大学附属高校に進学。受験勉強をしないという選択肢が与える影響とは?

大学への進学

受験勉強をしなくても、大学に進学できる環境。

大学附属の高校に進学していたため、勉強はほとんどせず、部活や友達との遊びで放課後の時間は過ぎていきました。
もちろん、何もせずに、進学できるわけではなく、「高校総まとめのテスト」はありましたが、あまりにも悪い成績でなければ進学できるという合格基準の甘さや、そもそも試験レベルからして、大学受験の中でも偏差値のかなり低い大学よりもはるかに簡単な内容だったため、あとになってわかったこととしては、

”楽勝で大学に進学できた”
ということでした。
この「楽勝で進学」ということが、社会に出ていく上で、どのような影響を与えるか。
高校時代の僕は、到底知るよしもありませんでした。

大学時代

複数のサークル活動を掛け持ちで充実した日々、、、しかし!

大学時代は「アナウンス研究会」「ダンスサークル」「資格取得サークル」「バレーボールサークル」など、複数の掛け持ちをし、(途中で参加できなくなるのもありましたが)
そこに、「○○ゼミ」という少人数の演習形式で学問を学ぶところにも所属していましたから、とにかく「充実した日々」でした。

ところが、この大学時代には、高校の時に知る由もなかった、自分の「ステータス」に気づかされます。
それは「附属校出身=常識知らず」ということです。
それに反論したいのも山々でしたが、たしかに受験勉強をしてこなかった僕としては、学問という分野において、「何も知らない」という状況だったのです。
たとえば、第二次世界大戦後に、日本が独立を回復した条約の名前をなんというか、、、これは、高校生のうちに「ちゃんと勉強に集中していた」人にとっては、常識的な問題です。
(正解は、サンフランシスコ講和条約)
この「勉強に集中していたか、否か」というのがポイントです。
これは、後になってわかったことですが、やはり「大学受験する人」と、「附属進学する人」では、ふだんの勉強に取り組む意識がかなり違うと思います。
もちろん全員がそういうわけではありませんが、僕の同級生を含めて、俯瞰してみるとこの傾向は当てはまると思います。
そうなると、やはり「附属進学する人」は「常識知らず」になっていくことになり、そして、この「常識知らず」のレッテルは、大学時代後半になって、ある重要な問題に絡んでいくことになりました。

就活生時代

一般教養試験で、”面接”にたどり着く前に落とされる

大学時代後半のビックイベント、、、それは「就職活動」です。

大学院への進学など、さまざまな進路はあるものの、たいていの大学生が経験する「就職活動」において、「大学受験をしていなかった”常識知らず”」が響いてくることになるとは、想像もできませんでした。


就職活動において、多くの企業が、面接前に、「一般教養試験」を行います。

「一般教養」つまり「常識を持ち合せてるかどうか」という試験を経てから、一定以上の成績を修めた人が、その後の面接に進めるのです。

逆をいえば、「常識のない人は、面接にたどり着く前に、志望企業を落とされる」ということになります。

新聞の記事で、「企業が求める人間像は”コミュニケーション能力がある人”」。
そんな風に書かれていても、現実には、「学力がない人はいりません」というのが実態です。


学力がない故に、自分の夢を絶たれるということが、どれほど”もったいない”ことか。


面接を経て、「あなたの考えと弊社の考えは合わない」という結果から、落とされるならば、まだ納得のいくところがあります。
でも、「学力」は、誰しもが平等に審査される項目です。

そして同時に、”勉強”すれば、得られる力です。

高校時代、勉強をしてこなかったことが、”高校の成績”を左右するのではなく、
”自身の人生”を左右させることになるとは、思ってもいませんでした。

だからこそ、高校時代の自分に一言、何か言えるとするならば、こう言いたいです。


「君が普段サボっていることは、自分の夢の選択肢を狭めることになるよ」と。

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