(2):小学生の頃(最初の不安症状?)/パニック障害の音楽家

前話: (1)生まれてから〜幼稚園の頃/パニック障害の音楽家
次話: (3):中学でバンドを始めた/パニック障害の音楽家

☆喘息の発作・母親のパニック発作(らしきもの):


今の子供は自意識がはっきりしていそうなので、幼稚園と小学校というのの違いを把握していそうな気がしますが、私の場合、思い出してみるといつの間にか小学生になっていたような感じがします。


ただ小学校に上がるにあたって、ちょっとしたトピックスがありました。それは雑誌のモデルになった事でした。本は「主婦の友」で、同社に知り合いがいた関係での出演となったようです。テーマは「小学校の入学に合わせて和室を洋室に改造する」というもので、両親が部屋を改造するシーンと私がその部屋にド〜ンといるシーンで構成されていました。


写真で見ると本棚にはお勉強関係の本が色々と並んでいるのですが、これは全部インチキで編集部が持って来たもの。実際に私が持っていた本はマンガばかりで、みっともなくて本に載せられるようなシロモノではありませんでした。


その後も何回かに渡り主婦の友のモデルをやっており、小学校5年頃に出たキャンプの写真は銀行の宣伝用写真にも使われたりしたようでした。おかげで小学校では本が出るたびに女の子達に取り囲まれたり追いかけられたりして悦に入っていたりして、ちょっと良い思い出です。


(主婦の友の記事)



私はこの頃から小児喘息になるようになり、発作を起こしては学校を休んだりしていました。当時、これを治すのに有名な医師が磯子におり、週1回そこに通うために学校を休んでいました。これは結構強力な薬だったようで、発作があっても注射をするとスッと症状が納まって行くのです。


また、吸引式の喘息治療薬メジフェラーイソもよく使用したが、こちらは発作時に一吸いするだけで、頭がクラクラっとして心臓の鼓動が早くなる代わりに、発作がおさえられ、気分はフヮ〜っとなって気持ち良くなってしまうという...小学生にしてブッ翔び系?!


ただ、小学校4年の頃、それまで1.5だった視力が急激に悪くなりだしたのですが、医師によってはその原因をこれらの強い薬の副作用が目に来たのだ、という見解を示す人もいました。ま、真偽のほどは不明ですが、あのクスリの効き方を考えると思わず納得してしまいます。


この週1回の医者通いの帰りには、たいがい注射のご褒美にプラモデルを買ってもらえました。家の中で何かを作るのが好きだった私にはこれはとても大きな楽しみでした。当時流行っていたのはサンダーバードやバットマン等のプラモデルで、レゴに続き段々とコレクションが増えて行き、またまたコレクター道まっしぐらという状況でした。


この頃にも母親が2回パニック発作らしきものを起こしています。1回は電車の中で急に不安になり、日吉(東横線)の駅のベンチで横になって動けなくなってしまいました。この時は帰りに救急車で家まで帰って来た記憶があります。


もう1回はバスに乗っていた時(私の喘息治療に行った帰り道)、バスの前を酔っぱらいが横切り、車が急停車したのです。私の左隣りに座っていた母は、その勢いで右に投げ出される形で私の膝の上を通り越し、バス最前部の支柱に鼻をぶつけてしまい、病院にかつぎこまれました。怪我はなんともなかったのですが、本人曰く不安症状が急に盛り上がってきてどうしようもなくなって倒れた、との事でした。


どのケースでも医師の処方は不安神経症という事で、安定剤を出してもらったようですが、発作が終わった後まで症状が続いているという事はなかったそうです。後になって私の症状がパニック障害であると判明し、関連本を母に見せた所、彼女も自分自身の症状は間違いなくパニック障害のものであった、と述懐しています。


そして私同様、母もまたパニック障害の後遺症である広場恐怖に悩まされる事になりました。電車で外出する事に恐怖を感じ、行動範囲が極端に狭まったということです。母がこういった症状になった頃、今のようには精神医学は発達しておらず、とにかく安定剤を処方されるだけだったそうです。


しかし、その辺は戦争をくぐり抜けて来た世代だけあり、この症状に根性で立ち向かったのだそうです。不安感を克服するため、少しずつ電車に乗ったりバスに乗ったりして遠くに行くように練習をし、心を慣らしていったのだそうです。本人に言わせると「ナニクソ!こんな事で負けてたまるか!」と強く思ったそうです。今で言えば行動療法を自主的にやっていたわけですね。結局、うちの母はパニック障害の症状は無くなり、広場恐怖も完全に克服してしまい、今では全く普通に生活して旅行なども楽しんでいます。


ただし、母は2008年頃に、ちょっとした体調の不良から再び症状が現れましたが、今度は心療内科に行って克服しました。最初は体の具合が悪いという事でお医者さんに通っていましたが、どうも症状がパニック障害っぽかったので、私が心療内科に行く事を勧めたのですが、そこに気づくまでの半年くらいの間に体重が10キロも減ってしまいました。心が体に及ぼす影響というのは本当に凄いものだと思います。



☆理科系な思考・マニアック人生に走って行くワタクシ:

さて自分の事に話を戻しましょう。喘息の発作があるとは言え、おばあちゃんっ子だった私は祖母と一緒に朝早起きをし、いたって健康的な生活をしていました。夜は8時くらいに寝てしまい、朝4時頃に目を覚まして祖母と一緒に近くの神社や森まで散歩に行ったものです。両親はと言うと、しっかりミュージシャン生活しており、朝私が学校に行くギリギリまで起きて来ませんでした。多分、私が学校に行った後にまた寝てたんだろうと思います。まあ祖母と一緒だったし学校から帰ってくれば普通の生活をしてたわけで別に不満があるという事もなく楽しく生活をしていました。とは言え、段々と階級意識が芽生えだした友人達の会話「うちのお父さんは課長だ」とか「部長だ」という会話にはついて行けず結構困りました。


父は元々、工業高校(現在の神奈川工業高校)を卒業しています。しかし在学中から授業にはほとんど出ず、出席だけとっては裏山でバイオリンを練習していたそうです。その後、鰐淵晴子さんのお父さんにバイオリンを師事し、バイオリニストになったと言うちょっと変わった経歴の持ち主でした。


その影響もあり、私は小さい頃から音楽と電子工学の両方に興味を抱いていました。電子工学の方はちょうどコンピューター(当時は電子計算機と言っていた)がいよいよ実用化し始めた時期で、こういった最新電子技術の書かれた本が私のお気に入りでした。そしてよく父が口にしていた「日本の映画は全体に予算が無くて、音楽制作費も安いから中々良いものができないんだよな」という言葉が心に残っていました。確かに日本のテレビ番組と海外のテレビ番組を見比べると、明らかに日本製は見劣りがしており、それは子供心ながらもなんとなく気が付いていました。そうした事からいつの間にか「人間を使うから予算がかかって良いものができない。ならば電子計算機を使って音楽を作ったら良いものが作れるのではないか?」と小学校低学年の頃から密かに考えるようになっていました。


そんな中、海外のテレビの方はアニメから人形劇の「サンダーバード」、そしてSFシリーズの先駆けでもある「ミステリーゾーン(トワイライトゾーン)」や「ウルトラゾーン(アウターリミッツ)」へと進化しており、日本式の勧善懲悪的ストーリーではなく、みんなが正しい事をやっているのに、ぶつかりあって悲劇が起こってしまう、という物語をSFの味付けで見せる番組に心奪われるようになって行きました。そうした番組を見ていて「機械と人間との関わり合い」というものに非常に興味を覚えるようになっていったのです。


私が好きだったのは、完全ではない機械が、不器用ながら人間の真似をして、一生懸命何かをしようとする、という行為が可愛らしく思えた点です。例えば当時興味を覚えたもののひとつにドーナッツ作り機というのがありました。これは横浜の名店街(現在の相鉄ジョイナス)の地下にあったもので、図のように熱い油の入ったボウル状の容器に渦巻き型に金属のガイドが付いている機械で、ガイドは外周に行くに従って渦の幅が広くなるようになっており、手でこねられたドーナッツの材料を機械がカッチャンと型を取り、その渦の中心部に落とします。渦は非常にゆっくりと外側に向かって流れており、中心部に落とされたドーナッツの材料は油で揚げられながら徐々に大きく膨らみながら外側に流れて行き、ドーナッツが渦の途中まで来ると、アームがドーナッツの上下をひっくり返します。これによって下半分が揚がっていたドーナッツの上下を入れ替えて、今度はまだ揚がっていない上半分を揚げるわけです。そして更に大きく膨れたドーナッツは渦の一番外側で、再びアームですくい上げられて外に置かれます。これを係の人が袋に詰めて砂糖をまぶして売るのです。私にはこのシカケが不思議でたまりませんでした。これを見たいがために食べもしないドーナッツを買ってもらってはドーナッツが出来上がって行く姿に魅せられていたのでした。


やはり、ちょっと変わった子供だったのでしょうか。


また同じ地下街にはゲームセンターがありました。ここには色々なゲームがありましたが、私が興味を持ったのは当時アメリカから輸入されていたピンボールマシンでした。これらは今でもゲームセンターに行けばお目にかかれる物の祖先にあたるわけで、当時の物は点数のカウント等にすべて電磁石を使用していました。その頃、親の影響などで電磁石でベルが鳴ったり、鉄道模型(HOゲージ)のポイントが切り替わったり、という構造を知っていた私は、すぐにこれらのマシンが電磁石で動いている事を理解しました。


私にとってピンボールマシンはゲームの楽しさと共に、機械がどのようにしてボールを跳ね返したり、得点をカウントいくか?が興味の対象でした。そして、自分でそれが作れないだろうか?と常に頭の中でその構造を考えていました。その頃流行っていたコリントゲームという玉転がしゲームの釘に輪ゴムを張ったりしてピンボールマシンのような物ができないか?と散々試行錯誤をしたものです。私には機械が何故そのように動くのか?というのがとても興味深く、それを考えるのが楽しみだったわけです。同様にしてテレビで見ていたSFの番組のロボットも、この電磁石の原理で手や足を動かしているのだろうか?と真剣に考えたものです(もちろんテレビでは中に人が入っていたわけですが...)。


その頃、唯一動くロボットにお目にかかれる場所が桜木町にあった青少年博物館でした。この入り口にはロボットが立っており、入場者が光を遮ると、お辞儀をして「いらっしゃいませ、どうぞごゆっくりと御覧下さい」と言うのである。私はロボットが動くと恐かったのですが、どうしてロボットがそういう風に動いているのかが不思議でたまらず、親の影に隠れながらそのロボットの前を何度も何度も通過したのでした。学校でもテレビの影響で、SFやロボットは男の子の話題の中心だったのですが、みんな「ロボットが敵と戦ってカッコ良い」という方向に行ってしまい、ロボットが何故動いているのか?といった事や、ロボットは心を持っているのか?と言った事には話が行かないのが不満でした。こう書くと「こいつ大丈夫か?」とか思われそうですが、別に深刻な内向的性格だったというわけではありません。友だちつき合いも普通にしていたし、学校でも普通の生徒でした。ただ心にはいつもそういった疑問があったのです。


こういった考えは更に発展していって、「今から世界が全部反対になりました。おまえ利口!」なんて誰かが言うと、ついつい「全部反対になったなら利口はバカという意味だけど、同時にお前と自分の立場も逆になるのでは?また反対になるならバカという言葉はカバという言葉になるのでは?また上下左右も反対になるのでは?更に上下左右という考え方も逆になるのでは?」と果てしなく疑問は広がっていき、そもそも自分と外という考え方が逆になるのではないか?等々色々なパターンを考えていたのでした。


またそういったSFストーリーの影響で、今の自分が本当の自分である証拠があるのだろうか?という考えも時々頭をよぎるのでした。例えばフッと気が付いてみると実は自分は未来人で、実験のために現在という夢を見せられていて、ある瞬間に未来の研究室で目が覚めるのではないか?なんて考えたり、モノサシが直線なのは自分の目が丸いからではないか?もし目の形が三角の宇宙人がモノサシを見てもやっぱりそれは直線に見えるんだろうか?などという事も考えていました。


まあ、それらはもちろん結論の出ない疑問ですが、そういう色々な可能性について考えてみるのが好きだったわけです。もっともそんな事を人に言ったら仲間はずれにされるのは目に見えているので、それを人に話す事はなかったのですが...こうして、ちょっと変わった考えを持つ小学生だった私は喘息で運動会には不参加とかプールに入れないという問題を抱えつつも順調に育っていたように思います。


ただし、今になって科学関係の友達にその話をすると「その考え方は正しくて、"自分という人格が未来の超バーチャルゲームの中で作られたニセモノではない"、と証明する証拠は科学的にない」と言われたりします。


☆祖母の病気・電子回路に興味を持ち出したキッカケ:

そうこうしているうちに大好きだった祖母が体調を崩し始めました。最初は大した事はない、と言っていたが実は癌になっていたのです。1960年代の癌治療というのは今よりもずっと原始的で、病院もまた暗く陰気なイメージでした。治療のため入退院を繰り返す祖母の世話をするため母は毎日のように病院に通いました。祖母の病状を知った私はこれに協力しましたが、小学校3〜4年の私にとって当時の大きな家は夕方になると薄暗くて恐く、母が帰って来るまで外のガレージの所で待っていたものです。


祖母は2度の手術をする事になるのですが、その時、母も病院に泊まりこむという事になり、私は近くの親戚の家に泊まらせてもらう事になりました。親戚の家には祖母の妹がおり、私は昔から自転車で遊びに行ってはトランプや花札をやって遊んでもらっていました。この親戚の家には私より3〜4歳年上のお兄さんがいたのですが、泊まりに行った時に電子実験セットの学研マイキットという物を始めていじらせてもらいました。


マイキットは電子部品が箱の中に並び、それぞれの部品を接続していく事によってラジオやワイヤレスマイク、また光センサー等を作る事ができ、私はすっかりこのマイキットに取り付かれてしまいました。祖母の手術後にも親戚の家に遊びに行ってはマイキットをいじらせてもらい、色々な電子実験をして遊んでぶようになりました。このマイキット(また最近になって再発された電子ブロック)の良い所は、ラジオも光センサーも無線機も、同じような部品の組み合わせの違いで作れるものだ、という電子回路の基礎を学ぶ事ができ「考える」という事を身に付けられる点にあると思います。子供達の理工科系離れが囁かれる昨今ですが、こんなキットを授業で使ったら、もっと電気系の授業に興味を持つ子供が増えると思うのですが...まあ、しかしこれには先生のスキルレベルも上がらなければならないから無理なんでしょうか?


というわけで、私も自分のマイキットが欲しいので誕生日だったかクリスマスだったかに同セットの最上位機種を買ってもらいました。これには本当にハマリ、毎日学校から帰って来ると実験回路を組んで遊び、祖母の入院の寂しさも忘れられたものです。一度、母が祖母の病院に行って誰もいない時、あまりにマイキットに夢中になって食べようと思ってトースターに入れたパンの事を忘れてしまい、気が付いたら部屋中が煙りで一杯になっていた事がありました。マイキットに夢中になっていた私は目線を上げるまでこの非常事態に全然気が付かなかったのでした。


こうしていくうちに電子回路キット熱は増々エスカレートし、マイキットに似たエレキットだの電子ブロックだのを誕生日だの子供の日だののたびに買ってもらい、私の机の上はさながら小型研究室のような状態になっていきました。その頃になると父がバイオリンの練習用に使っていたオープンリールのテープレコーダーを使わせてもらえるようになり、これを組み合わせて初歩的な電子音楽ゴッコをするようになり始めました。


このテープレコーダーは当時としてはかなりの高級品で、マイクの他にマイキットのような電子回路からの音声を受ける端子があり、さらに録音ヘッドと再生ヘッドが別になっていて、テープスピードも2段階に変速できるタイプでした。昔のテープレコーダーは、録音ヘッドと再生ヘッドが別になっていると、エコー効果を作る事が可能でした。1970年代くらいまでのレコードで音にエコーがかかっている曲やテレビのSF番組の宇宙音は、みんなこの原理を応用して音を作っていたのです。


おかげで作ったマイキットで作った電子音にエコーをかけ、宇宙サウンドを作ったり、録音した声を倍の速度で再生してケロケロ声を作ったり(昔大ヒットした帰ってきたヨッパライのボーカルはこの方法で作られていました)、簡易ミキサーを作って音楽と声をミックスしてラジオ番組もどきを作り、それをワイヤレスマイクでラジオに飛ばして家庭内放送局なんていう事をやって遊んでいました。私にテープレコーダーを占領された父は2台目のテープレコーダーを買ったのですが、私はこのテレコも占領し、1台目にピアノの伴奏を録音し、これを再生しながら2台目のテレコにメロディーやマイキットで作った効果音を録音したり、と今で言う多重録音を始めたのでした。


その頃、駅前にあった本屋さんのお兄さんが当時流行だったアマチュア無線の免許を持っていると聞き、自分もその資格が取りたいと思い、そこへ電気の勉強をさせてもらいに通うようになりました。この家の通路には光センサーで人が通過すると照明がつくシカケがしてあったりして私にはとても楽しい場所でした。


小学校5年生の頃、そのお兄さんに始めて電車で秋葉原に連れて行ってもらい、電子部品を自分で購入してラジオやアンプを作るようになりだしました。1960年代半ばと21世紀の現代では東京はほとんど変わってしまっていたが、唯一変わっていないのが秋葉原の駅の横にあるトンネルのような部品屋街です。あの場所は永遠にあのまま保存されて欲しいものだなあ、と切に願う次第です。


さて小学校も上級になると、部活動というのが出て来るわけですが、私は放送部に入り、持ち前のピアノ演奏と電子回路の知識を利用して校内放送でテレビのテーマ曲集をピアノ多重録音で演奏したものを放送したりしました。その頃のテレビのお気に入りの曲は子供向け番組では「ひみつのアッコちゃん」の「すきすきソング」「河童の三平のテーマ」等、今で言うレアグルーブ物のリズムにはまっていました。あとになって分かったのですがこれらの曲を作曲していたのはほとんど小林亜星さんでした。


そして海外の番組では父親の影響でスパイ物とSF物のストーリーにはまっていましたが、当時は「スパイ大作戦」「ナポレオンソロ」「スパイのライセンス」「タイムトンネル」等々面白い物が多く、またこれらの音楽はジャズとロックやクラシックを組み合わせた斬新なものでした。こちらも音楽を担当していたのは各々ラロ・シフリン、ジェリー・ゴールドスミス、デイブ・グルーシン、ジョン・ウィリアムスと今でも有名な面々で、みな若さに任せて(?)複雑怪奇な曲を書いており、耳で聞いてピアノで弾くのが得意だった私もこれらの曲のコピーには苦労したものです。こういった映画音楽は後の私の音楽活動の基礎となっていった事は街がいないでしょう。


また、テレビで録音した上記のような曲をテープ編集して、イントロが始まると突然エンディングに行って曲が終わってしまうスパイ大作戦のテーマとか、最初のメロディーばかり繰り返して曲が先に進まないヒミツのアッコちゃんとかを作って遊んでいました。


☆最初のハッキリした不安症状(多分パニック発作):

そんな中、最初に不安症状に襲われたのは小学校4年の頃だったような記憶があります。ある冬の日、私は特に普段と変わりない生活をしていましたが、突然部屋を暖めているガスストーブのガスの匂いが気になり出したのです。


当時、あの都市ガス特有の匂いは体に悪いというイメージをあちこちで植え付けられていた私は、ほんの少しガスの匂いを嗅いだだけなのに、突如込み上げて来た「ガスを吸ってしまい死んでしまうのではないか?」という不安に囚われてしまったのです。


そう思うとドンドン不安が昂進して行き、あわてて母親の元へ行き「ガス中毒で死んでしまうかもしれない。早くお医者さんを呼んでくれ!」と言ったのです。今にも自分が死んでしまうのではないか?と、それはもう不安で不安でいても立ってもいられなくなったのです。


しかしその時は、外気を吸ってしばらくすると不安症状は和らぎ気分も落ち着いていきました。この症状がパニック発作だったのか、はたまた本当に軽いガス中毒だったのかは定かではないのですが、その頃のガスストーブなんていうものは多少はガスの匂いがして当たり前、というようなものだったわけで、なぜその時だけ急に不安になったのかは謎です。


小学生の時の不安症状は以上の1回のみでした。その後小学校5年になると祖母の病状は悪化し、結局自宅療養をするのみとなり私が5年になったばかりの4月23日に眠るように他界してしまいました。長い闘病生活だったため、もう駄目なのかもしれない、という意識は私にも薄々あったため祖母の死はそれほど大きなショックとはなりませんでした。私にとっては記憶に残る大きな身内の死を受け入れる最初の機会となったわけですが覚悟はできていたというわけです(これ以前に父方の祖母が亡くなっていますが、残念ながら私はまだ2歳だったため記憶にありません)。


こうして祖母の死の後、私にふりかかった災難(?)は第一期とも言える受験戦争でした。この頃、第一期ベビーブームの世代が受験に突入する事になり、私もこの波から逃れられず受験戦争に巻き込まれて行きました。当時、有名だったのは日本進学教室(略して日進)という塾で、ここに入るためにさらに家庭教師(4人くらいのグループ学習)に付くという、最近の流行の塾のための塾、みたいな習い事のルーツをという感じでした。塾でとても印象的だったのは「没個性的」という事で、私は電子工学やピアノという得意分野があったわけですが、そんな分野は全く無視され、受験のための定型パターンの学習内容を叩き込まれる、というのが基本でした。


私にはこれがちっとも面白いとも思えませんでしたが、なんとなく流行になってしまっていたので受け入れざるをえなかったわけです。ま、今でもこういうのが面白いと思うなんて子供がいるとは思えませんが...おかげで当時の楽しみは学校が終わってから塾に行くまでの1時間くらいの間に学校近くの空き地で基地作りゴッコをする事だったりしました。1960年代も終わりの頃でしたが、まだまだ横浜地区の原っぱには第二次世界大戦のなごりの防空壕のようなあとが残っており、こういう穴を基地にして遊んだものです。


塾に一番沢山通っていた頃は、私塾、日進、能率進学塾、山手英学院のゼミと4つかけもっていました。そんな中で私が興味を持ったのが手品でした。キッカケはヒョンな事で、通っていた日進に行くため渋谷を通っていたのですが、この渋谷の東急デパートの手品用品売り場にやたらと手品のうまい店員がいたのです。私はこれにすっかり魅了されてしまい、早速安い手品を買って帰りました。売り場で見ると魔法のように見える手品も買って帰り、解説書を読んでみるとなんの事はない、ちょっとした目の錯角を利用した、言ってみれば「インチキ」でした。しかし手品を見た人が、このちょっとしたインチキに引っ掛かって騙されてしまうという事はとても興味深い事でした。


またそれを行うための手品の道具もそれまでに興味を持っていた機械のように不思議な魅力があり、私は小学校5〜6年の頃、手品マニアになっていました。私が好きだったのは大きなシカケのある手品よりも指先のテクニックで相手を騙してしまうような物でした。そういうわけで、しまいには手品を買いに行くんだか日進に行くんだかわからないような状態で塾通いをするようになってしまいました。呑気だった当時は、小学生が渋谷でフラフラとしていても、別に危険んという事はありませんでした。


こうして約2年の間、塾通いをした私でしたが、あまりにも色々な塾で勉強を叩き込まれたお陰で逆に記憶力・集中力が低下し、思考能力が鈍り出しました。過ぎたるは及ばざるが如しってやつでしょうね。運悪く、そんな頂点の時期に本番の中学受験のタイミングが来てしまったのです。


おかげで受験結果は散々!慶応は落ちる、聖光学院は落ちる...とメタメタ。結局、当時誰も知らない学校であったサレジオ中学(現サレジオ学院)の2次募集に引っ掛かり、ここに入学する事となりました。どうしても私立にこだわったのは、私の地区の公立中学は当時有名な不良中学で、校舎も汚く「ここだけは絶対行きたくない!」というのがあったからで、同級生で私立を受験した友人の大半もこれが理由でした。


この頃、精神的には厳しい状況ではありましたが別にパニック発作を起こすでもなく、普通に受験失敗のショックを受け止めていました。


受験のために死ぬほど勉強していた私にとって当時のサレジオ中学の入学試験は信じられないほど簡単でした。算数のテストなどあまりに簡単だったため4回くらい見直しをしてしまったのにまだ時間が余ってしまった位です。テストの点は公表されませんでしたが、私の勘では算数100点、国語96点くらいはいっていたと思います。で、まあこの2次試験は目出たく全員が合格となり、私は晴れて目黒サレジオ中学の生徒となるのでした。



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(3):中学でバンドを始めた/パニック障害の音楽家

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