■年間15事業を起こしまくるベンタツ社長斉川幸弘~幼少期編~

幼少期

1986年2月4日に新潟県上越市に生まれた斉川幸弘。
一切小さい頃は覚えていないが、母からこんな子だったと聞くようになる。
子供たちが公園で遊んでいても母親の脚にしがみついてばかりで、とても内気。
輪の中に入れない、怯えている子供だったようだ。

上越市立大和保育園に入園

どんな保育園児だったか?
やはりここは定かではないが、ある思い出を存分に公表したい。
丸型のシルバーのお弁当容器にふりかけのかかった白米が今でも思い出せる。
保育園の配置も今でも覚えているくらい。
玄関から左奥にトイレ、正面奥にロープのはしご、右手前に基地を作ってたっけな。
左手前はみんなで寝る部屋。その他リス組、キリン組、ゾウ組の順序で年齢が上がっていく。
15時になるとおねんねタイム。
なぜ無理やり寝かされるんだ。と思っていた。
この頃の思い出はこのくらい。

上越市立大和小学校へ入学

6歳になった。
いよいよ小学生になるときが来た。
小学校入学は特に嫌ではなく、すんなり登校した。
なぜなら、うちは小学校の隣にあるからだ。
うちの玄関から小学校の門まで約5秒。
一番遠い子で歩いて1時間15分くらい。もちろん集団登下校。
俺はあまりに近すぎる家だった。

小学校低学年の頃

小学校に入ってすぐにIQテストみたいなものをやったようだが、母親から後々聞いた話でとても高いIQ値を示したと聞いている。俺はどの基準で言ってるのかわからないので一つのエピソードとして残しておこう。
今でも覚えている。
ひどい1年生、2年生時だった。
担任はK先生という若い女性の担任だった。
この先生がまさに天敵。
小学校1年生と言えば、「国語は山・川」とか「算数は足し算・引き算」を覚える超基礎的な大切な時期。
そんな時期に、俺はなにかしら「うるさい」という理由で、しょっちゅう廊下に引きずり出されていた。泣きながら。
それも毎日。
今でも覚えている。廊下に立たされるのが嫌で先生に足を引っ張られて、俺は机と椅子を巻き添えにして絡みつき、少しでも抵抗するも、机と椅子ごと廊下に出される始末。
涙に濡れた机と椅子と引きずってこられた道筋の哀愁。
教室内に残るざわめきがひどく心が痛い。
休み時間になるとみんな教室から出てくる。
俺は廊下で机と椅子と私。
遊びにも行けない。てか誰も話しかけてもくれない。
だから、本当に初歩の初歩の教育はK先生のおかげで、黒板の思い出が全くない。
覚えているのはグラウンドを見つめるさわやかな光景と、後ろから聞こえる音声教育のみ。
一番最初に習う漢字の画数とか書き順なんて自分で勉強するしかなかった。
黒板の板書はみてないから。教わってない。
苦痛なのは給食の時間。
給食の時間からは教室内に立たされるんだ。
みんなが給食を食べているのを俺は授業参観の親のようにずっとみているだけ。
泣きながら、「ごめんなさい、給食食べさせてください。」っていうとみんなと一緒に給食にありつけた気がする。
本当に苦痛だった。
恩師にありがとうをいいたいかって?
俺は今でもK先生に会ったら、「あなたの教育は過剰すぎた!」とひっぱたいてやりたいくらい。

3年生・4年生の頃

K先生からの呪縛は解けた。
次はイケメン男性T先生に担任が変わった。
本当に嬉しかった。
3・4年生の頃は、あまり記憶がない。
勉強はできた。漢字テスト・計算テストがメインのテスト。
100点取るとお小遣いもらえたから。
なにか懸かってないと頑張れないのはこの時から。

5年生・6年生の頃

テストは継続して毎回満点又は高得点をお小遣いのために取る。
ここで小学生ならではの悩ましい問題を解決しようとする能力が出てくる。
■給食の嫌いな食べ物について
俺は魚が大嫌いだった。
給食で魚が出るとわかっている日は学校休んでやろうかと思っていたくらい。
そこで思いついたのが魚は泳がせてあげよう作戦。
残すと昼休みを越えて5時間目の授業まで給食を広げていなければならないので、それだけは避けたい思いから。
高学年は3階か4階だったっけな。大きな中庭に鯉の池があるんだ。
ぽちゃーん!・・・・・大嫌いな魚を池に帰してやった。
下校時に池に行くと「さばの味噌煮」が元気に泳いでいる。
いや浮かんでいる。
これで自分の苦痛が解消されるなら、下校時に回収して土に埋めるのもなんのその。
犯罪者的考えに思えてきた。
■大きいのをしたくなった時
小学校のトイレで大便は本当にいじめられるし苦痛だと思う。
そんな時は勝手に家に帰って大きいのをしてた。

小学校時の趣味や遊び

セミに紐付けて飛ばす。
下水道で葉っぱレース。
ミニ四駆。
ビーダマン。
ハイパーヨーヨー。
神社で缶蹴り。
スポーツは水泳・陸上・バスケ。
あとはグラウンドで毎日サッカーかキックベースしてた。

幼少期~小学校時まとめ

勉強の思い出はほぼなく、憎しみや苦痛、楽しいことは覚えている。
書いていて、感じたことはそれだった。

成長するにつれ、環境が変わりよくしゃべる子だったと思う。
自分ちの田んぼを手伝い、田植えから稲刈り、精米までの工程は知っている。
畑でミニトマト作ったり、農業をよくやっていた。
ここまでのコミュニティは1学年50人程の小学校と家族のコミュニティのみ。
次のステップ中学生で1学年250人のコミュニティで生活することになるとは知る由もない。

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