本当にあった話「祖父の葬儀」

今は古くなってしまった実家ですが、小学校2年生当時はまだ建替えたばかりの新築で、姉とそれぞれ2階に自分の個室をもらい、ベットで寝ていました。
 
そんなある日、夜はっと目がさめました。時間は定かではありませんが、カーテン越しに月明かりが入っていた記憶があります。特にトイレに行きたいわけでもなかったので、そのままベットでぼうっとしていました。すると天井に何かが見えました。見えたというよりテレビの画面がそこにあるような感じで、それなりの面積が青白く光った気がしました。
 
よく見ると、そこには母方の祖父の顔がありました。こちらに向かって笑っていました。「ああ、おじちゃんだ・・(注:茨城では祖父の事をおじいちゃんやおじいさんではなく、おじちゃん、おじさんと呼びます)」別に恐怖も感じませんでした。素直にそう思ったのを覚えています。

 

翌日小学校から帰ってくると、母が大慌てで出かける準備をしていました。祖父が危篤だというのです。そして、それからほどなくして胃がんと壮絶な闘病を繰り広げていた祖父は亡くなりました。最後は布団を吐血で真っ赤に染め悶絶しながら絶命したそうです。今なら強力な痛み止めや麻酔があるのでしょうが、昭和40年代の農村ですから、仕方がなかったのかもしれません。
 
葬儀の際、母の末妹の叔母さんにその話をしたら「あたしも東京のアパートにいたら、たんすの上にあったおじちゃんの写真のガラスが、何もしていないのにピピッて音を立てて割れちゃったんだよ。」と言いました。祖父は亡くなる前、朦朧とした意識の中で娘や孫達のところをひとまわりしたのかもしれません。火葬場の煙を見ながら子供ながらにそんな事を思いました。当時の下妻の火葬場の思い出でモンシロチョウが飛んでいた記憶があるので、葬式は春だったんですね。


祖父は母を含めた4姉妹には非常に厳しい人だったようですが、私達孫にはとても優しい人でした。遊びに行くといつもテーラー*で畑や田んぼや鬼怒川に連れていってくれました。正月には祖父が大事にしていた釣り竿(ルアー)にゲイラカイトを付け、3町ぶりほどもある母の実家の広大な田んぼから思う存分雲の上まで飛ばしたものでした(巻き取り回収に数時間かかって真っ暗になって怒られたけど)。

 

また、毎月私の家(寺院)の庭と墓の草取りに来てくれていて、作業後にサントリーレッドの1LITER瓶からぐいぐいウイスキーを飲んでいました。祖父が持ってきてくれる干し納豆*が大好きで、おやつやおかずとして毎日食べていました。また正月には孫達を集め、納屋から杵と臼を出して餅つきをしてくれて、温かいうちに大根やきな粉をつけて食べるのが楽しみでした。*テーラー=2輪の耕運機に荷台をとりつけた乗り物 *干し納豆=納豆を干して作る塩辛い保存食

 
ここまでは、よく聞く話です。が、続きがあります。
 
葬儀後の吉兆払いは、母の実家で近親者のみで行われ、なぜか焼肉が出ました。豚の焼肉です。肉大好きの私はもちろんパクパク口に運んだ訳ですが・・・、なぜか私が食べる肉からだけホチキスのピンがまとまって出てくるんです。あわてて吐き出し、他の皿に盛られた肉に変えてもやはりホチキスのピンが大量に出ます。とにかく驚く程の量なんです。

 

一緒にいた大人達はクビをかしげながらも「誰がこんないたずらしてるんかねえ」「肉屋に文句言わなきゃねぇ」などと呑気な事を言っていました。デリカシーの無い義理の叔父などは「おじちゃんが呼んでるんだよ。お前が一番最初の男の孫だったからなあ。お前の母ちゃんは嫁に出たけど本当は長女だし、普通に行けばお前がこの家の跡取りだったんだから。」などと無責任なことを言ってました。
 
まだ小さかった内孫の従兄弟は、鋼鉄ジーグの超合金を持って来て「かっちゃん、これ(マグネット)にくつければ良いよ。」などと、慰めてくれましたが、もちろん最後まで原因は判りませんでした。
  
だから、祖父の葬式は忘れられません。

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