2年浪人の泥沼からKDDIに入社するまでの話

前話: 「ITが教育を変える!」から「教育は人だ!」に考えが変わった話

数学アレルギーの発症と、教育とITへの目覚め

高校2年生だった頃、私は「数学アレルギー」を発症しました。進級と同時に理系クラスになり、そこで数学の先生が変わったのが痛手になりました。当時、自分でもなんとかしようと思って色んな問題集を手に取りながら、書店で思った事があります。

”数学や物理の解答・解説が、紙面の都合で「図」や途中経過が省略されていてとても困る”

当時既にインターネットを使い始めていた自身としては、こうした「紙面の都合」はネット上なら解決できるんじゃないか、とか、証明問題の進め方やグラフの描画はPCのソフトなんかでもっと直感的に分かるんじゃないか、とか、海外のネット上にいくつか見つけた「動く教材」をなんで学校は使わないんだろう、とか。1999年〜2000年の時の自分は、既にそんな事を考えていたのです。

ICTによる教育改革の可能性を意識し始めたのは、ちょうどこの頃からでした。

「挫折した人間を、パソコンが救う事はできないんだろうか」

当時の日記には、既にこんな記述がありました。

そこに登場したのが、PEG-S500C。 未だにその型番が直ぐに出てくる、自分を変えた「パーソナルエンターテイメントオーガナイザー、CLIE(クリエ)」です。12年前の製品ですが、まだ情報ページが残っていました。

http://www.sony.jp/products/Consumer/PEG/PEG-S500C/top.html

いわゆる「ハンドヘルドコンピュータ」と呼ばれる、PCと同様にCPUやメモリを持ちOSを搭載、アプリケーションの追加ができた、今のスマホの原型と言えるものです。(今のように回線経由でアプリケーションをDLするのではなく、USB接続した母艦PCからソフトをインストールする方式でした。が、多くのスケジュールやタスク、連絡先情報等を 「同期」するという、昨今のクラウドで当たり前の概念が既に14年前にこうした形で存在していたのはまぎれも無い事実)

スタイラスと呼ばれるペンおよび指先でのタッチUI、インターネットブラウジングやPCドメインでのメール送受信も可能、当時存在したWindowsCEを搭載したPocketPCと比較しても小型軽量。真に携帯可能なコンピュータがついに登場したと興奮したものでした。

私はすぐにCLIEに飛びつきました。通信手段にはデータ通信を優先(といっても64k)し、PHS回線を用意しました。これを活用し、時折出先で通信したり、高校に持ち込んで辞書やメモ代わりに活用したりするようになりました。(電子辞書の延長という形で、とくに先生からは何か言われるということも無かった。今思えば、相当先鋭的な事をやろうとしていた高校生だったのかもしれない)

当時は定額制の概念が無かったこともあり通信は金額を気にしながら、かつ低速で不便でしたし、ハード性能起因の制限事項もかなりありましたが、PCで出来る事の一部がどこでも可能になるという事の重要性は大きなもので、モバイルであるからこそ価値が高まるという事実も強く認識していました。

CLIEの登場を機に国内でもアプリ開発や活用事例が増えてくる事をインターネット上で知るにつれて、うっすらとこう考えるようになりました。

・ハンドヘルドコンピュータを誰もが常時携帯して歩く日がいつか来る

・たぶん、それは携帯電話/PHSと一体化したものになる

・そのデバイスが教育に活用されるようになる

・そうした動きはおそらく米国から始まる

・そのためには英語やプログラミングを学ぶことが重要になる

※当時の日記などで既にこのような事を言及していた事に自分でも驚きます。

が、英語やプログラミングを学ぶためにはきちんと大学に入って、必要な勉強や環境を手にしなければならないという現実も、改めて突きつけられることになりました。そこで、諦めていた受験にきちんと取り組もうと重い腰を上げたのが、高校3年生の冬。あまりに遅いスタートでしたが、地に足がついた「動機」が生まれたことは、理系なのに数学や理科が全く出来ないコンプレックスに立ち向かう勇気にはなりました。

ただ、絶対的な学習時間はどう考えても足りず、センター試験惨敗、国立大学も不合格。地元の予備校にて浪人することになり、1浪目もセンターで体調不良を含めたメンタル面でやられて失敗、結局、浪人は2年に及びます。

教育とITを想いながら、自分の軸を確立した浪人時代

浪人中も教育とITに関する情報は(モチベーション維持のために)収集はし続けていました。例えば、当時の日記には

コクヨがすげーモノを作った。(略)ホワイトボードに貼り付けると、ボードに書いたものがパソコンに転送できるという物で製品名は「mimio」という。(略)私は教育学とITの融合ということを真剣に考えていて、コレをやりたいがために大学に行くことを考えているわけだが、そういう自分としてはこの製品は見逃せない。なにせホワイトボードに書いた内容がそのままパソコンに転送できてしまい、それを画像として保存したり、さらには書いている途中経過を映像として記録しパソコンで再生もできてしまう。もっと驚いたのがプロジェクターからホワイトボードに投影したパソコンの画面をホワイトボード上で操作出来るということ。(略)この製品は教育現場を大きく変える可能性を持っている。いつまでたっても「黒板とチョーク」というアナログな物から脱することが出来ない学校だが、この製品は導入コストも比較的安く(定価88、000、おそらく実売価格は7万円前後)、しかもパソコンとホワイトボードさえあればすぐに利用可能という手軽さもあって、今後確実に浸透していくだろう。

青字部分は当時の日記から一言一句そのまま引用。すでにmimioは発売停止になってしまいましたが、それに代わる形で今は電子黒板が現場で活躍しており、10年以上の時を経て予測が現実になったことに、ちょっと驚いてます。

こうして教育とITを考えていく中で、

勉強(強いて勉める)じゃダメだ 自ら学びたくなるようにしなくてはいけない。ならば、学ぶ事をICTの力でエンターテインメントに変えよう。誰だって知的好奇心は持っているし、それに触れやすくなる環境を作ろう。そういったソフトウェアを作る人間に、自分はなりたい。ドロップアウトした人、しかけている人を救う仕組みや、格差を乗り越えて自由に学べるようなソフトを作りたい。別に、教科書通りでなくてもいい、興味があるなら好きなだけ脱線できるようにもしておきたい。

実は、大筋の軸はこの浪人生の時に定まって以来、今日まであまり変わっていません。現在はソフトではなく仕組みを考える方向にシフトしていますが、大人の都合ではなく「生徒の目線」で学ぶことを考えていこう、という方針はずっとそのままです。

2年浪人しても国公立大学には最後まで合格できなかったものの、情報学かつ教育とITが学べるという理由で、工学院大学の情報学科に進学することにしました。大学では「一度道を踏み外すと、取り返すのに数倍の時間がかかる」と肝に銘じて、とにかく授業や課題に真剣に取り組み順調に単位を取得。2年終了段階で100単位程度を取得し、少し時間に余裕ができたので、大学3年生の段階で「塾講師」のアルバイトを始めます。これが次の転機になります。

(この部分は「ITが教育を変える!」から「教育は人だ!」に考えが変わった話をご参照ください)

この塾講師の中で、メイン担当の理科では薄型軽量のモバイルノートを使ってYoutubeの皆既日食の映像やGoogle Earth/Google Mapを見せながら指導をする独自路線を試行し、確かな手応えを得ていました。その感触から「さてこうした経験が生きる会社とはどんなところだろう」と、早い段階から考えてきたことが、就職活動にもつながったと思っています。そこで考えたのが「通信業界」に進む事でした。

モバイルとITの力を駆使した就職活動

以下が自身の就活のポリシーです。

− 業界は通信業界を第一志望群に据え、子会社にて教育関係を扱うメーカー、教育関連のソフトウェア企業、出版関係の順に優先度を割り振った

(この辺りの明確なポリシー決めが無闇に受験企業を増やさない事につながり、余裕のある就職活動ができた)

− 企業のマイページ等を早急にチェック出来るようにするため、快適にPCのサイトが閲覧できるイーモバイルの「EM・ONE」を購入

(PCと同等のブラウザ環境を出先でも使えることは、今でこそスマートフォンの普及で当たり前になったものの、自分が就職活動をしていた2008年の3-4月頃ではまだ、珍しかったのです。ちなみにiPhone 3Gが日本で発売されたのが、この年の7月)

− SPI対策にニンテンドーDSのソフトを試験が本格化するよりかなり前に購入、移動中や隙間時間に適宜実施

− mixiなどのSNSで受験すべき会社の情報や口コミを自己発信型で収集しつつネット上の様々なサービスで情報も日々収集

(投稿も積極的に実施、その反応から別の情報を引き出す。もともとネットリテラシーは高校生の時から自分で学んでいたので、それをうまく活用した)

特に、当時の就職活動はPCが前提のものが殆どだったのですが、EM・ONEのおかげで移動中の電車でマイページやリクナビ/マイナビ、大学のwebメール等がすべて確認できました。そのため、企業の会社説明枠争奪戦や選考通過後の日程予約も楽勝で、4月1日は、別の企業の選考を受け終わった後の駅のホームでKDDIの一次選考の結果を確認、その場で二次選考の日程を予約した事を覚えています。

また、SPI対策は塾講師の算数と理科の指導経験が大いに活き、答えを素早く、なるべく暗算で出せる手法を身につけていた事が大きなプラスになりました。世の中何がどこで役立つか分からないものだな、と思ったものです。

おかげで、大手企業の選考が本格化する前に内定も確保し、安心して選考に望めました。結果的にKDDIから内定を頂くことができ、GW前に私の就職活動は終わりになりました。

ちなみに、私に教育ICTの道を拓いてくれたソニーは、最終面接まで進んだもののご縁がないという結果に終わりました。高校受験や大学在籍中も、自分はずっと周囲にソニーに行きたい、と話していた事もあり、この結果だけは就職活動において悔しさを残しました。ただ、受験勉強を勝ち抜く勇気を与えてくれた事、自分に強い軸を与えてくれたソニーの事は今でも大好きですし、自分にとって大切な存在です。今後、仕事などでソニーと一緒に何かが出来る機会があれば、それは本当に嬉しい事だと思います。

2年の浪人から上場企業内定が取れた理由

これはあくまで自己分析ですが、2年の浪人という泥沼から「上場企業」と呼ばれる大手企業の内定に進むことができたのは、「自分の軸がしっかりしていたから」、そのために「高校・浪人・大学・バイト・大学院の各段階で、しっかりと自分の頭で、軸に照らし合わせて考えたから」、そして、できるかどうかはわからないけど「自分が人生において挑戦をしたいこと」を明確にし、かつ「それを行えそうな会社」という観点で就職活動を進めたことが、最終的な強みになったのではないかと思います。

もちろん、上場企業に入社することがゴールであるとも思いません。単なるスタートです。

ですが、「自分には無理」と決め付けず、まずは自分が「何に問題を感じているか」「それを解決したいと思うか」という、課題解決型で考えてみることが、将来を切り開くきっかけになるかもしれません。

なお、2年浪人していること、決して「優秀校」というわけではない工学院大学出身ということ、理系の院卒であるのにもかかわらず”推薦”を使うことなく自由応募で入社したことなどが、入社してから不利に働くこともあるかも、と当初は心配していましたが、今の所そういうことは全く感じいないことも付け加えておきます。(もちろん、これからは全くわかりません。日々、精進あるのみ、です。)

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