7歳で小学校を退学すると決めた同級生の話

自由とは自分の良心や興味関心に従って行う行動について,物理的,倫理的に制約を受けないことをいうのだろうか。
小・中学校の同級生にバンチャンという子がいた。バンチャンは僕のうちの近くの雇用促進住宅にお父さんと二人で住んでいた。小学1年生の時,バンチャンのうちに一度だけ遊びに行ったことがある。
ある冬の寒い日,僕とバンチャンは帰り道が一緒になり,そのままバンチャンのうちにあがらせてもらった。バンチャンのうちは6畳二間の典型的な団地の間取りで,部屋の中には衣類やら食品の包み紙や雑誌やらが散乱しており,お父さんの焼酎と缶ピー(缶入りの「ピース」というたばこ)のにおいが充満していた。その間隙をぬって,部屋の一番奥には薄っぺらいマットレスと一枚きりの毛布がくしゃくしゃになっていた。
バンチャンは部屋に戻ってくると,寒い寒いと言って,最近お父さんに買ってもらったというスキーウェアを着こみ毛布にくるまった。寝るときもこんな姿でお父さんにしがみついて一緒に毛布にくるまるのだという。部屋の中には暖房器具のようなものはなかったような気がする。
しばらくバンチャンとテレビでパーマンを見た。寒かったのでバンチャンは毛布を半分わけてくれた。その後,バンチャンはお腹がすいたと言って,その辺からプロ野球チップスとチョコパイを見つけ出し食べだした。お父さんの帰りは遅いので,これが晩御飯だという。僕はバンチャンの晩御飯を分けてもらうのが悪いような気がして,うちに帰った。
バンチャンのお父さんは日雇いのような仕事をしていたようで,曜日や時間に関係なく,仕事があるときにはうちを空けて,仕事がない時にはうちにいたらしい。他人から見ればひどい生活かもしれないが,バンチャンはそれなりにお父さんに愛され,大事にされていたように思う。
こんな生活なので,バンチャンには3度きちんと食事をする,時間に従って行動する,身の回りを清潔に保つなどの基本的な生活態度が備わっていなかった。好きな時に食べて,寝て,遊んでいた。もちろんバンチャンのお父さんもそんな感じで,仕事がない日に突如学校に現れ,自主的に授業参観を強行し,担任の先生に「こいつをよろしくお願いします」などと言って何度も頭を下げていた。こんなお父さんをみんなは笑った。
お父さんはクラスに2枚提供する雑巾は持たせない,弁当の日はもちろん手ぶらで登校させる,先生からのお知らせはいつもなしのつぶて,こんなふうだから,もちろんバンチャン自身も学校生活に適応していなかった。授業中に歩き回る,奇声を発する,「いただきます」まで給食を待てない。そして,いつの間にか家に帰ってしまう。本当に自由に生きていた。
しばらくすると,バンチャンは学校に来なくなった。彼が学校から姿を消して約1週間後,僕は彼を発見した。バンチャンは,当時近所の子どもたちから「ひげじい」と呼ばれていたてんかんの発作持ちの青年と神社でキャッチボールをしていた。僕は,バンチャンにどうして学校に来ないのか聞いた。彼はさっぱりとこう答えた。
「たるいで,やめたわ(かったるいので,やめてやった)。」
これは小学1年生だった僕にとって衝撃的な答えだった。7歳の僕でも学校という制度の持つ強制力は理解していて,それはやめたくてもやめられるものではないとわかっていた。しかし,バンチャンはいとも簡単に「やめた」と言ってのけた。しかも,つまらないという理由で。
今考えると,なかなか興味深い。7歳の少年にさえ「学校に通わなければならない,それは逃れられない」ということを深く刻みつける制度の力とは一体どのようなものか。そして,僕のほうがごく普通の少年であって,バンチャンのほうがかなり特殊な少年であっただろうという事実。
おそらく当時日本に住んでいた少年の大部分は学校に通うことに疑問を持っていなかったに違いない。もちろん,好き嫌いはあっただろうが,「学校に通わなければならない」という前提を疑っている者は少なかっただろう。もちろん僕もこの前提について疑うことはなかった。だからこそ,いとも簡単に小学校退学を自らの自由意思で決定し,それを見事に実行してしまったバンチャンの突き抜けた自由さに衝撃を受けた。
これは生まれてこのかたまったく規律や訓練といったものに無縁であったろうバンチャンだからこそできた行動だったと思う。だが一体,僕たちはいつどんなことを契機にして学校に通わなければならないというような制度の力を身体に刻みつけられるのだろうか。
しばらくしてバンチャンは担任の先生に見つけられ(チクったのは僕ではない),再び学校に収容された。しかし,相変わらず彼は学校生活に適応できず,2年生の終わりには特別支援学級(そのころは特殊学級と呼ばれていた)に再配置され,それは小学校を卒業するまで続いた。当時,この小学校では素行の悪い児童を懲罰的な意味を兼ねて短期的に特別支援学級にブチ込むという信じられないことをしていた(実は僕も1度入れられそうになった)。
バンチャンはただ学校生活に適応できないという理由だけで特別支援学級に入った。他に理由はない。特別に配慮が必要な障がいがあったわけではないと思う。それは彼が中学校では3年間普通クラスに通ったことから考えても間違いない。
フーコーは「監獄の誕生」で近代社会における個人の身体に侵入する支配と権力の形式を〈規律・訓練〉から読み解いた。近代社会における権力とは,ある種の人物が特権的に独占し他の人に作用を及ぼしていく力ではないことを近代以前の王政における権力構造との比較から明らかにしている。
近代社会における権力は,〈規律・訓練〉を通して個人の身体を拘束し,それが強制されているという意識を抱かせることなく個人をある一定の行動様式の中に封じ込める。繰り返される〈規律・訓練〉の中で人はいつのまにか,みんながそうしているという理由だけで,それに従う。
このような行動様式はキリスト教修道院における厳格な信仰生活をモデルとし,近代以降は軍隊,学校,病院,工場にまで拡張した。そして,〈規律・訓練〉を受け入れない身体は監獄に収容されることになる。かつてのフランスの監獄は犯罪者だけではなく,失業者,放蕩者,怠惰な者すらも収容したらしい(ちなみに,現在の仕事の契約が来年3月末までなので,僕は来年4月1日に失業者となり,時代が時代なら監獄行きだ。怠惰,放蕩という部分でも思い当たる節があるので,もうこれでは監獄行きは免れないだろう。)。
学校には無数の規則が存在する。8時までに登校しなくてはならない。廊下は走ってはいけない。前髪は眉毛にかかってはいけない。靴下は白くなくてはいけない。数えあげればきりがない。そして,運動会ではひたすら行進やマスゲームの訓練にあけくれ,合唱コンクールでは声を合わせて歌うことを訓練する。規則と訓練の繰り返しからは,それに対応する瞬発力だけが鍛え上げられる。
例えば,朝8時までに登校しなければならないという規則に従うために,大急ぎで飛び起きて顔を洗い,朝食を済ませ,学校へと急ぐ。このような行為の繰り返しの中では,なぜ朝8時に学校に行かなければならないのかという問いを持つことは無意味(現に身体的な行為として急いでいるから)であるばかりでなく,これまで朝8時に登校しようと繰り返されてきた自身の努力さえも否定することになるので,問いを持つことさえも煩わしくなる。こうして,生徒はいつの間にか〈規律・訓練〉を受け入れ,そもそも「なぜ,それをするのか」ということを考えなくなっていく。
もちろん僕の学校生活が全て〈規律・訓練〉に塗り込められた灰色のものであったとは言わないが,少なくとも多くのことを無条件に信じさせられていたとは言えるだろう。だから,バンチャンが学校をやめると言ったときに7歳の少年であった僕は衝撃を受けたのだ。
学校の先生はバンチャンに対しおそらく「自分の言うことを聞かない」というよりは「集団生活になじめない=〈規律・訓練〉を受け入れない」という理由で特別支援学級に再配置したに違いない。そして,その心境は制裁というよりも何らかの教育的配慮であると信じて疑わなかっただろう。
これがまさに近代社会における権力作用の発露ではないか。それは,自分の言うことを聞かない者を懲らしめるという属人的な力の行使ではなく,その人に配慮して良かれと思っての行動である。ある行為を行う人間に力の行使を意識させることなく,個人の身体を〈規律・訓練〉に追い込んで行く。
かの有名なパノプティコン(一望監視型監獄)は収容者に生産的な労働習慣を身につけさせたいという情熱と善意からデザインされた。ベンサムが収容者の福祉の向上を真剣に考えていたことはまぎれもない事実である。バンチャンを特別支援学級に再配置した教師とベンサム,この両者の根底には共通した思想が流れてはいないか。
なぜ,人間には〈規律・訓練〉が必要なのか?
人間が人間であるためには,最低限の〈規律・訓練〉が必要であることは素朴に理解できる。〈規律・訓練〉によってより高い地位や経済的利益を得ることができるということも功利的には理解できる。だが,それは決められたルールに従ってゲームを遂行することの利点についての説明にはなるが,そもそもなぜそのゲームが始まったのかという説明にはならない。
バンチャンは決して悪い人間ではなかったし,一緒にいて不愉快な子でもなかった。それどころか,寒がっていた僕には毛布を半分わけてくれ,晩御飯のチョコパイも二つに割って食べろと勧めてくれた。それに学校のトイレのスリッパを人知れずきれいに並べて置くというさりげない心遣いができる子ですらあった。しかし,近代以降の社会を生き抜く上では,こんなさりげないやさしさだけでは不十分であったようだ。
近代社会における〈規律・訓練〉とは一体いかなる現象なのか?
なぜ近代社会は〈規律・訓練〉を必要とするようになったのか?
結局のところ,それは生産活動における効率性の問題であるらしい。このことをフーコーは「経済」の問題として扱っているし,ウェーバーも資本主義が現出する精神的土壌の分析から規律の問題を考えた。結局のところ,生産活動の無限の拡大と〈規律・訓練〉が行きとどいた従順な身体は非常に相性がよかったということらしい。
しかし,もう十分長くなったので〈規律・訓練〉と「経済」の問題は稿を改めたい。
ところで,バンチャンは(もちろん)高校には進学せず,その後,どこかの建設現場で働いているとか,地回りのヤクザの三下になっているなどの噂を耳にしたが,実際のところはわからない。近代以降の社会においては自由な魂が行きつく先は結局このような所にしかないのだろうか。
すいぶんひねくれたことを書いているなあと思ったのであれば,考えてほしい。もしあなたが小学1年生のバンチャンの自由気まままな小学校退学事件を少しでもうらやましい,あるいは痛快であると思ったのであれば,そこには近代以降の社会における〈規律・訓練〉と「経済」の問題が潜んでいることを。

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