これが”habitus”か

仕事柄いろんな人に会うけど、直感というかその人が纏っている空気みたいなのもので自分との相性を計る時がある。その空気の根源というのは、彼我の出身社会階層、生育環境、学歴、経験などにあるのだろう。

つまり、社会のどの辺りで生まれ、何に囲まれ、何を眺めながら育ったのか?それから、社会のどの辺りで生きてきて、何をして、何をしてこなかったのか?ものすごく乱暴に言ってしまえば、こんな「生まれと育ち」が似ている人とは、割と短い間で打ち解けることができる。これは、実は個人が所属する民族、文化とか国や地域よりも、より個人に強い影響を与えていると思う。

ああ、これが”habitus”かと思う。

だから、「生まれたところや皮膚や目の色」が違っていても、このhabitusが似かよっている人とは、割と付き合いやすい。反対に、同じ日本人でもhabitusが異なる人とは、やっぱり打ち解けるのに時間がかかる。日本での外国人が、、、という問題には、実は文化的な要素に加えて、このhabitusが大きく深く関わっているような気がする。

また、日本に住む外国人でも、同じ国の出身だからといってすぐに仲良くなるわけではない。出身社会階層が異なれば、口も聞かないというのは割合よくある話。でも、逆に母国での出身社会階層が異なっていても、日本という異国で同じ異邦人経験を経て出会うという状況が、厚いhabitusの壁を打ち壊すことがある。このhabitusの壁、日本人同士では、あまりないと思われがちだか、そんなことはない。それを感じないのは、普段自分が似たような人としか付き合ってないからだと思う。

そういえば昔、タイの大学で現地採用で働いていた頃、バンコクの日本人社会の集りに行ったときに、人生初の大変居心地の悪い経験をした。なんというか表向き丁寧なんだけど、思いきり歓迎されてないというか、それはもう、昆虫を眺めるような視線を散々味わった。

初めはそれが何かわからなくて、必死に作り笑いをしてたけど、帰り道で気がついて、少し悲しくなった。でも、反対に当時の僕みたいな風来坊を面白がってかわいがってくれた人もいた。日本本国でのhabitusとタイの日本人社会の中での、かりそめのhabitus。この二つのhabitusの相関の中で、自分をかわいがってくれたのは、やっぱり日本本国でのhabitusが自分と似かよっている人だったように思う。

その後、ある程度タイの日本人社会における社会階層の上昇?を経験して、バンコクの日本人社会の集りにも出入りしたが、その時はすんなり受け入れられた。でも、過去に昆虫に対するようなまなざしを向けられた自分としては、中身は変わってないのに肩書きだけで人の態度が変わることについての優越感と虚しさ、軽蔑感を味わい、自分は同じことをしないようにと強く思った(でも、油断していると、時々する)。

だらだら書いた。結論はhabitusは個人に強い制約を課すけど、それを越えていけるような心持ちの形成を心がけることと、最後に残るのは人間性と機嫌の良さだということだ。

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