ただひとつの命の使い方

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(このストーリーは「これから肺がんを生き抜いていく人たちのために」全11話を、総集編として再編し、改題したものです。)


幸いにして肺がんを早期発見することができた僕は、右肺上葉部の摘出手術をし、今は毎月定期健診を受けています。術後1年半、今のところ転移所見はなく、闘病体験としてはささやかなものです。それでも自分にとってはいろいろと考えることもありましたので、伝えられることもあるのではないかと思い書きました。


     *   *   *


Chapter Ⅰ


月に1度の定期健診を1年半受けていても、診察室に入る前には脈拍が上がる。待合所の血圧計で測ると、血圧は正常値でも、脈拍は安静にしているのに100拍近くになっていることもある。定期健診に通っていれば、「転移が見つかった」という告知を呼吸器内科の主治医から受ける日がいつかくるだろうと思っているからだ。

病名は、肺がん。

胸腔鏡下手術により、右肺上葉部を切除した。僕は右肺の3分の1がない。

毎月、定期健診では、採血し、胸部レントゲンを撮影する。3ヶ月に1度、造影剤を使ってCT検査もする。診察室に入る前に脈拍が上がるのは、最悪の結果を聞くことに構える防衛本能だと思う。特にCT検査の結果を聞くときには、内心、緊張感はかなり高い。不安と緊張が入り混じる僕のそんな気持ちを察してか、

「転移所見は認められませんね。」

診察室に入ると、呼吸器内科の主治医は、いつも最初にそう言ってくれる。

それでも肺がんからは逃げられない。

肺がんには全快とか完治いうものはなく、5年間、転移がなく再発しなければ「寛解」というそうだ。寛解とは完治とは言えないけれども問題がない程度にまで状態がよくなっているということ。肺がんになって初めてそういう言葉があることを知った。その日までに僕はあと3年半ある。

しかし、どれだけ心配しても、得られるものは何もない。

この頃、地元の肺がんの患者会に行くようになった。初めて行ったとき、幹事役の初老の紳士から聞いたことは、

「三重県の肺がん患者の会は、全国で6つめです。全国にまだ6つしかないんですね。乳がん患者の会は、あちこちにたくさんあるんですけれども。」

僕にはその意味がすぐには理解できなかったが、

「肺がんになると、今まではすぐに死んでしまっていたので、患者会ができなかったんですね。」

ぞくっとした。

その日の会には車座になっていた肺がん患者が10名ほどいたが、自己紹介を始めると、どの人も僕よりもずっと重篤な状態だった。肺から転移した小さな腫瘍が脳に27個も見つかった青年や、化学療法の副作用のためにむくみがひどい女性、肺がんの手術後、腰痛がひどくなったと思ったら骨に転移していた中年の男性。見るからにギリギリの命を生きている高齢の痩せた女性もいた。

それでも、誰もがこれから肺がんを生き抜いていこうとしている。

すごい人たちだと思った。


Chapter Ⅱ


僕の肺がんはリンパ節への転移はなく肺葉の中にとどまっていた。腫瘍の大きさは4.5センチ、外科手術により肺葉を切除することが標準治療とされるステージⅠB期だった。統計的には5年生存率は70%。だから、がんは必ずしも死に至る病ではなく治癒できる可能性が十分にあると言われれば、今ならば相応に受けとめることができる。

けれども、「魔の二週間」と呼ばれるがん告知からの日々は、とても混乱したものだった。何をしようとしても何もできず、どう考えても思考回路はつながらなかった。

肺がんになった人のブログをたくさん読んだ。つらい気持ちをため込まず、家族や友人に打ち明けなさいと書いてあった。途中で途切れているブログもいくつかあった。その人はきっと亡くなったんだと思ったら切実に悲しくなった。僕よりもずっと進んだステージにいながら、これから肺がんを生き抜こうとしている人たちはたくさんいて、勇気をもって治療を行っていることも知った。

患者会のときも、化学療法の副作用に苦しむ女性は微笑し、

「ステージⅠで肺がんが見つかるなんて、ほんとうに幸運です。」

腰骨に転移した中年の男性は僕を励ますように、

「生きることができると思えたら、もう無敵ですよね」

今、僕はステージⅠBの標準治療を行っている。

術後の一ヶ月は痛みに苦しんだ。痛み、息切れ、咳という三重苦を経験した。

僕が肺がんから学んだこと、今もなお学んでいることは、がんは治癒できる病であるということ。焦らず、気長に考えようということ。弱点をたくさん抱えていてもいいということ。現代医学と主治医と家族に感謝すべきだということ。

そして、これから肺がんを生き抜こうとしている人の一人として、前向きな意思をもって、強く生きるべきだということ。


Chapter Ⅲ


肺がんになったのだから、ある日突然この世からいなくなる可能性は普通の人よりは高い。

悲しいことだけれども、このことは自覚はしておいた方いいだろうといつも思う。だからといって不安だらけになって落ち込んでもいても、時は同じように流れるのだから、たとえ一年後や二年後に転移があったとしても、早期発見ができて治療をしている今を大切にするべきだ。

僕の父も、肺がんだった。

父は小細胞癌という手術ができない肺がんだった。そして、がん告知はただちに死の宣告という時代だった。死を覚悟した父が残していった言葉は、「モルヒネか?」だった。


     *   *   *


長らく肝臓を患っていた亡父は、晩年、五種類の薬を服用していた。

毎月の定期検診から帰ると、それぞれの薬を几帳面にハサミで切り離し、食前・食後の区別をして、飲みやすいように間仕切りのある専用のボックスに保管していた。

酒は飲めない。相当な下戸。

禁断症状に苦しみながら、タバコもきっぱりとやめた。

肝臓には人一倍神経をつかった。

「あんまり背伸びせんとな。身の丈に合った生き方せいよ。」

父は口癖のように言っていた。

役所勤めの無趣味な男だった。

七時半に出勤し、五時に仕事を終え、まっすぐに帰宅する。

プロ野球が何よりも好きであり、大の巨人ファンだった。地方局のテレビ中継がないときには、遠い基地局のラジオに周波数を合わせ雑音の多い実況を聞いていた。

サイフォンで淹れるコーヒーを好み、アルコールランプでお湯を沸かし、豆を挽き、じっくりとコーヒーを落とす。

砂糖少々、ミルク少々。

巨人が勝てば大きめのコーヒーカップをうまそうにすする。

日曜日には洗車をし、ガソリンスタンドの店員が感心するほど軽自動車をワックスで磨き上げた。

父の死因は肺ガンだった。

手術をしても助かる見込みはなかった。小さなガン細胞が両肺に無数に点在していた。

レントゲンを撮ると肺に痰が堆積し影になっていた。痛々しい父の胸の写真を僕は母と一緒に見た。

「小細胞性肺ガンのほとんどの患者さんに対し、現在では治癒を望むことは困難です。」

悔しいくらい若い主治医から遠回しに死の宣告を受けた。

「あの人は、ガンと聞くと弱まるで、言わんといてください。」

母が、気丈に言った。

「結核や言うて、嘘ついてもらえませんやろか。」

当時、ガンは死に至る病だった。

ガンの告知は死の宣告だった。

母も僕も、互いに結核だという嘘が事実であってほしいと強く願った。

父は、ずっと市民病院に通っていた。

肝臓の持病を毎月検査した。食前食後に五種類の薬を飲んだ。

肝臓によいからとシジミの味噌汁を毎日母につくらせた。

小柴胡湯(しょうさいこと)という漢方がよいと聞けば、その日から大好きなコーヒーの代わりに煎じて飲んだ。

体には家族の誰よりも神経をつかった。

心の平静も大切だと、厄年を過ぎてからは隣町の禅寺に通い毎週末に座禅を組んだ。

しかし、死因は肺ガンだった。

病魔は瞬くうちに父の体を蝕んだ。

歩くことが覚束なくなった。床から起き上がれなくなった。

咳き込んでも痰が吐けず、看護師がバキュームで強引に吸引した。

一ヶ月後、母は最後の処方を医師に頼んだ。

「モルヒネか?」

父が問いかけたとき、母はいなかった。

枕元にいた僕は聞きとれなかったふりをしたが、

「その点滴、モルヒネか?急に楽になったで、モルヒネなんやろうな。」

父は繰り返し、さらに尋ねた。

「ガンか?」

僕は何も言わなかった。何も言えなかった。

「そうか。ガンか。そうやったか。」

父は目を閉じて身じろぎもしなかった。

そして、

「ようだましてくれたのう。」

思いがけずニコリと笑った。

「よう、だましたのう。何にも気づかんかったで。そうか、そうか。見事にだましてくれたのう。あと五年、あと五年は、生きたかったけどのう。」

僕は父の枕元でぐちゃぐちゃになって泣いた。

享年六十四歳。

父は役所に長く勤めた。

決して背伸びをせず、等身大に生き抜いた。


     *   *   *


父が亡くなったのは2000年1月のことだった。

劇的に進歩している肺がん治療の最前線においては、10年ほど前には死に直面していた病状であっても、今ならば回復が見込める治療ができることがある。

親孝行をひとつもできなかった僕は、

「今ならば、父もきっと ... 」

そう思わずにはいられない。

この頃、その父が僕に「お前も肺がんだぞ」と教えてくれたように感じる。


Chapter Ⅳ


「5年生存率」とは、診断から5年経過後に生存している患者の比率。数多くのがん患者の平均的な数値であり、確率として推測するものだから、患者の余命を決定づけるものではない。あくまでも統計的に導き出されたものだ。けれでも、そうと頭ではわかってはいても、がんの告知を受けた瞬間からは、とても気になる生々しい数値になる。

病期によって余命は大きく変わる。

ステージがⅠ期でも腫瘍が3センチ未満と小さければⅠA期とされ、5年生存率は90パーセント。3センチを超え、5センチ以下で転移がないⅠB期は70パーセント前後。一方、前後リンパ節への転移があったり腫瘍が5センチを超えるⅡ期になると50パーセント前後に下がり、ステージがⅢ期以降になると外科手術が難しくなり、放射線治療などを行っても20パーセント台だとされる。

僕はⅠB期の患者として、その5年生存率を実証している一人だ。

無論、個人差もある。だから、再発や転移がないことを祈りつつ、今できることをやるしかない。たとえば、ストレスをためこまないようにすることや、食べ物のバランスに気をつかい野菜を多く摂ること。何があっても悲観的にならず、いつだって前向きであること。そして、免疫力を高めること。

それに、経口抗がん剤「UFT」を朝昼晩と二年間飲み続けること。

ステージⅠB期では、生存率は10パーセント程度改善することが明らかになっていて、標準治療として服用することが推奨されている。成長の早い細胞にダメージを与えるようにつくられているために、がん細胞以外にも胃腸の粘膜や血液をつくる骨髄細胞などの正常細胞へダメージを与える可能性があるという。

「手術後に服用すれば効果があります。副作用もありますから、途中で飲むことをやめてしまう人もいます。飲みますか?」

術後、一ヶ月を過ぎて主治医に聞かれたとき、僕は、

「飲みます。」

一時、間をおいて答えた。

「飲みます。できることは、全部やろうと決めました。」

5年生存率が10パーセントも延びるのであれば、僕にとっては命の薬だ。

毎食後に飲む。朝食後に2錠、昼食後にも2錠、夕食後には1錠。

点滴や注射によってなど静脈に直接注入する抗がん剤とは違って、飲み薬のUFTは副作用が軽い。それでも飲み始めて一ヶ月もしない内に口内炎ができた。2、3日痛くて不快だと思っている内になくなって、またすぐに別の場所に別の口内炎ができた。3週間ほどその状態が続いたが、それからは出なくなった。

その代わりに下痢がひどくなった。下痢止めを処方してもらい断続的に飲んだ。

頭皮に湿疹ができた。かゆみ止めを処方してもらった。

足の爪が変色した。

右足の人差し指、中指、小指の三本が、急に紫色になっていた。

どうしようかと思いながらもそのままにしていたら、しばらくして中指の爪の上側がぽろりと剥げるようにとれた。人差し指と小指も同じように剥げ落ちて右足が白い爪に戻ると、今度は左足の爪が同じように変色した。親指は左右共に大きな爪の半分が紫色になっている。UFTの副作用として、爪に色素沈着が現れたということらしい。

午後から夕方にかけて、軽い吐き気がして気持ちが悪くなったり、食欲がなくなったりもした。

それでも僕の場合は経口抗がん剤の副作用よりも、術後の外科的な痛みのほうがずっと激しかった。

胸に何かが突き刺さったままになっているのではないか、外科医が肺の中にハサミを置き忘れたのではないかと思うほど、退院して日常生活に戻ってもずっしりと鈍く重く痛かった。痛み止めを毎食後に3ヶ月ほど服用した。だから、UFTを飲み始めたとき副作用を気にとめることもなかった。

その頃、たくさんの薬を飲んでいた。

一番多いときには、7種類の薬を食後に服用していた。そのためか、ずっと体がだるかった。ずっとマスクをしていたので、親しい人たちが心配してくれた。

僕は隠すこともないと思って、

「肺がんになったですよ」

正直に言うと、皆、一様に驚いた。

肺がんは、死に至る病だという先入観が強い昭和生まれの世代だからだと思う。

患者会にボランティアとして参加している市民病院の医師が言っていた。

「どのようなステージであれ、一ヶ月、生き抜いてください。」

とても心の熱い医師だ。

「一ヶ月、生き抜いてくださいよ。一ヶ月、生き抜けば、その間にまた医学は進歩するんです。新しい治療方法が出てくるんですからね。」


ChapterⅤ


肺がんになった僕は献血ができなくなった。

日本赤十字社のホームページによれば、

「悪性腫瘍の診断を受けて治療中の方はもちろん、悪性腫瘍の手術を受けた後の方も、たとえその術後経過が良好でも、原則として献血をご遠慮いただいています。」

このようなことは、肺がんになったからこそ学んだことのひとつだ。

痰に1センチ、すうっと糸を引いたような血の筋が混じっていたことがあった。咳が出たりする症状がなかったから、喉の粘膜に傷がついたんだろうと安直に考えてそのまま放置した。その頃に強度の胸やけがあって、胸やけを治したいと思い開業医を訪ねた。そこで検査をしている内に肺がんが見つかった。

「父は肺がんでした。」

僕が言うと、開業医は、

「レントゲンを撮って、それでもし何かあれば念のためにCTも撮りましょう。」

肺がんを見つけることができたのは偶然だった。がん治療は早期発見に尽きる。これも肺がんになって学んだことだった。そのほかに学んだことは、手術をし目に見える病巣を切除したとしても肺がんは再発率が高いこと、肺や肺以外の臓器に5年以内に再発することも少なくないこと。

主治医が言っていた。

「一番のリハビリは、普通に生活することです。」

術後5日経過後に退院し、10日後に職場に復帰した。

標準治療そのものだった。それでも、僕は明らかにそれまでの自分とは違っていた。驚くほど疲れやすくなったし、それまでのように体を動かせなくなった。薬を常時携帯するようになり、病気であることを自覚するようになった。そして、死を意識するようになったし、敏感にもなった。それに、臆病にもなった。

本を読んでいて、

「仮にあと1年しか生きられないとしたら、あなたは何をして過ごしますか?」

こんな問いかけがあると、ぞくっとする。

切迫した命を生きている人たちはたくさんいる。間一髪で難を逃れた幸運に感謝して、これからは自分自身への対処方法を学び、今できることをやるべきであることは間違いない。仮にあと1年しか生きられないとしても、これから肺がんを生き抜いていく人の一人であるべきだ。

肺がんになったことは、不運かもしれないが、不幸ではない。

心からそう思う。


ChapterⅥ


大切な人を失ったときはとても悲しい。時には人が変わってしまったり、自分を見失ってしまうこともある。それが人生経験のひとつだとを理解はしていても、容易に自分の心の中では消化しきれない。僕にもそんな思い出がある。一時、僕は自分を失っていた。30年以上前のことだけれども、今でもそのときの感覚を覚えている。

その女性は、がんで亡くなった。

がんを死に至る病だと皆が思っていた頃、インフォームド・コンセントという言葉すらなかった頃、そして、僕がまだ多感な二十歳代の頃のことだった。

僕は、自分勝手な思いだけれども、彼女の分もこれから肺がんを生き抜いていきたいと思う。


     *   *   *


夕陽がバックネットの向こうに大きく照り映えると、放課後のグラウンドはいつも鮮やかなオレンジ色に染まった。日暮れまで練習する野球部の金属的な球音が鳴りやみ、一気に静かになる。泥まみれになった一年生がトンボを引きずって整地をし、ベースを片づけていく。そこには最後に必ず女子マネージャーのシルエットがあった。

その一年前、入学式の日に新入生の彼女は一人でやってきた。

「わたし、マネージャーになりたいです。」

それまで女子マネージャーとは無縁であった僕たちはエンジェルが現れたと騒ぎ立てたが、日焼けした汗臭い男たちの中にあって、色白でふっくらとした顔立ちの彼女はとても寡黙だった。

「なんで野球なんや?バスケとか、テニスとか、あるやろうし。」

僕が聞くと、

「先輩、わたし、野球が好きなんです。」

短い言葉で返した。

大声を飛ばし合う僕たちと一緒に黙々とグラウンドを走った。色白の顔はあっという間に真っ黒に日焼けした。毎日、ティーバッティングのトスを何百球も投げ続けた。彼女の腕はパンパンに張った。時々、そっと痛む腕を押さえた。

「たまには休んだらどうや。トスするの、代わったるで。」

僕が言っても聞かなかった。半年経ち、一年が過ぎても、一人投げ続けた。

ある日、僕がグラウンドに出ていくと、いつもよりずっと早く彼女がいた。血相を変えてマスコットバットをビュンビュンと振り回している。

「頼まれたんや。お前、知らんのか?」

キャッチボールをしているときに僕は同級生から聞いた。

紅一点、マネージャーを続けてきた彼女は、女子高生からプレゼントや手紙を野球部員に渡してほしいと頼まれることがあった。その日も手紙を下級生の女子から頼まれた。しかし、渡してほしいと頼まれたその相手にマネージャーの彼女も密かに恋心を抱いていたらしい。

「それならそうと言えばええやろうが。」

僕が言うと、

「鈍いやつやのう。そんなんやから彼女ができんのや。」

同級生はビシッと僕にボールを投げつけた。

夏の甲子園の県予選が始まった。当時は女子マネージャーはベンチに入れなかった。スタンドで観戦し、試合が終わるとベンチ裏に走ってくる。一回戦は大勝した。二回戦も勝ち抜いた。しかし、三回戦では僅差で敗れた。ベンチを出ると、マネージャーが唇を噛みしめて立っていた。

「先輩、よかったです。今日は、今までで一番カッコよかったです!」

両手で顔をおおってシクシク泣きだした。

「わたし、ほんとうは泣きたくないのに、泣きたくないのに…」

僕は、もらい泣きしそうになって思わず塩の噴き出した野球帽を彼女に深くかぶらせた。彼女はさらに深く顔をその帽子にうずめてワッと声をあげて泣いた。

三年生の僕たちの夏が終わった。

それからの僕は受験準備に忙しくなった。後輩の指導に来てほしいと言われていたが、それもできなかった。彼女も女子マネージャーを辞めたようだと人づてに聞いた。学校で顔を合わせることもなくなった。

年賀状がきた。見慣れた文字だった。

「あの帽子、まだあります。臭いです!」

東京に僕が進学してからも、彼女からは翌年も、その翌年も、年賀状をもらった。高校を卒業し、銀行に就職し、早々に結婚して男の子が生まれたという。僕は久しぶりに温かいものに触れたように感じた。

しかし、訃報は突然やってくる。

病院に来てほしいと彼女の夫から思いがけない電話を受けたのは、卒業してから三年目の夏だった。

「野球部の先輩にどうしても会いたいと言ってまして。」

ガンだった。発病を知ってからひと月も経たない内に、若い体のあちこちに転移していた。回復はまったく見込めなかった。

「もう一度だけ会いたいと、何回も。無理を言ってすいません。」

彼女はベッドに横たわり身じろぎもしない。黄色い点滴がいくつもぶら下がり、体中から医療機器のコードが延びていた。

彼女の夫は、僕よりずっと年上の細身の紳士な銀行員だった。

「預かった手紙を渡さずに破り捨てたって、そのことを謝りたいとも言ってました。」

僕は真っ白になった。

立ち尽くしたまま、名前を呼ぶことも、手を握ることもできなかった。なぜこんなことになっているのか、なぜこんなことになってしまったのかが僕にはまったくわからなかった。前のめりに突っ立たまま涙が止まらなくなってボタボタと床に落ちた。

享年二十二歳。もう三十年も前のことになる。

真っ赤な夕陽の中、放課後のエンジェルは、レトロな青春を全速力でかけ抜けた。


Chapter Ⅶ


呼吸器内科の外来の待合所では、キャリーバックのように酸素ボンベを引いて歩き、鼻に細いチューブを装着してボンベから供給される酸素を吸って歩く人がいたり、胸に直径1センチほどのチューブが差し込まれたドレーンと呼ばれる医療機器を引いて歩く人がいたり、肺に疾患のある患者特有の光景をよく見かける。

圧倒的に中高年が多い。56歳の僕は若いほうかもしれない。

それでも、時々、場違いなような若い女性が診察室に入っていくこともある。若くして発症したのだろうかと思う。高齢の父親らしい男性を囲んで一度に3、4人の人が診察室から出てくるときもある。家族が一緒に命の宣告を聞いたのだろうかと思う。看護師にCTの撮影の手順を聞いている人がいたり、アンケートを書いている人もいたりする。

二年前、看護師に促され、僕もそのアンケートを書いた。

そのときの気持ちを消化するためには、一年がかかった。一年後、僕は、中学生になった一人娘に、「父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙」を書いた。

あのとき、一気に空っぽになった気持ちを今も鮮明に覚えている。

肺がんは、さまざまな人や家族を一気に劇的なドラマに引き込んでいく。


     *   *   *


去年の夏、父さんは肺がんになったよね。

レントゲン検査をしたら影が見つかった。それでも早期発見だったから、手術をして、がんを切りとることができて、ほんとうに運がよかったと思う。そのときは生まれて初めて自分が死ぬことを考えたよ。だから、それからの一年は、それまでとは全然違っていたし、一日一日がとても大切なものになった。

そのことを今は忘れかけているように思う。それに、もしかするとこうしている間にもがんが転移して再発するかしれないから、普通の人よりはずっと、これからまた何かがある可能性が高いとも思う。まだまだ話したいことだってたくさんある。だから、父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙を、正直に書いておこうと決めたんだ。

あのとき、肺がんだと日赤の先生に言われても、自分のことのようには感じなかったな。

誰のことを言っているんだろうかというくらいに、そのときには、ものすごく静かな気持ちで聞いていたと思うよ。命が危ないかもしれないと医者から言われるなんてことは、一生の間でもそんなにないことだから、きっとそういうときには、皆、よくわからない空白の感情のまま受けとめるものなんだろうな。

「右肺上葉部の腫瘍は、肺がんの可能性が高いです。」

呼吸器内科の先生は、クールなトーンでそう言ったし、父さんも他人事のように聞いていた。

だから、診察室の中では、悲しいとも、辛いとも思わなかった。父さんには、胸が苦しいとか、咳が止まらないとかいう自覚症状がまったくなかったから尚更だった。こんなに元気なのに、普通に生活できているのに、どこが肺がんなんだろうかという感じだったよ。

それでも、あの日、それからのことは、今でもはっきりと覚えている。

診察室から出て廊下で待つように先生に言われて、これが「がん告知」というものなんだろうか、こんなにぼんやりとしたものなんだろうかと思いあぐねながら待っていると、看護師がやってきて、

「アンケートをお願いしたいのですが、たくさん質問があります。書けるところだけでもいいので書いてください。」

10ページくらいあった。ボリュームがあるアンケートだった。これからの治療方針を立てるにあたっての意思の確認のようだった。全部真剣に考えて答えるのは大変だと思いながら読み進めていくと、こんな質問があった。

「命にかかわる重大な話を聞くときには、あなたは、どうしたいですか?

①1人で聞く / ②配偶者と一緒に聞く / ③配偶者に聞いてもらう / ④家族に聞いてもらう」

ドキリとした。

「あなたは死ぬかもしれないんですよ」と書いてあるような気がした。

先生ががんだと言っても切実に感じなかったけれでも、このときようやく自分が「がん患者」なんだということを自覚したんだ。

急に肌寒くなった。鳥肌が立った。

胸がドキドキするのを感じながら、「配偶者と一緒に聞く」を選ぶと、母さんの顔が浮かんできた。

そうしたら、泣けてきた。泣けて、泣けて、どうしようもなくなった。

父さんはほんとうは怖かったんだ。すごく怖かったんだ。だから、先生の言うことを聞かないようにしていたんだ。とても受けとめきれなかったんだ。

あの日、父さんは、ずるずると鼻をすすりながら、アンケートを書いたんだ。


Chapter Ⅷ


肺がんを生き抜いている人たちは、誰もが生死の境目から生還した英雄だと思う。

再発におびえることもあるだろうし、転移が見つかれば最初のがん告知よりもずっと重い気持ちを受けとめなければならないのに、だからと言って暗い気持ちを抱え込まず、悲しんでばかりいるのでもない。強い気持ちをもって生きている人たちだと思う。

「笑顔が大切なんですよ。笑顔でいてくださいね。」

生き抜く人は、未来にこだわる。

その初老の男性はステージ3の肺腺がんだった。手術後の5年生存率は30~40%。それでも10年近く生き抜いてきたし、これからも生きていこうとしている。

「口角を上げると、免疫力は上がるんです。だから、無理やりにでも、口角を上げましょうよ。笑顔が大切なんだから」

生き抜く人は、ボーダーをつくらない。

肺がんだからという制約をいっさいつくらずに、ごく普通に生きている。大好きなことをやりたいとか、おいしいものを食べたいという話を、初老の男性はとても楽しそうにする。

「自己認識力を高めて、楽しいときには楽しいと気づけるようになることも大切なんですよ。それでね、どんなときでもね、楽しくなることを見つけて、笑顔でいるべきなんですよ。」

そして、積極的に前向きなストーリーを広げていく。

後ろ向きになりがちな僕とは全然違う。

人の命のストーリーほど価値あるものはない。医師にがんだと告げられても、これからの自分の命のストーリーを語り、これからもなお語り続けていこうとしている人たちの考え方や行動力はすごい。

嘘がない。すべてがリアルだ。

心の状態が免疫力に大きく影響することもわかってきているらしい。前向きであることは、免疫力を高めることにつながる。

だから、僕も、渾身の思いを込めて、極上の笑顔を浮かべることに決めた。


ChapterⅨ


僕の右胸には5センチほどの手術の痕がある。それと2センチの痕が2つ。肋骨の間にメスを入れ、胸腔鏡という小型カメラと肺を切り取る電気メスを挿しこんだから。肋骨に沿うように切ったその痕は、今では普通に立って腕の下に隠れるくらい小さい。かつては30センチも開胸し、肋骨を2、3本切断していたというのだから医療の最前線は日進月歩だ。

胸腔鏡下手術。

がんに蝕まれた肺の一部を切除し、リンパ節も郭清する。手術の傷は小さく、患者のQOL(quality of life)の低下を最小限にとどめる。

2年前、僕は、その手術の前々日に入院した。

全身麻酔、分離換気、技術的に可能であれば胸腔鏡下手術。術中に迅速に病理診断を行い、良性である場合には手術を終わる。また逆に悪性であり、かつ転移が認められ進行している場合にも、一旦、手術を終わる。そうでなければ、そのまま引き続き手術をし、右上葉を切除すると共に、転移に対する処置としてリンパ節を郭清する。

病室には点滴を吊るすスタンド、リクライニングベッド、カード式の壁掛けテレビ。

真っ白いシーツに横になっていると看護師がやってきて、

「ICUに持っていくもの、お預かりしますね。」

集中治療室、ICU(Intensive Care Unit)。

あらかじめ準備してきたものは、バスタオル2枚、タオル3枚、ティッシュペーパー 1箱、吸い飲み、ペットボトルの水500mlのほか、箸、スプーン、歯磨きセット。それに、大人用紙おむつ2つ。僕は望まなかったが、もし希望があれば腕時計も。24時間体制で治療が行われるICUには時計がなく、昼夜の区別がつくにくいので何時かがわからないから。

「痛みに慣れてきて、少し余裕が出てくるとね、どれくらい時間が経ったのかがわからないことを苦痛に感じる患者さんもいるんですよ。」

このとき、そんなことあるものかと思って聞いていたが、術後、ICUでの一夜には、どれくらい時間が経ったのか、夜が明けるまで、あとどれくらい時間がかかるのかがわからないという苦痛を僕は切実に感じることになった。

手術の前日は、思いのほか慌ただしかった。

朝早く看護師がバイタルデータをとりにやってきた。手際よく体温を測り、血圧を測った。

「よく眠れましたか?どうですか?」

看護師に問われて、

「何もありませんね。」

無頓着に答えた。

このときにも、眠れないことなどあるのだろうかと聞き流した。ここから徐々に経験したことのない強烈な不安を感じることになっていくとは思っていなかったから。

看護師はニコリと笑って、

「もし眠れないようなときには、睡眠剤を出しますからね。」

朝食後、麻酔科医が来た。

「明日、麻酔を担当します。」

細身の男性の麻酔科医だった。最善を尽くすから大丈夫だというようなことを言ったのだと思うが、あまり記憶にない。

しばらくすると、歯科医がマウスピースを確かめにきた。

全身麻酔は酸素の通り道として気管の中に管を入れる。そのために歯がぐらついたり、抜けたりする可能性があるので、入院前に口腔歯科に行きマウスピースをつくっていた。

「手術後にまた歯を見にきますね。」

明日の手術を担当するという看護師があいさつに来た。

いかにも手術室の修羅場を潜り抜けてきたという、しっかりとした感じの女性だった。

昼食後、今度は、床ずれの防止について説明にきた。

いろいろと説明を聞いたが、このときには、僕はもう耳に何も入らず、何も残らなかった。あれこれと考えたり、思ったり、反応する間もなく、どんどん話が流れていった。聞こうとしても耳に入らない。不思議な経験だった。

その後、

「シャワーしてください。右わきの毛を剃っておいてくださいね。」

看護師に促され、

「夕食ですよ。」

僕とは無関係にまわりが動いていく。

もしかすると、眠れなくなるのではないかと思えてくる。

だから、自分でも思いがけず、反射的にナースコールを押して、睡眠剤をもらった。

僕は内心、実はとても緊張していて、強がっていても、ほんとうは泣き出しそうになっていたのだと思う。その1ヶ月前のがん告知から手術前夜までのことを消化しきれずに、吐きそうになっていたのだと思う。だから、そのときには人の話がもう入ってこなくなっていたんだ。

その日、一人娘が小学校の帰りに立ち寄って撮ってくれた写真がある。今見ると、その顔はとても厳しい。

笑っているような、泣いているような … 。


ChapterⅩ


胸腔鏡下手術ができる病状であれば、外科療法ができるステージⅠやⅡということだから、肺がん患者としては幸運だ。ステージⅢやⅣという重い状態ならば外科的な処置はできず、放射線療法や抗がん剤治療などに限られて、時には余命の宣告を受けることにもなるのだから。

「胸腔鏡下手術をして、肺の一部を切除します。転移している可能性のある周囲のリンパ節も郭清します。」

手術の一ヶ月前、幸いにもステージⅠと診断された僕は、呼吸器外科の執刀医から手術のリスクを妻と一緒に聞いた。

執刀医は理路整然と話を進めて、

「標準的な手術であり、有効な治療ですが、それでも手術にはリスクがあります。術中、術後に肺炎などの合併症により死亡したり、恒久的な障害の起こる可能性もあります。このリスクは通常、約1%です。」

1%、100人に1人。

その人数が多いのか少ないのか、確率として高いのか低いのか、わからずに困惑したし、肺の一部を切除するとか、リンパ節も郭清するとか、非日常的なことに直面して、とても息苦しかった。僕は黙り込んだ。

そのとき、妻が、

「あんたは大丈夫やわ。悪運強いし、そんな気がするもん。」

妻はいつもと変わらなかった。

泣けるくらいやさしかった。


     *   *   *


手術当日。

この日になっても、咳が出たり、血痰が出るような自覚症状はまったくなかった。睡眠剤を飲んだからか、前夜、寝つきはよく比較的ぐっすりと眠った。ただ、夜明け前に目が覚めてからは、胸騒ぎがして寝付くことはできなかった。

いつもと同じように看護師が来てバイタルデータをとった。

いつもとは違う手術着に着替え、弾性ストッキングを装着した。弾性ストッキングは下肢静脈の血流をよくし、長時間の手術のときに血栓の予防効果がある。

午前8時、妻が来て、

「あんたが麻酔から覚めて目開くまで、のんびり本読んで待っとくわ。」

呼吸器外科の執刀医が来て、脚に注射し、手術をする右胸にマジックでマーキングをした。

「さあ、今日はがんばっていこうな。」

午前9時に全身麻酔。

手術は早ければ3時間ほどで終わる。

全身麻酔から僕が覚醒するのは午後4時頃になる。

病室から手術室へは、看護師に先導され歩いていった。ストレッチャーに乗せられて、流れる天井を見ながら運ばれていくことを勝手に想像していたが全然違っていた。手術室が近づくにつれ、診察室や入院している病室では見ることのない医療機器が多く配置され、消毒液の匂いが少しきついように感じた。

手術を担当すると病室にあいさつに来た看護師が待っていた。

生年月日と名前、リストバンドにより本人であることを確認した。手術室に入ると手術台が目の前にあった。チームを編成している医師も、麻酔科医も担当の看護師も、そこにいたのだろうが、僕には目の前の手術台しか目に入らなかった。

青い手術着の執刀医が奥から現れて、

「はい、松本さん。今日は何の手術ですか?」

思いがけないことを聞かれたので、一瞬、とまどいながら、

「肺がん...。肺がんです。」

「右ですか?左ですか?」

「右です。」

「右のどこですか?」

「右、上葉です。」

執刀医がすべて確認できたというように「はい」と言うと、医師や看護師がいっせいに動いた。手術が始まる。一気に時間が進み始める。僕は手術台に横になって、全身麻酔に身をまかせるしかなかった。

そして、

「入ります。」

一瞬だった。その声を聞いた直後、僕はすぐに意識を失った。


     *   *   *


「6センチ、6センチやよ。」

妻の声が聞こえたとき、昏睡してから7時間が経っていたらしい。僕は混濁した意識の中で、腫瘍は悪性であったことと、その腫瘍が6センチだったということを知った。

「うまくいったって、先生が言っとるよ」

すぐ近くに妻がいることがわかった。

しかし、目を開けることはできず、何か言おうとしても口を動かすことができなかった。どうすれば返事ができるのだろうか、どう返事をすればよいのだろうかと、まとまらない思考回路を探っている内に意識が薄らいでいった。

どれくらい時間が経ったのかわからない。

「きれいに取れたで。きれいに取れたでな。」

今度は外科医の声が聞こえた。

薄く目をあくことができた。集中治療室の天井が見えた。

胸にどすんと鈍い痛みを感じる。

まったく体を動かせない。無性に痛い。身じろぎすることもできない。これまでに経験したことのないとても重い痛みだった。きれいに取れたとは、右肺の上葉を摘出しリンパ節を郭清したたということだとわかった。

「痛いのは必ず治るで。日にち薬やでな。」

外科医の声が遠くなっていく。

それからまた数時間が経ったようだった。

唇がガサガサに乾いていた。

「お水、飲みますか?」

看護師が水差しを口に入れてくれた。

「輸血用に事前にとっていた自己採血の血を、左の太ももの動脈から体の中に戻しています。もう少ししたら、その針を抜きますね。」

いくつものチューブが体のあちこちに差し込まれていて、たくさんの医療機器につながっていた。右の肋骨の間には太いチューブが胸の中に入っていた。

「今は腕や脚にいろいろなものが入っていますけど、朝までに少しずつ抜いていきますからね。」

二度目に覚醒したときよりも意識は戻っていた。

けれども、痛みがいっそう激しくなっていた。

首を動かすことはできたが、集中治療室の天井とまわりの医療機器しか見えなかった。右の肋骨のあたりが、重く、鈍く、痛い。

思わず顔を歪める。

「痛いですか。痛み止めの点滴をしていますからね。」

胸がムカムカして気持ち悪い。

痛い、痛い、痛い。

意識が戻ったり、薄らいだりした。

どれくらいの時間が経っているのか、今が何時なのか、わからないことが苦痛になった。

夢なのか、白い透き通った砂浜を走っている自分を見た。若い頃の妻の手を引いて、もう一方の手にはまだ幼い頃の一人娘を抱いて、逃げ回るように走っている。この幻のよう な光景を何度も何度も繰り返し見た。

ものすごい数の医療機器に囲まれていた。

ずっと電子音が聞こえていた。

     *   *   *


「ここからは、一刻も早く普通の生活に戻ることです。」

執刀医が来た。

「普通に生活することが、一番のリハビリになります。食事も普通に出ますから、しっかり食べてください。」

僕は、長い夜がようやく開けたことを知った。

「それと、もしできるならば、病室に戻る時には、車椅子を使わずに、自分の足で歩いていってください。」

このとき、僕に迷いはなかった。

体に差し込まれたチューブは、右胸の二本だけになっていた。ひとつは体内の出血を排出するためのもの、もうひとつは体内に痛み止めの薬を注入するためのもの。これらがドレーンという5キロほどの医療機器につながれている。そのドレーンを引きながら歩く。

僕は、執刀医が言ったように、病室まで歩いて戻ることを選んだ。

肺がんになって弱い自分を知った。ずっと弱い意思や情けない気持ちでいた自分を変えたかった。

そのためには絶好の機会だと思った。

廊下の手すりにすがりつきながら、自分の足で、一歩ずつ、ドレーンを引きずって歩いた。容易には体が動かなかった。昨日は普通に歩いてきた病室までの帰り道がとても長かった。踏み出す一歩はとても重かった。それでも、ゆっくりと歩みを進めた。

「お帰りなさい!」

ナースステーションまでたどり着いたとき、そこにいた看護師のひとりが僕を見つけた。いっせいにまわりの看護師が拍手をしてくれた。思いがけない歓迎だった。

嬉しかった。

だから、ごく自然に、僕は、ほんとうに久しぶりに満面の笑みを浮かべた。


Chapter Ⅺ


「松本さん、ただひとつの命の使い方ですよ。」

夏の患者会のとき、70歳の紳士に出会った。とてもやさしそうな人だった。

総合庁舎の会議室で話をした。

手術の後、1年半の間、僕がずっと不安に思っていたことを話してみた。たとえば、毎月、定期健診に通っていれば、いつか必ず「転移が見つかった」という最悪の告知を聞く日がくるだろうということ。そのときにはまた手術をするか、化学療法や放射線治療をしなければならない。だから、定期検診の待ち時間にはいつも憂鬱になり脈拍が上がるということ。

「ただひとつの命の使い方、そのものですね。」

そのとき、その紳士が言ったことを、僕はすぐには理解できなかった。

「0でなくてもいいんですよ。」

その紳士は、肺腺がん。

僕と同じだった。

「0でなくても、1あっても、2あっても、3でもいい。体の中にいくつ『がん』があってもいいんです。」

ステージⅣ。

肺がんは骨盤、それに肩にも転移している。

僕よりずっと悪い。

それなのに、その紳士は、

「それでも、それ以上、肺がんが進行しなければ、転移があっても病状が悪化していかなければ、それでいいんです。今の時代は、肺がんと共に生きることができるのだから、肺がんと共に生きればいいんです。」

その紳士は明るい。

暗さなど微塵もない。

「だから、再発や転移を恐れる必要は、まったくありませんよ。」

「そうは言っても、それでも不安を感じますよね。」

「いいえ。最初だけです。」

「僕は、そうでもないんです。肺がんだと告知され、手術をして、それから1年半、どうすれば不安な気持ちから抜け出せるのだろうかと、ずっと思っています。僕はどうしようもなく弱い人間なんだろうかとも思います。」

「そんなことはありませんよ。」

「そうでしょうか。」

思いきって聞いてみた。

「僕は、どうすればいいのでしょうか?」

紳士は、厳として、

「肺がんになったからと、おそるおそる生きていても、何も楽しくはないのです。だから、肺がんを克服するのではなく、肺がんと共に生きればいいのです。転移が見つかったとしても、そのことを受け入れればいいんです。」

強い。

圧倒的に前向きだ。

「だから、決して再発を恐れるな。転移を恐れるな。このようなことです。そして、たったこれだけのことです。」

ふと気づいたとき、僕は食い入るようにその紳士を見つめていた。

紳士は、涼しい顔で、

「私は、末期がんです。余命半年と言われました。3年前のことです。落ち込みましたよ。悩みましたよ。最初、抗がん剤の点滴をしたときには、吐き気がしたり、髪が抜けるなんてことはあたりまえ。爪がそりかえってきました。そのときは、ずいぶんと泣きましたよ。けれども、宣告された余命より長く生きています。」

顔が赤っぽい。

首にはたくさんの発心ができている。

「抗がん剤のために、もともと色白なんですけれども、日焼けしたみたいでしょう。どうです?でも、そうではないんです。顔が赤いのも、首の発疹も、抗がん剤の副作用です。ただ、この程度のものだったら、どうっていうことはありません。がんと共に生きることができます。」

どうすればそんなに強くなれるのかと思った。そこまで強くなれものかとも思った。

そんな僕の心情を見透かすように、

「私は、それほど強い人間ではありません。ただ、すてきな人生の終わり方をしようと思っています。死ぬまでにしたいことを、いつも3つくらいイメージして、毎日、ワクワクすることをやりたいと思います。それに、人はいつか必ず生死の境界線を越えるのだから、その境界線を越えそうなときの『気づき』を大切にして、毎日、生きていこうと思っています。」

「気づき、ですか?」

「肺がんになって得られた新たな価値観や世界観が、松本さんにもあるでしょう。肺がんになったからこそ得られたもの、知ったこと。たとえば、まわりの人のやさしさ、冷たさ。家族の大切さ、自分の弱さ、強さ。言いたいことがうまく言えないとか、口に出せないとか、これほどまでに弱い自分がいたのかと思うことも、きっとありましたよね?」

「確かに、いくつかそういうことはありました。人の言っていることが全然入ってこなかったり、家族のために生きたい、生き抜きたいと初めて切実に思ったり。」

「それです。繊細な人ほど、そのときキャラクターが表に出ます。そういうことなんです。そういうことがあると、そういうことがわかってくると、人はやさしくなりますよね。それに、自分に厳しくもなりますよね。そうすると、たとえ転移が見つかったとしても、柔らかく、強く、受けとめることもできるのではないかと思います。」

紳士はにこりと微笑んで、

「がんを生き抜くんですよ。それが、ただひとつの命の使い方なんです。」

その通りだと思った。

僕は、自分の意思で、折れない自分、くじけない自分になって、肺がんを生き抜いていくことに決めた。

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いつも楽しい話しを聞かせていただき、お会いすることを楽しみにしてきました。これからは、もっと楽しみになりました。いろいろとお聴かせください。

玉澤様、暖かいコメントをありがとうございます。大変、励みになります。

松本 晃一

肺がんに負けるもんか!

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