(3):中学でバンドを始めた/パニック障害の音楽家

前話: (2):小学生の頃(最初の不安症状?)/パニック障害の音楽家
次話: (4):問題の起こり始め/パニック障害の音楽家

☆受験に失敗して入ったのに当たり学校だった:

 行く先がなくて入ったサレジオでしたが初めてのミッションスクールという事もあり、私にとっては新鮮な衝撃の連続でした。ミサも初めてだったし、神父様というのに接するのも初めてだったし、多くの外人(主にイタリア系)に接したのもこの時でした。音楽的に非常にインパクトを受けたのは入学式のミサでした。このミサでは通常の賛美歌の他にグレゴリオ聖歌のような単旋律で伴奏が無く、調性がはっきりせず(今にして思えばモードという音楽旋法だったのですが)、しかも言葉の内容を優先するので4拍子と言った正確な拍子もない音楽に接し、音楽的に目を開かされた思いでした。まあ、最初は「なんだこの下手くそな聖歌隊は。全員同じ音程しか歌えんのか?!」と思ったのですが...今でも自分の書くメロディーでモードを中心にしたものはこの頃の音楽の影響を大きく受けていると思います。


 ちなみにサレジオはミッションスクールでしたがカトリック信者の数は多くはなく、たいがいは仏教徒だの無信仰だので、私も御多分にもれず「ナンチャッテクリスチャン」でした。


 当時のサレジオは目黒サレジオ教会の奥にあり、1クラス30人が2クラス、全学年でも180人足らずの小さな学校でした。付属の高校は鷺沼(田園都市線)にありましたが交流はほとんどありませんでした。その頃はお世辞にも学力のある中学とは言い難い学校でした。おかげで小学校時代にミッチリ勉強していた私は、毎週1回ある実力テストも予習/復習無しで軽々と学年1〜2位をキープできました。もっとも帰国子女やハーフの奴が多かった関係で英語だけは上位に入る事はできませんでしたが...


 とまあ低学力な学校ではありましが環境は非常に良かったのです。サレジオはイタリア系の学校ですが、当時はイタリアがオシャレなどという風潮はまったくなく、欧米先進諸国の中では取り残された存在だったように思います。しかし、多くの神父様は生粋のイタリア人で、1970年代に、まだまだ外人が珍しかった頃からイタリア人に接するという良い機会を得る事ができたのは貴重な事だったと言えるでしょう。


その頃サレジオでは毎朝登校すると神父様がサックスやアコーディオンを演奏しながら校門で生徒を迎えてくれ、下校時にはイタリア人神父様が校庭で突然イタリア歌曲なんかを歌いだし、それに合わせて他の神父様が楽器を持ってかけつけ、さながら屋外イタリア歌曲ライブなんてのが突発的に始まってしまい、生徒もそれに輪を作って参加し、本場物のイタリア音楽を堪能する事ができました。今のサレジオがどうなっているかは知りませんが、当時はこんな感じでいかにも「イタリア!」というノンビリしたムードが漂っていました。


学校は校長先生もイタリア人だったため、回りの人から珍しがられました。1970年代前半というのはまだまだ外人が珍しかったと書きましたが、イタリア人となると一般の人はほとんど接触するチャンスはなかったようです。おかげで修学旅行で東北に行った時、集合時間になっても校長先生が来ない...「どうしたんだろう?」と思っていたら地元住民に囲まれてサイン会が開催されていた、という事がありました。そんな風にサレジオも世間もノンビリした時代だったのです。そういうわけで受験に失敗したにも関わらず、私の中学生時代はとても充実したものでした。



☆神父様を騙してバンドを始める!:

そしてバンドによる音楽を始めるキッカケとなったのもこの中学時代でした。当時、バンド用の楽器は高値の花...そこでバンドをどうしてもやりたかった私達はサレジオ教会の神父様に「楽器を買ったら教会の音楽なんかの伴奏もバンドでできますよ!」と持ちかけたのです。最初は特に反応は無かったのですが、中学2年のある日、突然神父様が「よし今日バンド用の楽器を全部買いに行くぞ!」と言って懐から札束をド〜ンと出し、銀座のヤマハへギター、ベース、オルガン、アンプ、ドラム、パーカッション等を買い出しに行ったのです。バンドメンバーの間では「実は3億円事件の犯人は、あの神父様なのでは」と笑い話をしていました。というわけで、突如としてバンドが始まってしまったのでした!神父様と交渉した関係上、半分は教会の曲をバンドでやるという事で、賛美歌なんかにバンドを付けて演奏するというのがこの頃のバンドの方針でした。


当時、東京12チャンネル(現テレビ東京)やテレビ神奈川では海外のカトリックの番組を放送している事が多かったのですが、これらはたいがい音楽コーナーがあり、バンドで聖歌を演奏していました(12チャンネルの番組の音楽はゴスペル中心、テレビ神奈川のはポップスアレンジの賛美歌)。私達のバンドもこれに習って聖歌のバンドバージョンを演奏し、学校での礼拝やサレジオ系の養護施設への慰問演奏等を活発に行いました。しかし今思うと演奏は超ヘタクソな初心者バンドなのですから、聞く方もいい迷惑だったんだろうなあ、と苦笑してしまいます。


しかもバンドでやりたいのはロック!メンバーは「神父様、カウベルとかあると演奏に幅が出て良いですよ」などと、賛美歌の伴奏には絶対に使わない楽器までおねだりして「いくら?」「5000円くらい」「よし、じゃあ買って来なさい」ともらったお金持って渋谷や銀座のヤマハでカウベルを購入し、学校に帰ってくると、早速当時大ヒットしていたラテンロックのサンタナの「僕のリズムを聞いとくれ(オエコモバ)」とかの演奏に使ってしまうわけです。困った学生ですね。


中学時代には自分にとって1つ心の傷になる事がありました。それは遺産相続のドタバタです。小学校5年の時なくなった祖母にはうちの母の他にもう1人娘がいたのですが、彼女との間で土地に関する相続問題がこじれ家庭裁判所に行く事になりました。しばらくして遺品の整理をしていた所、祖母の書類入れから土地の分配に関する手描きの図面が出て来ました。しかし恐らく病気も末期を迎えた祖母が自分の命が長くない事を考え、残る力を振り絞って書いたのであろう図面は、非常にラフなものであったため、法的に遺書として認められませんでした。


結局、土地の半分(正確には価格的に半々)をあけ渡す事になり、中学1年の時、生まれ住み育った、あのバラのアーチのある家は、まだ充分住めるにも関わらず壊される事になってしまったのです。自分が育った家、しかも家屋としての寿命が来たのでもない家がバラバラに壊されて行くのを目の当たりにして、私の心は深く傷付きました。今でも夢の中に出て来る家は、この生まれ育った家のイメージです。もし、何らかのトラウマがパニック障害と関係があるならば、この件は間違いなく原因の一つになっていると思います。


後にパニック障害の治療を受けるようになってから私が先生に説明する時に良く使う「なにか嫌な感じ」というのは、この家を壊される時に感じたものと同一だと思います。


不安症状の方は中学時代1度だけ軽いものがありました。その時は夏休みに友だちと玉川の方へ釣りに行くという事になっていたのですが、前日なかなか眠れず、当日寝ていない事がとても気になりだし「寝不足で具合が悪くなって倒れてしまうのではないか?」と不安になりはじめ、玉川まで行ったものの家に引き返して来てしまいました。その頃から私は漠然と「寝不足は体に悪く、少しでも睡眠不足だと倒れてしまうのではないか?」という気持ちを抱くようになり始めていました。とはいえ、私の中学校生活はとても充実したものだったと思います。


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(4):問題の起こり始め/パニック障害の音楽家

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