼しい顔で、

「私は、末期がんです。余命半年と言われました。3年前のことです。落ち込みましたよ。悩みましたよ。最初、抗がん剤の点滴をしたときには、吐き気がしたり、髪が抜けるなんてことはあたりまえ。爪がそりかえってきました。そのときは、ずいぶんと泣きましたよ。けれども、宣告された余命より長く生きています。」

顔が赤っぽい。

首にはたくさんの発心ができている。

「抗がん剤のために、もともと色白なんですけれども、日焼けしたみたいでしょう。どうです?でも、そうではないんです。顔が赤いのも、首の発疹も、抗がん剤の副作用です。ただ、この程度のものだったら、どうっていうことはありません。がんと共に生きることができます。」

どうすればそんなに強くなれるのかと思った。そこまで強くなれものかとも思った。

そんな僕の心情を見透かすように、

「私は、それほど強い人間ではありません。ただ、すてきな人生の終わり方をしようと思っています。死ぬまでにしたいことを、いつも3つくらいイメージして、毎日、ワクワクすることをやりたいと思います。それに、人はいつか必ず生死の境界線を越えるのだか​ら、その境界線を越えそうなときの『気づき』を大切にして、毎日、生きていこうと思っています。」

「気づき、ですか?」

「肺がんになって得られた新たな価値観や世界観が、松本さんにもあるでしょう。肺がんになったからこそ得られたもの、知ったこと。たとえば、まわりの人のやさしさ、冷たさ。家族の大切さ、自分の弱さ、強さ。言いたいことがうまく言えないとか、口に出せないとか、これほどまでに弱い自分がいたのかと思うことも、きっとありましたよね?」

「確かに、いくつかそういうことはありました。人の言っていることが全然入ってこなかったり、家族のために生きたい、生き抜きたいと初めて切実に思ったり。」

「それです。繊細な人ほど、そのときキャラクターが表に出ます。そういうことなんです。そういうことがあると、そういうことがわかってくると、人はやさしくなりますよね。それに、自分に厳しくもなりますよね。そうすると、たとえ転移が見つかったとしても、柔らかく、強く、受けとめることもできるのではないかと思います。」

紳士はにこりと微笑んで、

「がんを生き抜くんですよ。それが、ただひとつの命の使い方なんです。」

その通りだと思った。

僕は、自分の意思で、折れない自分、くじけない自分になって、肺がんを生き抜いていくことに決めた。


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